45話 譲れないもの
「リーベル商会と一緒に、商品を作っていきたいと思います」
机を挟み、私はまっすぐシリルさんを見た。
夕暮れ前に店を閉め、帳面や商品を片づけたあと、約束通り訪れたシリルさんと、売り場の隅に置いた小さなテーブルで向かい合っている。机の上には、契約について確認したいことを書き出した紙を置いていた。
私の返事を聞くと、シリルさんは柔らかく微笑んだ。
「決断してくださって、ありがとうございます」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
頭を下げてそう口にした瞬間、胸の中に残っていた緊張が少しほどけた。気持ちはとっくに決まっていたけれど、本人へ伝えるまではどこか落ち着かなかったのだ。
「悩まれましたか?」
「一日だけ、たくさん悩みました。でも、決めてからはずっとわくわくしていて。早くお返事したかったです」
「そうでしたか」
シリルさんは少し考えるように目を伏せた。
「それなら、もう少し早く伺った方がよかったでしょうか」
「いいえ。待っている時間も、大事だったと思います」
決断した直後に返事をしていたら、勢いのまま進んでいたかもしれない。二日間、いつも通り店を開けて石鹸を作り、お客様を迎えた。その中で何度考えても、答えは変わらなかった。
「たぶん、今日でよかったんです」
「分かりました」
シリルさんは静かにうなずいた。
「では、正式な契約までの流れをご説明します」
私も姿勢を正す。
ここからは、商売の話だ。
「まず、契約は商業ギルドを通して行います。試作に必要な費用や、完成したあとの取引条件についても、すべて書面に残します」
「はい」
「親方から聞いた金額は、あくまで最初の見積もりです。試作の回数や金属部品の出来によっては、増える可能性があります」
「やっぱり、最初の金額で確定ではないんですね」
「ええ。ただし、追加費用が必要になった場合、ノアさんへ無断で進めることはありません」
それなら安心できる。費用を商会が負担するとはいえ、知らないうちに金額だけが膨らんでいくのは怖い。
「試作費用は、リーベル商会が負担するというお話でしたよね」
「はい。完成しなかった場合も、ノアさんへ請求することはありません」
「借金にはならない、ということですか?」
「なりません」
シリルさんははっきりと答えた。
「その代わり、商品として販売できる物が完成した場合は、リーベル商会にも製造や販売へ関わる優先権をいただきたいと考えています」
「その場合は、売上の一部をお渡しする形ですか?」
「そうなると思います。詳しい割合は兄と相談した上で提示します。もちろん、ノアさんが納得できなければ契約する必要はありません」
シリルさんは一つずつ丁寧に説明してくれる。急かす様子はないけれど、曖昧な言い方もせず、必要なことはきちんと伝えてくれた。
「それから、シャボンノアの商標はこれまで通りノアさんのものです。今回の契約によって、商会側がその権利を持つことはありません」
「容器については?」
「考案者はノアさんですから、容器そのものの権利についてもノアさん側に残す形で話を進める予定です。正式な内容は契約書で確認してください」
「そこも、商業ギルドで確認できますか?」
「もちろんです」
机の上の紙へ目を落とす。聞きたいことを書き出しておいたおかげで、少しずつ不安が整理されていく。
「契約の日に、どなたか一緒に来られても構いません」
「一緒に?」
「ご家族や、信頼できる方です。契約内容を一人で確認するのが不安なら、同席してもらってください」
頭に浮かんだのは、エマさんとトムさんの顔だった。二人とも商売の専門家ではないけれど、そばにいてくれるだけでも心強いだろう。
「聞いてみます」
「そうしてください。こちらからは、兄と僕が伺います」
私はうなずき、次の水の日の日程を確認した。
「次の水の日が、お店の定休日なんです。その日に商業ギルドへ行けますか?」
「僕は大丈夫です。兄にも確認しますが、おそらく問題ありません」
「では、次の水の日でお願いします」
「もし都合がつかなければ、明日までにお知らせします」
正式な契約の日が決まった。
話が一つ進むたびに、紙の上だけだった容器が少しずつ現実へ近づいていく。
「それと、もう一つ確認したいことがあります」
「何でしょう」
「この容器が完成したら、リーベル商会でも販売するということで合っていますか?」
「はい。その予定です。ただし、販売方法については契約の際に相談することになります」
「分かりました。販売すること自体には賛成です。ただ、一つお願いがあります」
私一人では遠くの街まで商品を届けることはできない。大きな商会の販売網を使えるなら、もっと多くの人に知ってもらえる。
液体石鹸だけでなく、香油や薬液を入れる容器として使われることだってあるかもしれない。
でも、どこで売られても同じ物になってしまえば、シャボンノアの存在が薄れてしまう。それだけは避けたかった。
「一般に販売する物には、必ずシャボンノアの名前を入れてほしいんです」
「容器そのものに、ですか?」
「はい。陶器に文字を入れて、シャボンノアから生まれた物だと分かるようにしたいです」
シリルさんはすぐに否定せず、内容を確かめるようにうなずいた。
