44話 約束の日
約束の日の朝。
私はいつもより少し早くシャボンノアへ向かった。
気持ちは、もう決まっている。
リーベル商会の提案を受けて、液体石鹸の容器を親方と一緒に完成させる。その答えを、今日はシリルさんへ伝えるのだ。
ただ、一つだけ問題があった。
「何時に来るんだろう……」
三日後にシリルをシャボンノアへ向かわせる。ライネルさんは、そう言っていた。
けれど、肝心の時間を聞いていない。営業時間中なのか、閉店後なのか。それとも昼頃に少しだけ顔を出すつもりなのかもしれない。
「ちゃんと聞いておけばよかったなぁ」
店の鍵を開けながら、小さくため息をつく。
とはいえ、今日は一日中店にいる。待っていれば、いつかは来るだろう。
気持ちを切り替え、店内の掃除を始めた。窓を拭いて床を掃き、棚に並べた石鹸を整える。説明書を補充して、手提げ袋の数も確認した。
最後に、店内のあちこちへ置いたアラボンの絵を見て回る。
泡を抱えるアラボン。石鹸を運ぶアラボン。両手を泡だらけにして、楽しそうに洗っているアラボン。
「今日もよろしくね」
棚の端に立つアラボンへ声をかけた、その時。
コンコン。
扉を叩く音がした。
まだ開店前だ。こんな時間に誰だろう。
「はーい」
「おはようございます。シリルです」
扉を開けると、そこにはシリルさんが立っていた。
「シリルさん?」
思っていたよりも早い登場に、目を丸くする。
「すみません。開店前に」
「いえ、大丈夫です。どうされたんですか?」
「今日、伺う時間をお伝えしていなかったことに気づきまして」
シリルさんは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「営業中にお邪魔するのもよくないと思ったので、先に確認しておこうと」
「あっ」
思わず声が出た。ちょうど同じことを考えていたところだ。
「私も、何時に来られるのか聞いてなかったなって思ってたんです」
「やはり、先に来てよかったです」
シリルさんは安堵したように笑った。
「閉店後に改めて伺いたいのですが、お店は何時頃までですか?」
「日が暮れる前には閉めています。片づけもあるので、少し後まで店にはいますけど」
「では、その頃に伺います」
「分かりました。お待ちしています」
時間が決まっただけで、胸の中にあった小さな落ち着かなさが消えた。これなら一日中、扉が開くたびにシリルさんではないかと気にする必要もない。
「それでは、開店準備のお邪魔になる前に失礼します」
シリルさんが軽く頭を下げる。
そのまま帰ろうとしたところで、不意に視線が店内へ向いた。
「……あれは何ですか?」
シリルさんが見つけたのは、棚の端に立てかけたアラボンだった。
思わず表情が明るくなる。
「お客様、お目が高いですね」
「お客様?」
「こちら、アラボンです」
得意げに絵を示すと、シリルさんは棚へ近づき、じっくりと眺めた。
ころんとした淡い水色の体に、小さな耳と短い手足。両手には、ふわふわの泡を抱えている。
「アラボン……ですか」
「はい、アラボンです」
「かわいいですね」
素直に褒められ、満足そうにうなずく。
「そうでしょう」
「こんなものは初めて見ました。これは、何の動物ですか?」
「えっ」
一瞬、言葉に詰まった。
たぬきのようにも見える。アライグマのようにも見える。でも、そのどちらでもない。
そもそも、何の動物なのかなんて考えていなかった。
「手を洗う動物です」
「手を洗う動物?」
シリルさんが目を瞬かせる。
「でも、動物というよりは……アラボンなんですよ」
「何ですか、それ」
堪えきれなかったように、シリルさんがくすくすと笑った。
からかわれているわけではない。でも、説明すればするほど謎が深まっている気がする。
「アラボンはアラボンです」
真面目な顔で言い切ると、シリルさんの笑みがさらに深くなった。
「分かりました。今は何も聞かないでおきます」
「そうしてください」
「では、続きは夕方に」
シリルさんは扉へ向かいかけ、ふと足を止めた。
「帰りが遅くなるようなら、宿までお送りしますので」
「え?」
「夜道を一人で歩くのは危ないでしょう」
あまりにも自然に言われて、すぐには返事ができなかった。
「ありがとうございます」
ようやくそう答えると、シリルさんは柔らかく微笑んだ。
「では、また夕方に」
「はい。また夕方に」
別れの挨拶のあと、静かに扉を閉めた。
そして、誰もいない店内でぽつりと呟く。
「イケメンなのに紳士って……」
棚の上では、アラボンが変わらず楽しそうに笑っている。
「この世界、どうなってるんだろう」
もちろん、アラボンから返事はない。それでも、どこか呆れたように見えるのは気のせいだろうか。
「何その顔。何か言いたそうだね……」
アラボンへ言い訳をしているうちに、開店時間が近づいてきた。
表の札を返し、扉の鍵を開ける。
今日も、いつも通りの一日が始まる。
石鹸を求めてやって来るお客様を笑顔で迎え、棚から選ばれた商品を会計する。贈り物を頼まれれば包装をして、使い方を尋ねられれば説明する。
忙しく動きながらも、心の片隅では夕方のことを考えていた。
シリルさんへ、どう返事を伝えよう。
契約についても、確認したいことは帳面へ書き出してある。
試作費用をどこまで負担してもらうのか。完成したあとの取引や、容器に関する権利をどうするのか。
今日すべてを決めるわけではなくても、聞いておきたいことはシリルさんに伝えておこう。
まだ分からないことは多いし、怖さだって残っている。
けれど、迷いはなかった。
夕方になれば、きちんと伝えよう。
私は、この挑戦を受けたいと。
そう心に決めながら、今日最初のお客様を笑顔で迎えた。
「いらっしゃいませ。シャボンノアへようこそ」




