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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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43話 お店の顔

 翌朝


 私は、いつもよりすっきりと目を覚ました。


 昨夜、エマさんとトムさんに話を聞いてもらって、自分の気持ちはもう決まっている。


 怖くても、液体石鹸の容器を作りたい。リーベル商会の提案を受けて、親方と一緒に試作品を完成させる。


 もちろん、不安がすべて消えたわけではない。契約の内容だって、これからしっかり確認しなければならない。


 それでも、進む方向が決まっただけで胸の中はずいぶん軽くなっていた。


「よく眠れたぁ」


 大きく伸びをしてから、机の端へ目を向ける。


 そこではアラボンが、変わらず楽しそうに泡を抱えていた。


「おはよう、アラボン」


 絵に向かって挨拶をして、着替えを済ませる。


 朝食を食べ終えると、いつものようにシャボンノアへ向かった。


 店の扉を開けると、朝のやわらかな光が差し込む。棚には蝋引き紙に包まれた石鹸がきれいに並び、その帯には店のイメージカラーである淡い緑がかった水色が使われている。壁際には同じ色合いの手提げ袋が置かれ、店内には石鹸の香りがほのかに漂っていた。


「今日も頑張ろう」


 掃除を済ませ、石鹸を並べて説明書を補充する。帳面も確認しながら、いつもの開店準備を進めていった。


 その途中、ふとアラボンの絵へ目を向ける。


 昨日までは机の上に置いていただけだったけれど、せっかくお店の顔として描いたのだから、もっといろいろな場所にいてもらいたい。


「まずは、ここかな」


 小さな紙へアラボンを描き、石鹸が並ぶ棚の端へ立てかける。手には小さな石鹸を持たせ、その周りにふわふわと泡を浮かべて、横へ短い言葉を書き添えた。


 ――よく泡立てて使ってね。


「うん、かわいい」


 次は説明書の隅にも、小さなアラボンを描いてみる。こちらは両手を泡だらけにして、楽しそうに手を洗っている姿だ。


 ――手は丁寧に洗おうね。


「これもいい」


 そこからは鉛筆が止まらなくなった。石鹸を抱えているアラボンに、泡の上へ座っているアラボン。手提げ袋から顔を覗かせたり、大きな石鹸を一生懸命運んだりと、気づけば机の上にはいろいろなアラボンが並んでいた。


