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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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46話 契約成立

「以上で、双方の契約は成立しました」


 商業ギルドの職員が、机の上に並べた書類を丁寧に揃えた。


「こちらがシャボンノアで保管する分です。もう一部はリーベル商会で保管してください。原本は商業ギルドでお預かりします」

「ありがとうございます」


 私は差し出された書類を、両手で受け取った。


 何度も内容を読み直し、分からないところはすべて説明してもらった。


 液体石鹸の容器を考案したのは私であり、その権利も私が持つこと。すでに登録しているシャボンノアの商標についても、今回の契約によってリーベル商会へ権利が移ることはない。


 試作に必要な費用はリーベル商会が負担し、完成しなかった場合でも私へ請求しないこと。


 商品として販売できる物が完成した場合は、販売や流通について、まずリーベル商会へ優先的に相談すること。


 さらに、販売する容器にはシャボンノアの名を入れること。アラボンの絵を入れた容器は、シャボンノアの店頭限定とすることも、きちんと書かれていた。


 どれも、私が確認したかった内容だ。


 隣に座るトムさんも、書類へ真剣な目を向けている。商売の専門家ではない。それでも今日は、私のために宿をエマさんへ任せ、一緒に来てくれた。


 向かい側には、ライネルさんとシリルさんが並んでいる。


 ライネルさんは自分たちの分の書類を受け取ると、もう一度内容を確認してから鞄へしまった。


「これからよろしくお願いします、ノアさん」

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 差し出された手を、私も握る。


 たった一度の握手。でも、それまでとは意味が違う。今日からシャボンノアとリーベル商会は、一つの商品を一緒に形にしていく相手になったのだ。


「無事に終わりましたね」

「はい。少し緊張しましたけど」


 シリルさんが微笑み、私もようやく肩の力を抜いた。


 契約前に女性職員が運んでくれた紅茶は、ほとんど手つかずのまま机に置かれている。一口飲んでみると、すっかり冷めていた。


 それでも今は、その冷たさがちょうどよかった。


「ところで、ノアさん」


 ライネルさんが何気ない調子で声をかける。


「はい?」

「ご結婚はされているんですか?」


 紅茶を吹き出しかけた。


 どうにか飲み込み、慌ててカップを机へ戻す。


「え?」

「兄さん、急に何を聞いているんですか」

「契約も終わったことですし、少しくらい世間話をしてもいいでしょう」

「世間話でいきなり聞くことではないと思います」

「では、恋人はいらっしゃるんですか?」

「質問を変えればいいという話ではありません」


 兄弟のやり取りを聞きながら、熱くなった頬を押さえた。


「結婚もしていませんし、恋人もいません」

「そうでしたか」

「今のところ、私の恋人は石鹸です」


 真面目な顔で言い切る。


 一瞬、部屋が静かになった。


 それからライネルさんが小さく笑い、シリルさんは口元を手で隠した。


「なるほど。なかなか手強い恋人ですね」

「毎日振り回されています」

「別れる予定は?」

「ありません」


 私は冷めた紅茶をもう一口飲んだ。


 こんな質問をされたのは、いつ以来だろう。そもそも、この世界へ来てから聞かれた覚えがない。


「なんだか恥ずかしいので、この辺で勘弁してください」

「失礼しました」


 ライネルさんは楽しそうに謝った。


 その横で、シリルさんがまだ納得していない様子で兄を見る。


「本当に何の確認だったんですか」

「特に深い意味はないよ」

「兄さんがそう言う時は、大抵何かあります」

「考えすぎだ」


 そこへ、低い声が割って入った。


「ノアに恋人ができるなら、俺が認めた奴じゃないと駄目だ」


 隣に座っていたトムさんだ。


 思わず目を丸くする。


「トムさん?」

「当然だろう。うちの大事な娘みたいなもんなんだから」

「娘……」

「変な男に任せられるか」


 トムさんは腕を組み、ライネルさんとシリルさんを順番に見る。


 なぜか、シリルさんのところで視線が止まった。


 シリルさんがわずかに姿勢を正す。


「トムさん、今は契約の話をしに来たんですよ」

「契約はもう終わっただろう」

「そうですけど」


 どうしたものかと困っていると、先ほど紅茶を運んでくれた女性職員が、新しいお湯を持って部屋へ戻ってきた。


 そして、室内の妙な空気を察したのか、ぴたりと足を止める。


 契約書を抱える私。楽しそうなライネルさん。兄を警戒するように見ているシリルさん。そして、腕を組んだまま、そのシリルさんを見ているトムさん。


 女性職員は、しばらく全員を見回した。


 その顔には、はっきりと書いてある。


 ――来るタイミング、失敗した。


 いたたまれなくなり、両手で顔を覆った。


「本当に、もう勘弁してください……」


 部屋に笑い声が広がる。


 張りつめていた契約の空気は、いつの間にかすっかり和らいでいた。


 ◇


 商業ギルドを出たあと、私たちはそのまま職人街へ向かった。


 契約が成立したことを、親方へ伝えるためだ。


 私の鞄には正式な書類と一緒に、アラボンの図案も入っている。容器へ絵を入れるため、絵付けをする職人にも見てもらう予定だった。


 工房の扉を開けるより先に、中から大きな声が聞こえてくる。


「まだか!」


 何がまだなのだろう。


 ライネルさんが扉を開けると、親方が勢いよく振り返った。


「おい、ライネル! 決まったのか!」

「先ほど契約が成立しました」

「よし、なら作っていいんだな!」


 親方は返事を最後まで聞かず、そのまま作業台へ向かおうとする。


「親方、少し待ってください」

「何だ。契約は済んだんだろう」

「済みましたが、まずは材料と工程の確認をします」

「そんなものは作りながら考えればいい」

「試作費を出すのは商会です」


 親方の足が止まった。


「……細かい男だな」

「商人ですから」


 二人の間に、見えない火花が散った気がした。


 私は隣のシリルさんへ小声で尋ねる。


「いつもこうなんですか?」

「大体こうです」

「大変ですね」

「兄が一番大変だと思います」


 親方は待ちきれない様子で、机の上へ図面を広げ始めた。


 ライネルさんが小さく息を吐き、それからシリルさんを振り返る。


「シリル」

「はい」

「私は親方と、材料費や工程について確認する」


 嫌な予感がしたのか、シリルさんが少し眉を寄せた。


「お前はノアさんを、金属職人と絵付け職人のところへ案内してくれ」

「僕がですか?」

「場所は知っているだろう」

「知っていますけど」

「では頼んだよ」


 ライネルさんは返事を待たず、親方の広げた図面へ視線を戻した。


「まず、どの部品を金属で作るのか整理しましょう」

「全部頭に入ってる!」

「親方の頭の中だけでは記録に残せません」


 早くも二人の話し合いが始まる。


 シリルさんはしばらく兄の背中を見つめたあと、諦めたように息を吐いた。


「分かりました」


 そして、私へ向き直る。


「では、行きましょうか」

「お願いします」


 私はアラボンの図案が入った鞄を抱え直した。


 契約は終わった。でも、本当の意味での商品作りはここからだ。


 親方の大声を背中に聞きながら、私はシリルさんと一緒に次の職人のもとへ向かった。

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