「それと、シャボンノアのお店では二種類置きたいです」
「二種類?」
「名前だけ入れたものと、アラボンを入れたものです」
シリルさんの口元がわずかに緩む。
「今朝の、手を洗う動物ですね」
「動物というより、アラボンです」
「失礼しました」
律儀に謝るシリルさんがおかしくて、思わず少し笑ってしまった。
「名前だけのものは、ほかのお店と同じように販売します。でも、アラボン入りだけはシャボンノアの店頭でしか買えないものにしたいんです」
「アラボン入りは、こちらのお店だけで販売するということですね」
「はい。ここへ来てくださった方だけが買えるものにしたくて」
それなら、ほかの店に並んでもシャボンノアの商品だと分かるし、本店へ足を運んでもらう理由も作れる。遠くから来た人が、アラボン入りの容器を目当てに店へ来てくれることだってあるかもしれない。
「そこは、できれば譲りたくありません」
まっすぐシリルさんを見る。
少し強く言いすぎただろうかと思ったけれど、ここで曖昧にしたくはなかった。
シリルさんはしばらく考えたあと、静かにうなずいた。
「可能だと思います」
「本当ですか?」
「僕の判断では問題ありません。一般販売を妨げる条件ではありませんし、商品の出所を明確にすることは商会にとっても悪い話ではないでしょう」
ぱっと表情が明るくなる。
シリルさんは手元の紙へ内容を書き留めた。
「一般販売用と、シャボンノアで販売する通常のものには店名を入れる。アラボン入りはシャボンノア限定にする、ということですね」
「はい」
「契約書へ入れられるよう準備します。ただし、兄にも一度確認します」
「お願いします」
「アラボンの絵については、正式な図案も必要になりますね」
「図案なら、たくさんあります」
「たくさんあるんですか?」
「いろいろ働いてもらっているので」
即答すると、シリルさんが小さく笑った。
「アラボンも大変ですね」
「本人は楽しそうですよ」
棚の上に置かれたアラボンは、今日も泡を抱えて笑っている。
本人と言っていいのかは分からないけれど、私の中ではすっかりシャボンノアの一員だった。
その後も細かな確認をいくつか続けた。
試作品の進み具合は定期的に知らせてもらうこと。形や使い心地に関わる変更をする時は、必ず私の了承を得ること。そして、今回の契約に液体石鹸の作り方は含めず、容器の相談に必要な範囲を超えて製法を伝える必要はないこと。
「今日のところは、このくらいでしょうか」
シリルさんが書き留めた紙を確認する。
「正式な書類は、契約の日までに準備します」
「分かりました」
話すべきことは話せた。胸の中にあった不安も、かなり小さくなっている。
窓の外を見ると、すでに日は沈みかけていた。
「随分遅くなってしまいましたね」
シリルさんが立ち上がる。
「宿までお送りします」
「大丈夫ですよ。いつも一人で帰っていますから」
「今日は僕がお引き止めしましたので」
そう言われると、断りづらい。それに朝から、帰りが遅くなるなら送ると言ってくれていた。
「では、お願いします」
帳面と紙を片づけて店の戸締まりを確かめ、二人で外へ出る。
夕暮れの空は淡い紫色へ変わり始め、通りには家路を急ぐ人の姿があった。店先からは片づけの音も聞こえてくる。
私たちは並んで歩き始めた。
正式な契約は、次の水の日。それが終われば、いよいよ試作品作りが始まる。
「うまくいくといいですね」
「うまくいかせます」
迷わず答えると、シリルさんがこちらを見る。
「シリルさんも手伝ってくれるんでしょう?」
「もちろんです」
「じゃあ、心強いです」
そう言うと、シリルさんは少しだけ目を細めて笑った。
しばらく並んで歩いたところで、ふと周囲を見回す。
夕暮れの道を、シリルさんと二人で歩いている。考えてみれば、こうして店の外でゆっくり話すのは初めてだった。
「なんだか変な感じです」
「何がですか?」
「シリルさんと、宿まで一緒に歩いていることです」
「僕と歩くのが、そんなに変ですか?」
「変というか……お店で石鹸を買ってくださる人、という印象が強かったので」
「冒険者ではなく?」
「最初は冒険者だと思っていました」
「今は違うんですか?」
「今は……冒険者で、リーベル商会の方で、親切な人です」
「それだけですか?」
少しからかうような言い方に、横目でシリルさんを見る。
「ほかに何かありましたっけ?」
シリルさんは少し黙ったあと、小さな声で呟いた。
「イケメン、とか」
危うく足を止めそうになった。
「本人が言っちゃいます?」
シリルさんが楽しそうに笑う。
「朝、聞こえていましたから」
「えっ」
店内で一人になったと思って口にした言葉が、一瞬で頭をよぎった。
――イケメンなのに紳士って……。
「聞こえてたんですか?」
「少しだけ」
「扉、閉めてましたよね?」
「少し耳がいいので」
「それ、少しじゃないですよね?」
思わず突っ込むと、シリルさんの笑みがさらに深くなった。
「忘れてください」
「難しいですね」
「そこは忘れてください」
「努力はします」
「絶対、忘れる気ないですよね」
夕暮れの道に、二人の笑い声が重なった。
正式な契約は、次の水の日。その先には、まだ形のない容器と新しい液体石鹸が待っている。
でも今は、隣を歩くシリルさんとの何気ない会話が、少しだけ楽しかった。




