26話 できることから
不動産屋をあとにした私は、そのまま宿へ戻った。
夕方の宿は食事の準備で慌ただしく、私もいつものように配膳を手伝う。新しい従業員が入ってからは以前ほど手が足りないわけではないけれど、忙しい時間帯くらいは今でも自然と体が動いた。
一段落したところで、私は今日見てきた物件のことをエマさんとトムに話してみた。
「なるほどねぇ」
話を聞き終えたエマさんが、ゆっくりとうなずく。
「思ってたより、お店を持つのって大変なんですね。売る場所だけじゃなくて、石鹸を作る場所も必要だし、保証金や備品まで考えたら、思ってた以上にお金がかかって……」
「商売ってのは、始めるまでにも金がかかるもんだ」
トムが腕を組みながら言う。
「でも、実際に見てみて、何が必要なのかは少し分かった気がします」
私はそう言って、近くにあった紙と筆記具を引き寄せた。
「まず、売り場。石鹸を作る作業場も絶対必要でしょ。材料を置く場所と、作った石鹸を置いておく場所もいるし……」
思いつくまま、一つずつ紙に書き出していく。
「人通りも気になるし、家賃も高すぎたら無理。あとは保証金と、棚と、会計台と、作業台……」
書けば書くほど増えていく。
「店ひとつ探すだけでも、ずいぶん条件があるもんだ」
「ほんとですよ。最初は、石鹸を並べる場所があればいいくらいに思ってました」
一軒目の店を見たときは、明るくて人通りも多くて、それだけでいい店に見えた。でも、いざ自分がそこで石鹸を作るところまで想像してみると、全然足りなかった。
店を持つなら、作って、置いて、売るところまで全部考えないといけない。
「それから、お金……」
家賃、保証金、備品。
紙の端に必要そうなお金まで書き始めたところで、ふと手が止まった。
「……あ」
「どうしたんだい?」
エマさんに聞かれて、私はゆっくり顔を上げた。
「私、宿代……ちゃんと払ってない」
エマさんとトムがそろってこちらを見る。
「今までは宿のお手伝いをたくさんしていましたけど、最近は石鹸作りに時間を使うことも増えました。それに、ご飯までいただいてますし……」
「そんなこと、気にしなくてもいいんだよ」
エマさんはすぐに首を横に振った。
「でも、これからお店を持ちたいなら、お金のこともちゃんと考えたい。自分が毎月どれくらい使って、どれくらい残せるのかも分からないままじゃだめだと思って」
さっきまで書いていた紙を見る。
家賃も、保証金も、備品も、全部お金が必要だ。
それなのに、自分の生活に本当はいくらかかっているのかも分かっていない。
「だから私、これからはちゃんと宿代を払いたいです」
エマさんはしばらく私を見つめていたけれど、やがて仕方ないねぇ、とでも言いたげに小さく笑った。
「……分かったよ。でも、普通のお客さんと同じ値段なんて取らないからね。少しだけで十分だよ」
「ありがとうございます」
「別に礼を言われるようなことじゃないさ。あんたはもう、うちじゃ客って感じもしないんだから」
エマがそう言ってほがらかに笑った。
「それでも払います」
「頑固だねぇ」
「こういうところだけはな」
二人に笑われて、私もつられて笑った。
すると、黙って私のメモを眺めていたトムが、ふと思いついたように口を開いた。
「だったら、宿の受付に貼り紙でも出してみるか?」
「貼り紙ですか?」
「ああ。『店舗を探しています』ってな。売り場だけじゃなく、奥に石作業場所がある店を探してるって書いとけばいい」
私は目を丸くした。
「宿はいろんな町の人や商人、それに旅人も出入りする。もしかしたら何か情報を持ってる奴がいるかもしれんぞ」
「それ、いいかもしれません!」
そうか。不動産屋だけが情報を持っているとは限らない。人とのつながりから、思いがけない縁が生まれることだってあるかもしれない。
エマさんも笑顔でうなずいた。
「お金はすぐには貯まらないけど、情報を集めるのは今日からでもできるからね」
「はい!」
私はさっそく新しい紙を用意した。
売り場があること。
奥に石鹸を作れる作業場があること。
材料や作った石鹸を置けるくらいの広さがあること。
条件を書きながら、不思議とさっきまでより気持ちが軽くなっていく。
夢はまだ遠い。
でも、実際に店を見たことで必要なものが少し分かった。そして今の私にも、できることはちゃんとある。
私は受付に貼る紙を書きながら、ほんの少しだけ未来が近づいたような気がした。




