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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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42話 後悔しないために

 工房を出る前に、私はライネルさんへ尋ねた。


「お返事は、いつまでにすればいいでしょうか」

「急がせるつもりはありません。ノアさんが納得できるまで考えてください」


 そう言われても、いつまでも待たせるわけにはいかない。親方も、試作品を作るための準備が必要になるだろう。


 少し考えてから、私は口を開いた。


「では、三日後までにお返事します」

「分かりました」


 ライネルさんは穏やかにうなずいた。その表情には、私がどちらを選ぶのか、すでに分かっているような余裕がある。


「三日後、シリルをシャボンノアへ向かわせます」

「僕がですか?」

「ちょうどいいでしょう」

「何がです?」

「ノアさんも、私よりお前の方が話しやすいはずです」


 突然名前を出されたシリルさんが兄を見る。何か言いたそうにしていたけれど、やがて小さく息を吐いた。


「分かりました。予定を空けておきます」

「ありがとうございます」

「返事を急ぐ必要はありませんから」


 シリルさんが柔らかく笑う。その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。


 工房をあとにして宿へ戻ると、夕食の時間にはまだ少し早かった。部屋へ入り、かごを下ろして机の上へ帳面を広げる。


 今日、親方から聞いた試作費用。店の売上に、材料の仕入れに必要なお金。家賃や宿代、それから今後、新しい商品を作るために残しておきたいお金。


 一つずつ書き出し、何度も計算する。


「払えないわけじゃないんだよね……」


 今ある蓄えを使えば、自分で試作費用を払うこともできる。


 けれど、もし開発が長引いたら。試作品が何度も失敗したら。材料の値段が上がったり、急に店の売上が落ちたりしたら。


 一つ問題が起きただけでも、シャボンノアの経営は苦しくなるかもしれない。


「それは、ちょっと怖いなぁ」


 リーベル商会の申し出は、本当にありがたい。


 試作費用を負担してもらえれば、店の蓄えを守ることができる。完成しなかった場合も、その費用は商会側の損失だとライネルさんは言っていた。


 細かな条件については、これから書面にして確認することになる。今のところ、悪い話には思えない。


「でもなぁ……」


 問題は、お金だけではなかった。


 大きな商会と仕事をする。それは、自分一人で始めた小さな店に、外から誰かが関わるということだ。


 商品を作る速さや売る場所、販売する数。これまで私が一人で決めてきたことも、これからは誰かと相談する場面が出てくるかもしれない。


 一度関係が始まれば、何もなかった頃と同じというわけにはいかないだろう。


「私のお店なのに、私だけのお店じゃなくなったりしないかな」


 呟いた声が、静かな部屋へ落ちた。


 考えれば考えるほど、不安が増えていく。


 椅子の背へ体を預けて天井を見上げた時、机の端に置いていた紙が目に入った。


 アラボンだ。


 ころんとした淡い水色の体。小さな手には泡を抱え、楽しそうに笑っている。


「アラボン、どう思う?」


 当然ながら返事はない。それでも、その顔を見ていると少しだけ気持ちが和らいだ。


「困ったなぁ。また大きなことを思いついちゃったよ」


 アラボンを描いた時は、かわいいという気持ちだけで鉛筆を動かしていた。失敗するかもしれないとも、誰かに笑われるかもしれないとも考えなかった。


 ただ、自分が作りたいと思ったから描いた。


 液体石鹸も同じだった。髪を洗ったあとに、もう少し使いやすいものがあればいいと思った。


 容器だって、誰かに頼まれたから考えたわけではない。自分が必要だと思ったから、形にしたかった。


「でも、これは一人じゃ作れないんだよね」


 陶器を作る技術はないし、細かな金属部品を作ることもできない。何度も試作品を作れるほどのお金だってない。


 私一人では、紙の上の絵を完成品へ変えることはできない。


 その事実が、何より悔しかった。


「一人でできないなら、誰かと作るしかない……」


 口に出しても、不安は消えない。


 それでも、少しだけ考え方が変わった気がした。


 誰かと関わることは、自分の店を奪われることではない。自分にはできないことを、できる人に頼ることだ。


 でも、本当にリーベル商会を信じていいのだろうか。


 そう考えたところで、また最初へ戻ってしまった。


 その日は夕食を済ませたあとも答えを出せず、ベッドへ入ってからも考え続けた。右を向いて、左を向いて、布団をかぶり直して目を閉じる。


 すると今度は、壁に取り付けられた容器が浮かんできた。


