34話 開店しましたのお知らせ
カラン、と扉の音が響いた。
「いらっしゃい……おや、あんた久しぶりだね」
「ご無沙汰しています」
受付に立つエマへ、銀髪の青年――シリルは軽く会釈をした。
長い依頼を終え、久しぶりにリーヴェへ戻ってきたところだった。以前買った固形石鹸の使い心地がよかったことを思い出し、また一つ買おうとひだまり亭へ立ち寄ったのだ。
宿へ入ると、以前よりどこか清潔な香りがする。
「なんだか、前よりいい香りがしますね」
「ああ、最近よく言われるんだよ。旅人たちの間じゃ、いい匂いのする宿なんて言われてるらしくてね」
「それはすごいですね」
「石鹸のおかげもあるんだろうねぇ。うちでも使ってるし、泊まったお客さんが買っていくことも増えたからさ」
エマはどこか嬉しそうだった。
シリルは石鹸が置かれている棚へ目を向ける。
その横に、一枚の紙が貼られていた。
『石鹸屋 シャボンノア 開店しました』
小さな地図まで添えられている。
「……シャボンノア」
聞き覚えのない名前に足を止めると、エマが声をかけた。
「気になるのかい」
「このシャボンノアというのは?」
「ああ、あの子が店を持ったんだよ」
「……店を?」
シリルがわずかに目を見開く。
ついこの前、固形石鹸ができたからと試作品を渡してくれたばかりだったはずだ。丁寧な物腰で石鹸のことを説明していた女性が、もう自分の店を構えるまでになったらしい。
「そうなんだよ。うちのイチオシのお店さ」
「もう、そこまで……」
「あの子は行動が早いからねぇ」
エマは自分のことのように誇らしそうに笑う。
「以前、石鹸をいただいた方ですよね?」
「ああ、そうだよ。あんた名前は知らなかったんだね。ノアっていうんだ」
「ノアさんというんですね」
「そう。しかも今日が開店初日なんだよ」
シリルはもう一度、貼り紙へ視線を戻した。
ノア。
そこで初めて知った名前を、一度だけ小さく口の中で確かめる。
「石鹸、買っていくんだろ?」
「そのつもりだったんですが……せっかくなので、お店のほうで買おうと思います」
「そうかい。きっと喜ぶよ」
「場所は、この地図のところですね?」
「ああ。中心通りから一本入ったところだよ。ここからならそんなに遠くない」
「分かりました。ありがとうございます」
軽く頭を下げる。
「じゃあ、また寄ります」
「ああ。今度はゆっくりしていきな」
「はい」
カラン、と再び扉の音が響いた。
ひだまり亭を出たシリルは、貼り紙に描かれていた道を思い出しながら街を歩く。
「あっ、シリルさん! お帰りなさい」
「ただいま戻りました。お久しぶりです」
「今回は長かったねぇ」
「少し遠くまで行っていたので」
「また土産話でも聞かせてよ」
「はい。また今度」
久しぶりに戻ったシリルを見つけて、街の人たちが次々と声をかけてくる。そのたびに足を止めたり会釈を返したりしながら、中心通りを進んでいった。
やがて地図に従って一本奥の通りへ入る。
大通りほど賑やかではないものの、人通りは途切れていない。昔からの商店が並び、どこか落ち着いた雰囲気のある通りだった。
ほどなくして、一軒の小さな店が見えてくる。
店先には木製の看板。
『シャボンノア』
シリルは静かに足を止めた。
ついこの前まで、できたばかりの固形石鹸を手渡していた人が、もうこうして自分の店を構えている。
しばらく看板を見つめたあと、シリルの表情がほんの少しだけ和らいだ。




