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名前を忘れた私ですが、たぶん異世界で石鹸屋をはじめます。〜いい人しかいないんですが、罠ですか?〜  作者: まの月


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15話 売ってください

あれから数日。


 完成した石鹸は、私だけでなくエマやトムにも使ってもらいながら、毎日少しずつ様子を見ていた。


 泡立ちは抜群だった。


 少し水をつけてこするだけでふわふわと泡が立ち、洗ったあとの手もしっとりしている。髪も今まで使っていた石鹸よりずっと洗いやすかった。


 私自身は、洗ったあとの髪にほんの少しきしみを感じる。


(もう少し改良できそうだけど……)


 それでも、それ以外に気になるところは見つからなかった。


 何日か使い続けても肌が荒れることはなく、エマやトムにも問題は出ていない。


 これはもう、失敗作でも試作品でもない。


(これなら、十分売れる品質だと思う)


 そう考えられるくらいには、自分の作った石鹸に自信を持てるようになっていた。


 宿での評判も上々だった。


「前の石鹸には戻れないねぇ」


 手を洗い終えたエマがそう言って笑えば、トムも洗い終えた食器を見ながらうなずく。


「茶碗やコップも問題なく洗える」

「ほんと?」

「ああ」


 そこまで言ってもらえると、何度も失敗しながら作った甲斐があったというものだ。


 数日使って問題がないことを確認したところで、エマは宿の洗い場にも石鹸を置いてくれることになった。


『ご自由にお使いください』


 そう書いた札を添え、宿泊客にも自由に使ってもらう。


 これまでは自分から声をかけて試してもらっていたけれど、今度は誰に勧められるでもなく使った人がどう感じるのかを見ることができる。


 少し緊張しながらも、私は毎日少しずつ減っていく石鹸をうれしく眺めていた。


 ◇


 それからさらに数日が過ぎたある朝。


 朝食を終えた一組の夫婦が、受付にいたエマのところへやって来た。


「女将さん」

「はい」

「洗い場に置いてあった石鹸なんですが、一つ譲っていただけませんか?」


 その言葉が聞こえた瞬間、近くで仕事をしていた私は思わず顔を上げた。


「本当ですか!」


 勢いよく声を上げた私に、夫婦が少し驚いて振り返る。


 男性は笑いながら、隣にいる女性を見た。


「妻がすっかり気に入ってしまってね」


 女性も少し恥ずかしそうに笑う。


「泡立ちもよくて、とても気持ちよかったです ぜひ家でも使いたくて」


 その言葉を聞いた途端、胸の奥が一気に熱くなった。


 今まで使いやすいと言ってもらったことはあるし、また使いたいと言ってくれた人もいた。


 でも、自分から欲しいと言ってくれた人は初めてだった。


「少し待っててください!」


 私は急いで保管していた石鹸を取りに行った。


 いくつか並んだ中から形のきれいなものを選び、布で丁寧に包んで受付へ戻る。


「お待たせしました」


 両手で差し出すと、女性がうれしそうに受け取った。


「ありがとうございます おいくらですか?」

「えっ」


 そこで初めて気づいた。


 値段。


 そうだ。売るなら、値段を決めなければならない。


 頭の中で、今までにかかった材料や手間が一気に浮かんだ。


 普通に売られている石鹸より泡立ちはいい。


 手肌にも優しく、使い心地にも自信がある。


 何度も試作を重ねて、ようやく完成した石鹸だ。


(普通の石鹸より品質は上)


(材料も手間もかかってる)


(安売りはしない)


 頭の中で、ものすごい速さで計算が始まる。


  チャリーン


 決まった。


「銀貨一枚でお願いします」


 夫婦は一度顔を見合わせた。


 一瞬、高かっただろうかと不安になる。


 けれど男性はすぐにうなずき、迷うことなく銀貨を差し出した。


「その値段なら喜んで」

「ありがとうございます!」


 受け取った銀貨の重みを手のひらに感じながら、私は石鹸の包みをきれいに整えた。


 そして、できる限りの笑顔で女性へ手渡す。


「シャボンノアをよろしくお願いします」

「シャボンノア?」


 女性が不思議そうに首をかしげた。


「この石鹸の名前です」


 そう答えると、女性は手の中の包みを見つめ、うれしそうに微笑んだ。


「素敵な名前ですね」

「ありがとうございます」


 夫婦は何度も石鹸を眺めながら、宿をあとにした。


 扉が閉まるまで二人を見送り、姿が見えなくなったところで、私はそっと手を開く。


 そこには、さっき受け取った銀貨が一枚。


「売れた……」


 初めて、自分が作ったものがお金になった。


 そう思った途端、頬が勝手に緩んでいく。


「売れた……!」


 もう一度言ってみる。


 やっぱりうれしい。


 隣へ来たエマが、私の手のひらにある銀貨を見て笑った。


「いい値段をつけたね」

「品質には自信がありますから」


 胸を張って答えると、エマは満足そうにうなずいた。


「それでいい 安く売るだけが商売じゃないからね」

「はい!」


 銀貨を握ったまま、大きくうなずいた。


 ◇


 その日の仕事が終わる頃。


 片付けをしていると、エマが小さな革袋を私へ差し出した。


「はい、これ」

「なんですか?」

「宿で使わせてもらった分さ」

「えっ、そんな……いいですよ」


 思わず首を振る。


 エマたちには、ここまでずっと石鹸作りを手伝ってもらった。


 外かまども鍋も貸してもらったし、何度失敗しても文句ひとつ言わずに見守ってくれた。


 宿で使った分くらい、お礼として渡すつもりだった。


 けれど、エマは革袋を引っ込めなかった。


「宿で毎日使ったんだ 払うのは当たり前だろ」

「でも……」

「それに、あんたがこれから石鹸を売るつもりなら、こういうところはちゃんとしな」


 その言葉に、私は差し出された革袋を見つめた。


 今日、初めて石鹸を買ってくれた人がいた。


 これからもっとたくさんの人に使ってもらいたいとも思っている。


 だったら、これはちゃんと受け取るべきお金なのかもしれない。


「……ありがとうございます」


 両手で革袋を受け取り、小さく頭を下げた。


 初めて売れた石鹸。


 初めて受け取った対価。


 何度も失敗して、何度も作り直して、ようやく完成したものが誰かに欲しいと言ってもらえた。


 私は革袋を胸の前で大切に抱えた。


「もっと、たくさんの人に使ってもらいたい」


 自分が使いやすい石鹸が欲しくて始めた。


 それがいつの間にか、リラにも、旅人にも、宿を訪れる人にも使ってもらいたいと思うようになっていた。


 そして今日、初めて一つの石鹸が私の手を離れ、誰かの家へ持ち帰られていった。


 シャボンノア。


 その名前はこの日、小さな宿から初めて外の世界へ歩き出した。

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