51話 思いがけない来客
「どういうことか、説明してもらえるかしら」
険しい声が、店内に響いた。
女性が会計台の上へ置いた包みを見ながら、私はすぐに表情を引き締める。
何が起きたのかは、まだ分からない。けれど、女性がひどく怒っていることだけは確かだった。
「ご不快な思いをさせてしまったようで、申し訳ございません。まずは、何があったのかお聞かせいただけますか?」
「これよ。あんたの店の石鹸を使ったら、手がこんなことになったの」
「石鹸をお使いになって、手に異常が出たということでしょうか?」
「見れば分かるでしょう。赤くなって、かゆくて仕方がないのよ!」
女性は声を強めながら、両手を私へ突き出した。
もともとは手入れの行き届いた、きれいな手だったのだろう。けれど今は、指の間や手の甲に小さな赤い斑点が浮かび、一部は少し腫れているようにも見える。
その時、奥の休憩スペースから椅子が動く音がした。
少しして、親方が静かに顔を出す。
「嬢ちゃん、どうした。何かあったのか?」
「まだ詳しいことは分かりません。親方、すみません。せっかく来ていただいたのに」
「わしは構わんよ」
親方は女性の手元へ一度だけ視線を向けた。
「少し心配だからな。ここにいさせてもらうぞ」
「ありがとうございます」
それ以上口を挟むことなく、親方は少し離れた場所に立った。何かあればすぐに動ける距離で、静かにこちらを見守ってくれている。
私は女性へ向き直った。
「詳しい状況を確認したいのですが、お話を伺いながら内容を紙へ書き留めてもよろしいでしょうか?」
「……好きにしたら」
「ありがとうございます」
紙とペンを用意し、一つずつ確認していく。
「石鹸をお使いになったのは、いつ頃でしょうか?」
「昨日の夜よ」
「手を洗うために使われましたか?」
「そうよ。今朝にも使ったわ」
「症状が出始めたのはいつ頃ですか?」
「朝に使った後よ。最初は少しかゆいだけだったけど、昼を過ぎた頃には赤くなってきたの」
「それまでに、同じような症状が出たことはありますか?」
「ないわよ。こんなふうになったのは初めてよ」
女性の言葉を遮らないよう、順番に書き留めていく。
「当店では、商品と一緒に取り扱いについて書いた説明書をお渡ししています。そちらはお読みになりましたか?」
「説明書?」
女性は眉を寄せた。
「そんなもの、入っていなかったわよ」
ペンを持つ手が、わずかに止まる。
「商品をご購入されたのは、いつ頃でしょうか?」
「数日前よ」
「こちらの店で直接ご購入されましたか?」
「違うわよ。市場の露店で買ったの」
「露店、ですか?」
「そうよ。シャボンノアの石鹸だって言って売っていたわ」
胸の奥に、小さな違和感が走った。
「その露店は、どちらに出ていましたか?」
「東側の市場よ。人通りの多い場所で、大きな声を出して売っていたわ」
「販売していた人の特徴は覚えていますか?」
「男だったわ。帽子を深くかぶっていたから、顔まではよく見ていないけど」
「承知しました」
内容を書き留めながら、会計台の上に置かれた包みへ目を向ける。
シャボンノアの商品を市場の露店へ卸したことなんて、一度もない。
「お客様。現在、シャボンノアの商品を販売しているのは、こちらの店とひだまり亭だけです。市場の露店へ商品を卸したことはございません」
「え?」
女性の表情が変わった。
「じゃあ、これは何なのよ!」
女性は包みを乱暴に開いた。
中から現れたのは、使いかけの石鹸だった。
私は思わず目を細める。
アラボン石鹸を真似たものなのだろう。
ころんとした形も、小さな耳も、それらしく作られている。けれど輪郭はいびつで、左右の形も揃っていない。
「確認のため、こちらの石鹸を拝見してもよろしいでしょうか?」
「ええ。好きなだけ見ればいいわ」
「ありがとうございます」
直接触れないよう、包んであった布越しに石鹸を持ち上げ、光の当たる場所へ移動させた。
見れば見るほど違和感がある。
色が違う。
うちの石鹸より濁っていて、わずかに黄ばんでいる。鼻を近づけてみれば、香りも薄く、古い油のようなにおいが混ざっていた。
私は棚から本物のアラボン石鹸を一つ取り、蝋引き紙の包みを開いて隣へ並べた。
「こちらが、当店で販売しているアラボン石鹸です」
並べてみれば、違いははっきりしていた。
色も形も、表面の滑らかさも違う。同じアラボンを真似てはいるものの、耳や顔の輪郭もまるで同じではない。
女性は二つの石鹸を見比べ、困惑した表情を浮かべた。
「でも、同じ名前で売っていたのよ。形だって同じようなものじゃない」
「はい。かなり似せて作られています」
私は棚から包装済みの商品を一つ手に取った。
「当店では、商品をこのように蝋引き紙で包み、店の名前が入った帯を巻いた状態で販売しています。お渡しする際には、取り扱いについて書いた説明書も必ず一緒に入れています」
「そんなもの、なかったわ」
「石鹸は、どのような状態で渡されましたか?」
「薄い紙で包まれていただけよ。袋も普通のものだったわ」
「店の名前が入った帯も、説明書もなかったのですね?」
「なかったわよ」
小さく息を吸う。
石鹸そのものだけではない。包装も、売り方も、うちの商品とは違っていた。
「現時点で断定することはできませんが、こちらは当店で製造、販売した商品ではない可能性が高いです」
「可能性って何よ!」
女性は赤くなった手を突き出した。
「じゃあ、この手はどうしたらいいのよ!」
声が震えている。
怒りだけではない。不安と悔しさが入り混じっているように見えた。