 下から棒を押せば、必要な分だけ液体石鹸が出る。宿の洗い場で、人々が当たり前のようにそれを使って髪を洗っている。


 その光景を想像すると胸が弾んだ。


 けれど次の瞬間には、商会との契約や、これから決めなければならない条件のことが頭に浮かぶ。


「眠れない……」


 とうとう諦めて起き上がった。


 窓の外は暗く、宿の中も静まり返っている。このまま一人で考え続けても、同じところをぐるぐる回るだけだ。


 上着を羽織ってそっと部屋を出ると、階段の下、食堂の奥から小さな明かりが漏れていた。


 覗いてみると、トムさんが翌朝の仕込みをしていて、そのそばではエマさんが布巾を畳んでいる。


「ノア? こんな時間にどうしたんだい?」

「眠れなくて……」

「何かあったのか?」


 トムさんも手を止め、心配そうにこちらを見る。


 二人の顔を見た途端、一人で抱え込んでいたものが溢れそうになった。


「自分で決めようと思ったんですけど、やっぱり無理でした。少し、相談に乗ってもらえませんか?」

「もちろんだよ」


 エマさんはすぐに私の向かいへ腰を下ろし、トムさんも温かい飲み物を用意して机へ置いてくれた。


 私は今日あったことを最初から話した。


 液体石鹸の容器を探していたこと。シリルさんとライネルさんに出会ったこと。商業ギルドで身元を確認したこと。親方なら容器を作れるかもしれないこと。


 そして、試作費用をリーベル商会が負担すると提案されたこと。


 話を聞き終えたエマさんは、驚いたように目を見開いた。


「リーベル商会って、あの大きな商会かい?」

「はい。商業ギルドでも確認してきました」

「まさか、そんなところの人と知り合いになってたなんてねぇ」


 トムさんも感心したように腕を組む。


「あそこはこの辺じゃ有名な商会だ。商売を見る目があるって話も聞く」

「見る目がある……」

「そんな商会が費用を出すと言ったなら、ノアの商品にそれだけの価値を感じたんだろうな」


 その言葉は嬉しかったけれど、不安がなくなるわけではない。


「条件も、きちんと確認すれば悪い話ではないと思うんです。でも、大きな商会が私の商品に関わることが、少し怖くて」

「そりゃ怖いさ。今まで全部、一人で決めてきたんだからね」

「やっぱり、断った方がいいでしょうか?」

「そうは言ってないよ」


 エマさんは私の手を優しく包んだ。


「嫌なら断っていい。無理に新しい容器を作らなくても、普通の瓶で液体石鹸を売ることはできるんだろう?」

「はい。少し使いにくいですけど」

「なら、逃げ道はちゃんとある」


 トムさんも静かに続ける。


「この話を受けなければ、店が終わるわけじゃない。今まで通り続けられる」


 二人は、受けた方がいいとも、断った方がいいとも言わなかった。ただ、どちらを選んでも大丈夫だと教えてくれた。


 それを聞いた瞬間、胸の中で何かがほどけた。


 断ってもいい。作らなくてもいい。普通の瓶で売ってもいい。


 その選択肢を思い浮かべる。


 店は続けられるし、今の生活だって守れる。怖い思いをしなくてもいい。


 けれど――。


「それは、嫌です」


 自分の口から出た言葉に、私自身が驚いた。


「何が嫌なんだい?」


 エマさんに尋ねられ、私は両手で温かな器を包んだ。


「作らないまま終わるのが嫌です」


 怖い。失敗するかもしれないし、誰かと仕事をすることにもまだ不安がある。


 それでも、紙の上の容器を諦めて普通の瓶で妥協した自分を想像すると、胸の奥が苦しくなった。


「やらなかったら、きっと後悔します」


 それが答えだった。


 リーベル商会を完全に信じられたからではない。失敗しないと確信したからでもない。


 怖くても、形にしたい。


 ただ、それだけだった。


 エマさんは静かに微笑んだ。


「なら、答えは出たみたいだね」

「はい」

「ただし、契約はしっかり確認するんだぞ。分からないことがあれば全部聞く。納得できないことが一つでもあれば、その場では決めない」

「そうします」

「一人で抱え込むのも禁止だよ」

「分かりました」


 少し笑いながら答えると、胸の中にあった重い霧もずいぶん晴れていた。


 部屋へ戻る頃になっても、外はまだ暗い。


 机の上では、アラボンが変わらず楽しそうに笑っている。


「アラボン、決めたよ。怖いけど、やってみる」


 三日後まで待つ必要はない。明日にでも、すぐ返事を伝えたいくらいだった。


 けれど、ライネルさんとの約束では、シリルさんが三日後に店へ来ることになっている。


「ちゃんと待つけどね」


 小さく笑って、今度こそベッドへ入る。


 不安がすべて消えたわけではない。それでも、後悔しない道を選んだのだと思うと、不思議なくらい心が軽かった。


 その夜、私はようやく深い眠りについた。

アラボン「泡で答えてやろうか?」

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