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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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33話 いらっしゃませ シャボンノアです

 鏡の前で、私は小さく息を吐いた。


 一昨日届いたばかりの制服。


 少し緑がかった淡い水色のワンピースに白いブラウス、胸元には黒いリボン。腰の後ろで結んだリボンを整え、慣れた手つきで髪をまとめる。


 最後に制服と同じ色の小さな帽子をそっとのせると、鏡の中にはいつもとは少し違う自分が映っていた。


 思わず、その場でくるりと一回転する。


 スカートの裾がふわりと揺れ、頬が緩んだ。


「……かわいい」


 ぽつりと呟いてから、なんだか照れくさくなって笑う。


「今日からよろしくね」


 鏡の中の自分へそう言って、ゆっくりと深呼吸をした。


 店内へ続く扉を開ける。


 ほんのりと石鹸の香りが漂う店内には、昨夜遅くまでかかって並べた商品がきれいに揃っていた。


 定番のシャボンノアに、香りを楽しむフィオラ、そして足用石鹸。


 どれも何度も手に取っては、少しでもきれいに見えるよう並べ直したものばかりだ。


 売り場の端には、新しく作ってもらった小さな水場もある。ここで実際に泡立てて、香りや使い心地を試してもらえるように準備していた。


 私は入口へ向かい――ふと足を止めた。


「あっ」


 慌てて店の横へ駆け寄る。


 壁に立てかけたままになっていた木製の看板を抱え上げ、店先へ運んだ。


『シャボンノア』


 優しい文字で刻まれた看板を見つめていると、あの日のエマさんの笑顔が浮かぶ。


『開店祝いだよ』


 代金を払おうとした私に、みんなが笑って首を横に振った。


『もう受け取ってるから』


『みんなの気持ちだから』


 思い出すと、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 こんなにもたくさんの人に支えられて、ここまで来た。


「……こんなに幸せで、いいのかな」


 ぽつりと漏れた言葉は、朝の風に溶けていった。


 だけど、すぐに首を横へ振る。


 違う。


 考えることは、そこじゃない。


 ここから先が大事なんだ。


 この店を続けること。支えてくれた人たちの気持ちを無駄にしないこと。


 それが、今の私にできる恩返しだ。


「よし」


 気持ちを切り替え、店の奥から小さな籠を持ってくる。


 中には、三種類の石鹸を小さく切り分けた試供品が並んでいた。


 ただ配るだけじゃない。


 まずは足を止めてもらって、シャボンノアを知ってもらう。そして少しでも興味を持ってくれたら、お店の中へ。


「まずは知ってもらわないとね」


 店内から目を離さないよう、入口のすぐ脇に立つ。


 少し緊張しながら通りを歩く人へ笑顔を向け、籠から試供品を一つ差し出した。


「こんにちは、シャボンノアです。今日から開店しました。よかったら使ってみてください。お店の中でも実際に試していただけますよ」

「あら、石鹸屋さんなのね」

「はい! こちらは定番の石鹸です」

「じゃあ、一ついただこうかしら」

「どうぞ! ありがとうございます」


 女性は試供品を受け取ると、そのまま店内へ視線を向けた。


「中でも試せるの?」

「はい。こちらに小さな水場がありますので、気になるものがあればお試しいただけます」

「へぇ、それは面白いわね」


 そのまま女性が店へ入っていく。


 よし。


 一人目、店内へ誘導成功。


 思わずにやけそうになる口元を引き締め、次の人へ声をかける。


「こんにちは、よかったらどうぞ。今日開店した石鹸屋です」

「香りがいいわね」

「こちらはフィオラです。お店の中で香りも試せますよ」

「じゃあ、ちょっと見てみようかしら」

「ぜひ!」


 次の人は足用石鹸の小さな試供品を見て、不思議そうに首を傾げた。


「足用なんてあるの?」

「あります! 足の汚れや匂いが気になる方向けなんです」

「へぇ……主人にいいかもしれないわ」

「よかったら中に商品もありますので、見ていってください」


 もちろん、全員が足を止めてくれるわけじゃない。


「すみません、急いでるので」

「はい! お気をつけて!」


 断られることもあれば、軽く会釈だけして通り過ぎる人もいる。


 それでも、試供品を受け取って香りを確かめたり、看板を見上げたり、そのまま店へ入ってくれる人も少しずつ増えていった。


 店内へ戻るたび、水場の使い方を説明して、石鹸を泡立ててみせる。


「こんなに泡立つのね」

「はい。よかったら手を洗ってみてください」

「あら、本当に使っていいの?」

「もちろんです!」


 水で流したあと、女性が自分の手を何度か触る。


「なんだかさっぱりするわね」

「ありがとうございます!」


 その一言だけで、胸の奥がぱっと明るくなる。


 まだ始まったばかり。


 すぐにたくさん売れるわけじゃない。


 でも、足を止めてくれる人がいる。店へ入ってくれる人がいる。実際に使って、笑ってくれる人がいる。


 不安よりも、嬉しさのほうが少しずつ大きくなっていった。


 一歩ずつでいい。


 焦らなくていい。


 今日が、この店の本当の始まりなんだから。


 ◇


 夕暮れ。


 長い旅路を終えた一人の冒険者が、リーヴェへ戻ってきた。


 肩には使い込まれた剣を下げ、夕陽を受けて銀色の髪が静かに揺れる。


 久しぶりの街並みを眺めながら歩くうち、その足は自然と一軒の宿へ向かっていた。


 そして――


 ひだまり亭の扉が、静かに開いた。

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