「まず、その石鹸の使用はすぐに中止してください。手だけでなく、体や衣類にも使用しないでください」
「それで、この手は治るの?」
「治るかどうかは、私には判断できません。ただ、これ以上その石鹸を使わないでください」
私は女性の目を見ながら、できるだけ落ち着いて話す。
「失礼でなければ、もう一度お手を詳しく見せていただけますか?」
女性はためらいながらも、両手を差し出した。
肌には触れないようにしながら、赤くなっている箇所を見る。指の間と手の甲を中心に、小さな赤い斑点が広がっていた。
「かゆみ以外に、痛みや熱を持ったような感じはありますか?」
「少しひりひりするわ」
「息苦しさや、顔が腫れたりはしていませんか?」
「それはないけど……」
「分かりました」
私はすぐに手洗い場へ案内した。
「念のため、一度石鹸を使わずに水だけで優しく洗い流しましょう。強くこすらないようにしてください」
「それで大丈夫なの?」
「水で洗えば治るという意味ではありません。手に残っているものを落とすためです。そのあとは、できるだけ早く治療院で診てもらってください」
「……分かったわ」
女性は小さくうなずき、慎重に手を水へさらした。
「こすらず、水を当てるだけで大丈夫です」
「ええ」
赤くなった自分の手を見つめているうちに、女性の目に涙が浮かぶ。
「私、ずっと手だけはきれいだって言われていたのよ」
「はい」
「仕事でも、人に見られることが多いの。こんな手じゃ……」
言葉の途中で、女性は唇をかんだ。
怒っていたのではない。
本当は、怖かったのだ。
このまま治らなかったらどうしよう。元の手に戻らなかったらどうしよう。
そんな不安を抱えたまま、ここまで来たのだろう。
「怖い思いをされましたね」
私は静かに言った。
「こちらの商品ではない可能性が高いと考えています。でも、シャボンノアの名前を信じて買われたもので、お客様がこんな思いをされたことを、関係ないとは思っていません」
女性が顔を上げる。
「販売していた露店のことも、この石鹸のことも、こちらで確認します」
「でも、治るかどうかは分からないんでしょう?」
「はい。私には治療の判断はできません。だからこそ、今は治療院で診てもらうことを一番に考えてください」
清潔な布を差し出す。
「手を押さえるようにして、水気を取ってください。強く拭かないでくださいね」
女性は布を受け取り、そっと手へ当てた。
「治療院までの場所は分かりますか?」
「ええ。近くにあるところなら」
「診てもらったあと、治療院で言われたことを教えていただけますか? こちらでも記録して、今後の対応を考えたいと思います」
「そこまでしてくれるの?」
「当店の商品ではないから関係ない、とは言えません。シャボンノアの名前を信じて購入されたのですから」
女性の険しかった表情が、わずかに緩んだ。
「こちらからもご連絡を差し上げたいのですが、どのようにご連絡させていただくのがよろしいでしょうか?」
「私は近くの服飾店で働いているわ。店に伝言を残してくれれば分かると思う」
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「リディアよ」
「リディアさんですね」
名前と勤務先を書き留める。
「原因を確認するため、こちらの石鹸と包んでいた紙をお預かりしてもよろしいでしょうか?」
「ええ」
「販売場所や売っていた人について、ほかに思い出したことがあれば、どんな小さなことでも構いませんので教えてください」
「分かったわ」
リディアさんは赤くなった手を見つめ、静かに息を吐いた。
来店した時ほど怒りは表に出ていない。でも、不安が消えたわけではない。
「まずは治療院へ行ってください。こちらのことは、必ず確認します」
「……お願いね」
「はい」
店の外までリディアさんを見送った。
扉が閉まり、カラン、と小さな音が残る。
店内へ戻った途端、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
「親方、本当にすみませんでした。せっかく来てくださったのに、こんなことになってしまって」
「わしのことは気にするな」
「でも、親方がいてくださって心強かったです。ありがとうございました」
「わしは何もしておらんよ」
そう言いながら、親方は会計台に残された石鹸へ目を向けた。
「それにしても嬢ちゃん、よくあれだけ落ち着いて話を聞けたな」
「全然、落ち着いていませんよ」
「そうか?」
「はい」
親方が私の手元を見る。
「手が震えてるぞ」
言われて自分の指先へ目を向けると、たしかにわずかに震えていた。
「お客さんの前で慌てるわけにはいきませんから」
「大したもんだ」
私は深く息を吐き、残された石鹸を見つめた。
色も違う。
匂いも違う。
形も、包装も、売り方も違う。
それでも、シャボンノアの名前を使って売られていた。
「まずは、この石鹸について確認しないといけませんね」
「確認するといっても、嬢ちゃんだけで何が分かる?」
「そうなんですよね」
石鹸を見ながら考える。
「色や匂いの違いなら分かります。でも、何を使って作ったのかまでは分かりません」
「嬢ちゃん、商業ギルドに商品を登録しているんだろう?」
「はい」
「なら、まずは商業ギルドへ報告しろ」
親方の言葉に、私は預かった石鹸を見つめた。
シャボンノアの名を使った、身に覚えのない商品。
これはもう、私一人で抱えていい問題ではなかった。




