59話 人に頼ること
「どうぞ」
目の前へ、湯気の立つお茶が置かれる。
顔を上げると、ヴィンスさんが何事もなかったような表情で、私たちの向かいへ腰を下ろしていた。
「ありがとうございます」
「いただきます」
シリルさんも自然に礼を言う。
さっき私の顔へ触れた人とは思えないほど、平然としている。
(やっぱり日常茶飯事なんだ)
そう結論づけかけたところで、ヴィンスさんの視線が一瞬だけ私とシリルさんの間を往復した。
「……何か?」
「いえ。何もございません」
無表情のまま答えられた。
絶対に何か思っている。でも、見なかったことにしてくれたらしい。
私は出されたお茶を一口飲んだ。温かさが喉を通り、ようやく本当に呼吸が整っていく。
「少しは落ち着かれましたか?」
「はい。ありがとうございます」
「それはよかったです。では、先日の件についてお話を伺います」
ヴィンスさんは机の上へ紙と筆記具を用意した。さっきまでの気遣いは残っているけれど、表情はもう完全に仕事のものへ戻っている。
私も背筋を伸ばした。
「今日、東側の市場で、シャボンノアの名を使って石鹸を売っている露店を見つけました。前に親方と見に行った時はいなかった場所です」
「見つけたのですね。それで、もしかしてご自身で近づかれましたか?」
言いにくい。
「……はい。普通のお客さんのふりをして、一つ買いました」
ヴィンスさんの手が止まった。
しばらく何も言わない。
怒られるより、この沈黙の方が怖い。
「先日、一人で接触しないようお伝えしましたよね。相手が単なる露店商とは限りませんし、背後に誰かいる可能性もあります。今後は絶対に一人で近づかないでください」
「すみません。見つけたらどうしても確かめたくなってしまって……もう一人では近づきません」
ヴィンスさんはまだ少し険しい顔をしていたけれど、それ以上は責めなかった。
隣からも視線を感じる。
「私からもお願いします。無事だったからよかったですけど、相手に正体が知られていたら、何が起きていたか分かりません」
「……はい」
「その件は、あとで改めて話しましょう」
「……やっぱり覚えてたんですね」
「もちろんです」
しっかり覚えていた。
正面と横から叱られ、私はもう何も言えなくなって、おとなしくお茶を飲んだ。
ヴィンスさんはほんの少しだけ口元を緩めたように見えたけれど、すぐに紙へ視線を戻す。
「では、露店について分かっていることを教えてください」
「はい。これにまとめてあります」
手帳を取り出して差し出した。
「露店の場所と男の特徴、それから会話の内容です。私、露店を離れたあと手が震えて書けなくて、シリルさんに代わりに書いてもらいました」
ヴィンスさんは手帳を受け取り、ゆっくり目を通していく。
「かなり詳しく残っていますね」
「必死だったので、覚えてること全部言いました」
「ノアさんは、文字を書ける状態ではありませんでしたから」
シリルさんがさらっと足す。
「シリルさん、それ言わなくてもよくないですか?」
「事実なので」
容赦がない。
ヴィンスさんが一度だけ私の顔を見る。
やめて。
そんなに心配そうな顔で見られると、こっちまでまた情けなくなる。
「男は中年くらいで、つばの広い帽子を深くかぶっていました。丸い眼鏡と無精ひげがあって、石鹸以外にも櫛や布、小さい食器、香油みたいな瓶を売っていました。いろんな雑貨を扱ってたので、たぶん自分で全部作ってるわけじゃないです」
「実際、本人も売る方専門で、作るのは別の人だと話したんですね」
「はい。どこから仕入れてるのか聞いたら、急にちょっと警戒した感じになって、『商売にはいろいろある』ってごまかされました。店も不定期で、別の市場や隣町へ行くこともあるそうです」
ヴィンスさんは手帳を見ながら、必要なところだけ別の紙へ書き写していく。
「製造者ではない可能性は高そうですね。扱っている商品の種類も多いですし、この男だけを見つけても終わらないかもしれません」
「私もそう思います。これ、今日その露店で買った石鹸です」
買い物かごから、薄い紙に包まれた石鹸を取り出して机の上へ置く。
ヴィンスさんは直接触れず、布を使って包みを開いた。
「先日預かったものと、かなり似ていますね」
「包装も同じでした。シャボンノアの帯も、説明書もありません」
「こちらも一緒に調べましょう。同じものが使われているなら、仕入れ元を追う材料になります」
私はそこで、ずっと気になっていたことを聞く。
「前に預けた石鹸の結果って、まだですよね?」
「簡単な結果なら、明日か明後日には出る予定です。何が入っているのか詳しく調べるには、もう少しかかります」
思っていたより時間がかかる。
でも、適当に判断されるよりはいい。
「露店の方は、すぐに人を向かわせます。ただ、ノアさんがここへ来るまでに場所を移している可能性もあります」
「さっきまではいました。もしまだいたら、その場で止めることはできないんですか?」
ヴィンスさんは少し考えてから首を振った。
「すぐに捕まえるのは難しいでしょう。本人が偽物だと知って売っていたとは、まだ証明できません。知らずに仕入れて、本物だと思っていたと言われれば、それだけで話は終わってしまいます」
「でも、シャボンノアの店とそこにしかないって嘘までついてました」
「その発言は重要です。だからこそ、まずは身元を確認して、誰から仕入れているのかまで追いたいんです。下手に動いて逃げられる方が困ります」
なるほど。
見つけたからすぐ捕まえて終わり、ではないらしい。
「今日も何人か買ってました。また手が荒れる人が出たらと思うと、それが心配で」
「市場にはこちらから注意を出します。ただ、伝え方は少し考える必要があります。シャボンノアの偽物が出回っていると大きく広めてしまえば、本物まで疑われるかもしれませんから」
それを聞いて、胸が重くなる。
被害は止めたい。
でも、店の信用まで落とすわけにはいかない。
「難しいですね」
「ええ。だから、ここからは商業ギルドに任せてください。ノアさんが一人で全部何とかしようとする必要はありません」
今日だけで何回似たようなことを言われたんだろう。
親方にもギルドを頼れって言われたし、シリルさんにも一人で動くなって言われた。
やっぱり私は、自分の店だから自分で何とかしないとって思いすぎていたのかもしれない。
「頼ることも、店主の仕事ですよ」
ヴィンスさんが静かに言う。
「店を守るために制度や人を使うことは、責任を放り出すことではありません。むしろ、使えるものをちゃんと使うのも店主の役目です」
その言い方なら、なんとなく分かる。
実際、私一人じゃ石鹸の中身も調べられないし、露店の男を追うこともできない。
親方がいて、商業ギルドが動いてくれて、今はシリルさんまで隣にいる。
全部を一人で抱える必要はない。
「分かりました。ここからはお願いします。ただ、私にできることがあったら言ってください」
「もちろんです」
ヴィンスさんはうなずき、机の上の書類をまとめ始めた。




