41話 とんでもないもの
商業ギルドを出た私たちは、再び職人街へ向かった。
先ほどまで胸の中にあった不安は、ずいぶん軽くなっている。リーベル商会が確かな商会であることも、ライネルさんが正式に商会の仕事を任されていることも確認できた。それに、私の不安に気づき、商業ギルドへ行くことを提案してくれたのはシリルさんだ。
すべてを信用したわけではない。それでも、何も分からないまま二人についていくのとは全然違う。
「もうすぐ着きます」
ライネルさんが指した先に、小さな陶器工房があった。
店先には皿や壺が並んでいるのだけれど、どれも少し変わった形をしている。持ち手が二つある杯に、口が三つに分かれた水差し。側面にいくつもの穴が開いた壺まであって、何に使うのか見ただけでは分からない物も多い。
「面白い物がたくさんありますね」
「でしょう? 変わった注文を好む職人なんです」
「私のお願いも聞いてもらえるでしょうか」
「少なくとも、話を聞く前から断る人ではありません」
その言葉に少し安心して、私は工房へ足を踏み入れた。
中には土と薪の匂いが満ちている。奥には大きな窯があり、棚には焼く前の器がずらりと並んでいた。職人たちが忙しそうに行き交う中、ひときわ大柄な男がこちらへ歩いてくる。
太い腕に革の前掛け。髭には白い粘土の粉がついていた。
「おう、ライネル。シリルも一緒か。珍しいな」
「親方、お久しぶりです」
「今日は何だ。また妙な注文でも持ってきたのか」
「僕ではありません。こちらの方が、相談したい物があるそうです」
ライネルさんに促され、私は一歩前へ出た。
「シャボンノアという石鹸店の店主、ノアさんです」
「シャボンノア?」
親方が目を細める。
「ああ、あの石鹸か」
「ご存じなんですか?」
「うちのかみさんが使ってる。前より手が荒れにくくなったって喜んでたぞ」
「本当ですか? ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ。それで、何を作りたいんだ?」
親方の視線が、私の持っているかごへ向いた。
「親方」
その前に、ライネルさんが一歩出る。
「詳しい話は、ノアさんと二人で聞いていただけませんか」
「お前たちは聞かんのか?」
「僕たちは紹介しただけです。商品の内容まで聞く必要はありません」
親方はライネルさんを見たあと、今度は私へ視線を移した。
「なるほどな。なら、相談部屋を使うか。外には声も漏れにくい」
「ありがとうございます」
「僕たちは店先で待っています」
シリルさんがそう言うので、少し驚いた。
「本当に、お二人とも聞かないんですか?」
「その方が、安心して話せるでしょう」
「相談が終わったら声をかけてください」
シリルさんは穏やかに答え、ライネルさんも当然のようにうなずいた。
二人が店先へ戻るのを見届けてから、私は親方と一緒に小部屋へ入った。
中には古びた机と椅子が置かれ、壁には容器の絵や細かな寸法が書かれた紙が何枚も貼られている。親方は向かいの椅子へ腰を下ろした。
「さて、何を作りたいんだ?」
私は持ってきたかごを机の横へ置き、中から液体石鹸を入れた細長い瓶を取り出した。
「これは、髪を洗うための液体石鹸です」
「液体の石鹸?」
親方は瓶を持ち上げ、光へ透かして見る。
「石鹸が水みたいになってるのか」
「水ほどさらさらではありません。少しとろみがあります」
「蓋を開けてもいいか?」
「どうぞ」
親方が蓋を開けて瓶をゆっくり傾けると、乳白色の液体が時間をかけて口元へ流れていった。
「なるほど。これを入れる瓶が欲しいのか」
「ただ入れるだけでは駄目なんです」
紙と鉛筆を借り、私は考えていた形を描き始める。
「髪を洗う時は手が濡れています。瓶を持って蓋を開けて傾けるのは使いにくいですし、滑らせて落とすかもしれません」
「なら、口を細くすればいい」
「液体にとろみがあるので、今度は出にくくなります。それに、一度に出る量も調整しづらいんです」
「ふむ」
