表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
準男爵家の二男だが、合理で戦場を支配したら公爵令嬢と侯爵令嬢に選ばれた件  作者: 慈架太子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

78/100

78話:選択

朝は、早い。


まだ空は完全に白みきってはいない。紺碧の闇が、東の地平からわずかに漏れ出した薄明に溶け込み始める、夜と朝の境目。

一分子の雑音も、不必要な感情も入り込む余地のない、最も静かで、最も判断が澄み渡る時間。

その残酷なまでに清浄な静寂の中で、数千の運命を左右する決定は下される。


野営地の中央、簡易指揮所。

荒く削り出された卓の上に広げられた地図には、昨日までにはなかった無数の線が引かれていた。

鋭く伸びる進軍経路。網の目のように巡らされた補給路。そして、血のように赤い墨で引かれた退避ライン。

その傍らには、バツ印で無残に消された線がいくつも重なっている。それは、もはや一分子の価値も持たぬ、打ち捨てられた「過去の選択」の残骸だった。


「……」


アルト・フェルディスは、その地図を凝視していた。

ただ眺めているのではない。彼の脳内では、地図上の等高線が立体的な戦場へと変換され、距離、時間、人員の配置、兵士たちの蓄積された疲労度、士気の減衰率、そして負傷による稼働低下率が、一分子の狂いもない数字の羅列となって弾き出されていた。


「あはは。困ったね。ここは、崩れるよ」


誰にともなく、陽気な、しかし底知れぬ響きを伴った声が落ちる。

「北西の丘陵帯。敵の再編速度が、僕の予測よりも一分子だけ速い。遮蔽物が多すぎて視界が切れる。……正面から真っ当に押せば、確実に分断されて、各個撃破の餌食になるだろうね」


アルトの指が、地図上の一点を叩く。

「……なら、回るか?」


低い、鋼のような声。

エルディア・ヴァレンティナ・グラディウスだ。彼女はいつの間にか、アルトの影のようにその場所に立っていた。


「回るなら、時間が足りないよ」

アルトは即答する。気さくな響きのまま、可能性を瞬時に切り捨てる。

「補給が持たない。兵の疲労も、もう臨界点だ。……一分子の余力も残っていない状態での遠回りは、ただの集団自殺だよ」


「……強行突破か」


「違うね」

即座に否定。

「削るんだよ。局所を、一分子の無駄もなく切り取って、構造そのものを崩す。面で戦っちゃいけない。点の破壊を連鎖させるんだ」


「……」


エルディアは沈黙した。

アルトの語る「削る」という言葉の、その裏側に隠された非情なまでの合理を、彼女は既に噛み砕き、理解していた。


「削るってのは……」

横から、別の声が漏れる。実務を預かる副官だ。

「囮が必要だ、ってことですね? 主力を引きつける、死に体の駒が」


「そうだね」

アルトは迷わない。その瞳には、一分子の躊躇も宿っていない。

「敵の主力を一点に固定する。動かせない、無視できない状態に追い込むんだ。その隙に、僕たちが側面から一番美味しいところを食らう。……最高にハッピーな食卓だと思わないかい?」