「この子、働き者だなぁ」


 感心しながら眺めているうちに、開店時間が近づいていることに気づく。


「私より目立ってる……」


 自分で言ってから、満足そうにうなずいた。


 うん。それでいい。


 やがて店を開けると、少しずつお客様が訪れ始めた。


 石鹸を買いに来た常連のお客様が、棚の端に置かれた小さな絵に気づく。


「あら、この子は?」

「アラボンといいます。シャボンノアのお店の顔として描いてみました」

「かわいらしいねぇ」


 その言葉に、頬が緩んだ。


 別のお客様も、説明書の隅に描かれたアラボンを見つける。


「こっちにもいる」

「いろいろな場所で働いてもらう予定なんです」

「働くのかい?」

「はい。大忙しです」


 お客様は楽しそうに笑いながら、説明書を大切そうに手提げ袋へ入れた。


 思っていた以上に、アラボンは好評だった。石鹸について話すきっかけにもなるし、子どもを連れたお客様はアラボンの絵を見せながら、手の洗い方を説明している。


「やっぱり、作ってよかった」


 小さなアラボンが一枚あるだけで、店の中が少しやわらかくなった気がする。


 昼が近づく頃には、客足がいったん途切れた。


 机の上を片づけながら、ふと思い出す。


 ライネルさんへ返事をすると約束した日まで、あと二日。返事をする気持ちはもう固まっている。


 ただ、一つだけ気になることがあった。


「そういえば、シリルさんが何時に来るのか聞いてなかった」


 昼なのか、夕方なのか。


 店を開けている時間に来られると、ゆっくり話すのは難しい。契約についても確認したいことがあるし、お客様の前でするような話でもない。


「まあ、シリルさんなら忙しい時間は避けてくれそうな気はするけど……」


 私の不安に気づいて、商業ギルドへ行くことを提案してくれた人だ。たぶん、そのあたりも考えてくれるだろう。


 そう思っていると、カランカランと扉の鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ」


 顔を上げると、紙袋を抱えたリラが立っていた。店内にお客様がいないことを確認すると、ぱっと笑顔になる。


「ノアー、パン持ってきたよー」

「ありがとう、リラ」


 リラは週に何度か、昼食用のパンを届けてくれている。それ以外の日は、トムさんが簡単なお弁当を持たせてくれることもあった。


 忙しくても昼食を抜かずに済んでいるのは、周りの人たちのおかげだ。


「今日は焼きたてだよ。お母さんが、冷めないうちに食べてって」

「あとでいただくね」


 紙袋を受け取ったところで、リラの視線が棚の端へ向いた。


「なにこれ?」


 棚には、小さなアラボンが立っている。


 リラはすぐに近寄り、絵を覗き込んだ。


「かわいい!」

「でしょ?」

「この子、何なの?」

「アラボン。お店の顔になる子を描いてみたの」

「お店の顔?」


 少なくとも、私がこの世界で見てきた店では、お店を象徴するようなかわいい存在はほとんど見たことがない。看板に動物や道具が描かれていることはあっても、同じ姿の子が店のあちこちへ登場するのは珍しいみたいだ。


「この子を手提げ袋に描いたり、説明書に載せたりするの」


 私は机の上に並べていた絵を見せた。


「これは手を洗ってるアラボン。こっちは石鹸を運んでるところ」

「全部アラボンなの?」

「そうだよ」

「これもかわいい。あ、こっちも!」


 リラは一枚ずつ手に取り、目を輝かせる。


「これは?」

「手は丁寧に洗おうね、って書いてみたの」

「アラボンが言ってるの?」

「そう。アラボンは手洗いに厳しいからね」


 真面目な顔で答えると、リラが吹き出した。


「何それ」

「お店の顔として、しっかり働いてもらわないと」

「働いてるの?」

「今のところ、絵の中で頑張ってる」


 二人で顔を見合わせ、くすくすと笑う。


 リラは机に並んだアラボンを、もう一度じっくり眺めた。


「ねえ、これ一枚もらってもいい?」

「いいよ。どれが欲しい?」

「これ!」


 リラが選んだのは、大きな石鹸を抱えて一生懸命運んでいるアラボンだった。


「これ好きなの?」

「うん。一生懸命でかわいい」

「じゃあ、リラにあげる」


 絵の下へ小さくアラボンの名前を書き足し、折れないよう厚紙に挟んで手渡した。


「ありがとう!」


 リラは嬉しそうに絵を受け取った。アラボンを見つめるその顔は、何かを考えているようにも見えたけれど、すぐに大切そうに紙袋へしまう。


「お母さんにも見せようっと」

「感想を聞いておいてね」

「分かった」


 リラは扉へ向かいかけ、もう一度振り返った。


「アラボン、絶対みんな好きになるよ」

「本当?」

「だって、かわいいもん」


 それだけ言うと、リラは元気よく店を出ていった。


 扉の鈴が鳴り、再び店内が静かになる。


 私は棚の端にいるアラボンを見た。


 お客様も、リラも、かわいいと言ってくれた。自分の中だけにあったものが、誰かに喜んでもらえる形へ変わっていく。


 石鹸を初めて売った時と、少し似ている気がした。


「アラボン、人気者になれるかもしれないね」


 もちろん返事はない。それでもアラボンは、どこか得意げに笑っているように見えた。


 私はパンの入った紙袋を持ち、休憩スペースへ向かう。


 約束の日まで、あと二日。


 気持ちはもう決まっている。


 今はいつもの仕事を続けながら、その日を待てばいい。


 新しい容器に、液体石鹸。そして、お店のあちこちで働き始めたアラボン。


 シャボンノアには、まだまだ作りたいものがたくさんあった。

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