紙の上へ描いたのは、壁に取り付ける容器だった。上には液体石鹸を補充するための蓋があり、底には石鹸が流れ出るための小さな穴。その穴を内側から塞ぐ栓と、そこから下へ伸びる短い棒を描き足していく。
「普段は、この栓が穴を塞いでいます。下から棒を押し上げると栓が浮いて隙間ができて、そこから石鹸が落ちてくるんです」
「手を離せば?」
「栓が元の位置へ戻って、また穴を塞ぎます」
親方は紙を自分のほうへ引き寄せた。
「仕組みは考えてあるんだな」
「だいたいは。ただ、実際に作った時にきちんと動くかまでは分かりません」
「そりゃそうだ」
親方は別の紙を取り出し、私が描いたものより細かな断面図を描き始めた。
「栓が軽すぎれば、液体の重みで浮くかもしれん」
「では、少し重くしますか?」
「重くしすぎれば押し上げにくい。片手で使うなら、力を入れなくても動く重さでなければならん」
「穴の大きさも必要ですね」
「ああ。広すぎれば一度に出すぎる。狭すぎれば、この石鹸の濃さでは詰まる」
親方の描く線をじっと見つめる。
頭の中にしかなかった形が、少しずつ本当に作れそうな物へ変わっていく。
「栓と穴がぴたりと合わないと、使っていない時にも漏れますよね」
「その通りだ。だが、きつく作りすぎれば棒が動かん」
「石鹸が乾いて固まった時に、掃除できるようにもしたいです」
親方の鉛筆が止まった。
「そこまで考えてるのか」
「長く使ってもらいたいので」
親方の口元が、わずかに上がる。
「面白いな、お前さん」
「そうですか?」
「形だけ思いついて持ってくる奴は多い。だが、壊れた時や汚れた時まで考える奴は少ない」
少し褒められた気がして、思わず姿勢を正した。
「下の部分を取り外して、洗えるようにできませんか?」
「なら、栓と棒をまとめて外せるようにするか」
親方は新しい線を書き加えていく。
「ただ、細かな部分まで陶器で作ると欠けやすい」
「金属なら作れますか?」
「作れる。栓と棒、それに壁へ固定する部分は金属の方がいいだろうな」
「陶器と金属を組み合わせるんですね」
「ああ。容器は陶器で作り、動く部分は金属職人に頼む」
そこからさらに細かな部分を二人で詰めていった。
上の蓋は石鹸を補充しやすい大きさにする。壁に固定したままでも中を洗えるようにして、押し上げる棒の先端は濡れた手でも滑りにくい形にする。一度に出る量が多くなりすぎないよう、栓が開く幅にも限界を作ることになった。
「宿の洗い場で使いたいんです」
そう伝えると、親方は壁への取り付け方を少し描き直した。
「なら、多少乱暴に使われても外れんようにしないとな」
「容器の中身も、あまり多く入らない方がいいかもしれません」
「なぜだ?」
「一人でたくさん使う人がいるかもしれないので」
親方は一瞬黙ったあと、豪快に笑った。
「そこまで職人にどうにかしろと言うな」
「ですよね」
私もつられて笑う。
「でも、使う分だけ少しずつ出るなら、瓶から直接注ぐよりは使いすぎを防げると思います」
「それはそうだな」
気づけば、机の上は何枚もの紙で埋まっていた。
親方は最後の一枚へ大きく線を引くと、腕を組んで図面を眺める。
「作れそうですか?」
しばらくして、親方が口を開いた。
「作れる」
その一言に、思わず顔が輝く。
「本当ですか?」
「ただし、一度では無理だ」
親方は机の上の紙を指で叩いた。
「栓の重さ、穴の広さ、押し上げる距離。どれも実際に作って確かめる必要がある」
「何度くらい作り直しますか?」
「分からん。三度で済むかもしれんし、十度作っても漏れるかもしれん」
「そうですよね……」
「それに、金属職人の仕事も必要だ。試作品を作るだけでも、それなりの費用がかかる」
親方から告げられた大まかな金額に、言葉を失った。
払えない額ではない。けれど、店を開いてまだ四か月ほどで、売上は安定し始めているものの、材料の仕入れや家賃、宿代も必要になる。
失敗が続けば、ようやく増え始めた蓄えの多くを使うことになる。
「どうする?」
すぐには答えられなかった。
作りたい。液体石鹸を、誰でも使いやすい商品にしたい。その気持ちは変わらないけれど、今の私にとって簡単に決められる金額ではなかった。