「……」


指揮所内の空気が、物理的な重みを伴って沈み込む。

「固定する、というのは……」


「逃げ場を奪うんだよ。包囲されていると錯覚させる。実際には、僕たちが用意した『抜け道』へと誘導するんだけどね」

アルトは言う。

「逃げる方向を、こちらで決める。敵の意志を、僕たちが代行してあげるのさ」


「……」


副官が、深く、重い息を吐き出した。

「……きついですね。その固定役の負担は」


「だからやるんだよ」

アルトの視線は一切揺れない。

「やらなければ、全体が削られる。一分子を救うために全体を死なせるのは、僕の計算機にはない答えだ」


「……」


凍りつくような静寂。

誰もが、この作戦の本質を理解していた。成功すれば、全体の損耗は劇的に抑えられる。

だが。


「……固定役の生存率は、限りなく低い。……いや、絶望的だ」


誰かが、その現実を口にした。


「低いね」

アルトは肯定する。

「八割は落ちる。……運が良ければ、残りの二割が瓦礫の中から這い出せるかもしれない。そんな確率だ」


指揮所の中を、冷たい風が吹き抜けたような感覚。

その数字に、一分子の誇張もないことを、この場の全員が知っていた。


「……誰を置く?」


視線が、自然と一点に集まる。

非情な振り分けを下す、合理の支配者へ。


「……」


アルトは、答えない。

彼が答える前に、その場所を埋めるべき「正解」は既に、構造的に決まっていたからだ。


沈黙。

その厚い壁を切り裂いたのは、凛とした、鋭い声だった。


「――私がやる」


エルディアが言った。

そこに、一分子の迷いも、悲壮感もなかった。


「……」


全員の視線が、彼女に突き刺さる。

武門侯爵家の令嬢。この軍において、アルトの意図を最も正確に体現できる、前線の柱。


「……君が?」

副官が、目を細める。


「最適解だ」

エルディアは、淡々と続けた。

「機動力、現場での判断速度、不測の事態への対処能力。……どれを取っても、この中で私以上のリソースは存在しない。……違うか?」


「……」


誰も否定できない。

それは、感情を排した純粋な「事実」としての提示だった。


「……だが。君が抜けたら、本隊の主戦力が大幅に落ちる」


「落ちないよ」

エルディアは、アルトの横顔を見つめたまま即答する。

「残りの面子で回せるように、貴様が調整しろ。……できるだろう?」


「……」


視線が、アルトに向く。

アルトは少しだけ、その瞳を細めた。


「理由は?」


短く、気さくに。だが、核心を突く問い。


「……」


エルディアは、一瞬だけ沈黙の深淵を覗き込んだ。

そして。


「効率がいい。ただ、それだけだ。一分子の無駄も出さないための、最善の配置だと言っている」


迷いなく、言い切る。


「……」


アルトは、彼女を見た。

いつものような陽気な仮面の裏側にある、底知れぬほどに凪いだ瞳で。


「……」


エルディアも、その視線を正面から受け止める。逸らさない。一分子の揺らぎも許さない。


「……分かった。不採用にする理由が見つからないね」


アルトは、静かに頷いた。

それ以上は、一分子の追及もしない。

「配置は任せるよ、エルディア。最高にハッピーな『固定』を見せておくれ」


「了解した」


エルディアも短く頷く。

会話は、そこで物理的に切断された。


だが。

指揮所に残る者たちの誰もが、気づいていた。


「……」


今のは、「理由」ではない。

効率。最適。

確かに、それは論理的に正しい。


だが。

それだけではない何かが、今のやり取りの中には混ざっていた。


副官が、誰にも聞こえないほどの小声で息を漏らす。

「……本当に、それだけなんですか。……エルディア様」


「……」


誰も、答えない。

エルディアは既に地図に視線を戻し、冷徹な作業へと没頭していた。


「ここに固定線を置く。敵を誘い込むための退路は、この一点。……逃げているように見せて、死地へと引きずり込む。一分子の隙も見せないわ」


彼女の指が、地図の上を駆ける。

「その間に、貴様たちが回り込め。時間は……二刻。それだけあれば、本隊は敵の背後を完全に掌握できる」


「二刻……。その間、持たせられるのか?」


「持たせる」


即答。

その短い言葉の裏側に、鋼のような「覚悟」が、一分子の歪みもなく鎮座していた。


「……」


アルトは、その光景を、ただ見つめていた。

何も言わない。

言う必要が、どこにもないからだ。


彼は理解していた。

彼女の言葉が、一分子の不純物を含んだ「嘘」であることを。


だが。

それでも、彼はそれを採用する。

理由は単純だ。


最適だからだ。

その「嘘」に込められた、非合理なまでの執念を含めて。

すべてが、勝利という結果を導き出すための、巨大な最適配置の一部として機能するからだ。


会議は、終わった。

各員が、それぞれの工程を完遂するために動き出す。


「……」


エルディアは、無言で指揮所を後にした。

砂を蹴る足音は、一定。

呼吸も、変わらない。


だが。

ほんのわずかに。

一分子だけ。

彼女の吐息は、以前よりも深く、重い熱を孕んでいた。


アルトは、その背中を視線だけで追った。

追いかけない。

呼び止めない。

必要がないからだ。


ただ。

理解している。


あの選択が。

「効率」という言葉でコーティングされた、彼女自身の「意志」であることを。

距離を詰めるため。

アルト・フェルディスという、合理の奈落に立つ男の隣に並び立つため、彼女は自ら、死地へと身を投じることを選んだのだ。


風が、吹き抜ける。

朝の光が、野営地を、そしてこれから血に染まる戦場を、一分子の容赦もなく照らし出した。


戦が、始まる。

その巨大な演算の中で、一つの「嘘」が、静かに、しかし決定的な意味を持ち始めていた。


誰も、口にはしない。

だが。

全員が、理解していた。


あの言葉は、最高に気高く、そして美しすぎる「嘘」だったのだと。


第78話、選択。

合理の支配者が下した「正解」は、一人の女の覚悟という名の、不条理な輝きを纏っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