「少し、考えてもいいですか?」
「ああ。急ぐ必要はない」
親方は机の上の紙をまとめながら言った。
「だが、わしは作ってみたい」
「親方が?」
「こんな仕組みは初めてだ。職人なら試してみたくなる」
その言葉が嬉しかった。
私の頭の中にしかなかった物が、本当に形になるかもしれない。
「外のお二人にも、相談してきます」
「そうしろ」
親方と一緒に相談部屋を出ると、店先で待っていたライネルさんとシリルさんがこちらを見た。
「どうでしたか?」
シリルさんが尋ねると、私が答えるより先に親方が図面を持ち上げた。
「ライネル! とんでもない物ができるかもしれんぞ」
「作れるんですか?」
「作れる。ただな、試作に金がかかる」
「どれほどです?」
親方が金額を伝えると、シリルさんが驚いたように眉を上げた。
ライネルさんは表情を変えず、図面へ視線を向ける。ただし、紙を受け取ろうとはしなかった。
「詳しい仕組みは聞きません」
そう前置きして、私を見る。
「ノアさんは、作りたいですか?」
「作りたいです」
その答えだけは迷わなかった。
「でも、何度失敗するか分かりません。今の私には、少し大きな金額で……」
ライネルさんはしばらく考え込んだ。先ほどまでの穏やかな表情とは違い、利益と危険を見定めようとする商人の目になっている。
「では、一つ提案があります」
「提案?」
「試作に必要な費用を、リーベル商会が負担するというのはいかがでしょう」
「え?」
思わず目を見開く。シリルさんも兄へ顔を向けた。
「兄さん、まだ仕組みも聞いていないでしょう」
「聞いていないからこそ、今は商品の権利について口を出すつもりはありません。まずは試作品を完成させる。その上で、商品として売れる見込みがあるなら、改めて取引について相談する」
「でも、完成しなかったら?」
「商会の損失です」
あまりにもあっさりと言われて、返す言葉を失った。
「どうして、そこまでしてくださるんですか?」
ライネルさんはすぐには答えず、やがてわずかに笑った。
「親方が、とんでもない物だと言いましたから」
「それだけですか?」
「もちろん、それだけではありません」
ライネルさんの目が、まっすぐ私を捉える。
「あなたは、これまでになかった石鹸を作った。そして今度は、それを使いやすくするための容器まで考えた。一つの案を手に入れて終わるより、あなたと長く付き合う方が、商人としてずっと価値がある」
その言葉は、綺麗事だけではなかった。
私の生み出す物に価値があるから、関係を築きたい。自分の利益を隠していない分、かえって信用できる気がした。
「もちろん、今すぐ決める必要はありません。条件は書面にしますし、商業ギルドにも確認してもらいましょう。納得できなければ、断ってくださって構いません」
私は図面を抱えた親方を見て、それからシリルさんへ目を向けた。
シリルさんも、決断を急がせることなくこちらを見守っている。
「今日は、提案を持ち帰ってもいいですか?」
「もちろんです」
「それがいいと思います」
シリルさんの言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
容器はまだ紙の上にしか存在しない。本当に完成するのか、完成までどれほどの費用が必要なのか、リーベル商会の提案を受けるべきなのか。考えなければならないことは、一気に増えてしまった。
それでも、不思議と嫌な気持ちはしない。
工房を出る前に、私はもう一度図面へ目を落とした。
壁に取り付けられた容器。下から棒を押し上げれば栓が開き、必要な分だけ液体石鹸が出る。手を離せば、再び栓が穴を塞ぐ。
まだ、紙の上の線でしかない。それなのに、宿の洗い場で使われている姿がはっきりと目に浮かんだ。
「絶対に完成させたい」
誰に聞かせるでもなく呟くと、親方が豪快に笑った。
「その顔ができるなら、大丈夫だ」
小さな思いつきから始まった容器作り。
それは少しずつ、私一人では作れない物へと形を変え始めていた。




