78話:選択
朝は、早い。
まだ空は完全に白みきってはいない。紺碧の闇が、東の地平からわずかに漏れ出した薄明に溶け込み始める、夜と朝の境目。
一分子の雑音も、不必要な感情も入り込む余地のない、最も静かで、最も判断が澄み渡る時間。
その残酷なまでに清浄な静寂の中で、数千の運命を左右する決定は下される。
野営地の中央、簡易指揮所。
荒く削り出された卓の上に広げられた地図には、昨日までにはなかった無数の線が引かれていた。
鋭く伸びる進軍経路。網の目のように巡らされた補給路。そして、血のように赤い墨で引かれた退避ライン。
その傍らには、バツ印で無残に消された線がいくつも重なっている。それは、もはや一分子の価値も持たぬ、打ち捨てられた「過去の選択」の残骸だった。
「……」
アルト・フェルディスは、その地図を凝視していた。
ただ眺めているのではない。彼の脳内では、地図上の等高線が立体的な戦場へと変換され、距離、時間、人員の配置、兵士たちの蓄積された疲労度、士気の減衰率、そして負傷による稼働低下率が、一分子の狂いもない数字の羅列となって弾き出されていた。
「あはは。困ったね。ここは、崩れるよ」
誰にともなく、陽気な、しかし底知れぬ響きを伴った声が落ちる。
「北西の丘陵帯。敵の再編速度が、僕の予測よりも一分子だけ速い。遮蔽物が多すぎて視界が切れる。……正面から真っ当に押せば、確実に分断されて、各個撃破の餌食になるだろうね」
アルトの指が、地図上の一点を叩く。
「……なら、回るか?」
低い、鋼のような声。
エルディア・ヴァレンティナ・グラディウスだ。彼女はいつの間にか、アルトの影のようにその場所に立っていた。
「回るなら、時間が足りないよ」
アルトは即答する。気さくな響きのまま、可能性を瞬時に切り捨てる。
「補給が持たない。兵の疲労も、もう臨界点だ。……一分子の余力も残っていない状態での遠回りは、ただの集団自殺だよ」
「……強行突破か」
「違うね」
即座に否定。
「削るんだよ。局所を、一分子の無駄もなく切り取って、構造そのものを崩す。面で戦っちゃいけない。点の破壊を連鎖させるんだ」
「……」
エルディアは沈黙した。
アルトの語る「削る」という言葉の、その裏側に隠された非情なまでの合理を、彼女は既に噛み砕き、理解していた。
「削るってのは……」
横から、別の声が漏れる。実務を預かる副官だ。
「囮が必要だ、ってことですね? 主力を引きつける、死に体の駒が」
「そうだね」
アルトは迷わない。その瞳には、一分子の躊躇も宿っていない。
「敵の主力を一点に固定する。動かせない、無視できない状態に追い込むんだ。その隙に、僕たちが側面から一番美味しいところを食らう。……最高にハッピーな食卓だと思わないかい?」
「……」
指揮所内の空気が、物理的な重みを伴って沈み込む。
「固定する、というのは……」
「逃げ場を奪うんだよ。包囲されていると錯覚させる。実際には、僕たちが用意した『抜け道』へと誘導するんだけどね」
アルトは言う。
「逃げる方向を、こちらで決める。敵の意志を、僕たちが代行してあげるのさ」
「……」
副官が、深く、重い息を吐き出した。
「……きついですね。その固定役の負担は」
「だからやるんだよ」
アルトの視線は一切揺れない。
「やらなければ、全体が削られる。一分子を救うために全体を死なせるのは、僕の計算機にはない答えだ」
「……」
凍りつくような静寂。
誰もが、この作戦の本質を理解していた。成功すれば、全体の損耗は劇的に抑えられる。
だが。
「……固定役の生存率は、限りなく低い。……いや、絶望的だ」
誰かが、その現実を口にした。
「低いね」
アルトは肯定する。
「八割は落ちる。……運が良ければ、残りの二割が瓦礫の中から這い出せるかもしれない。そんな確率だ」
指揮所の中を、冷たい風が吹き抜けたような感覚。
その数字に、一分子の誇張もないことを、この場の全員が知っていた。
「……誰を置く?」
視線が、自然と一点に集まる。
非情な振り分けを下す、合理の支配者へ。
「……」
アルトは、答えない。
彼が答える前に、その場所を埋めるべき「正解」は既に、構造的に決まっていたからだ。
沈黙。
その厚い壁を切り裂いたのは、凛とした、鋭い声だった。
「――私がやる」
エルディアが言った。
そこに、一分子の迷いも、悲壮感もなかった。
「……」
全員の視線が、彼女に突き刺さる。
武門侯爵家の令嬢。この軍において、アルトの意図を最も正確に体現できる、前線の柱。
「……君が?」
副官が、目を細める。
「最適解だ」
エルディアは、淡々と続けた。
「機動力、現場での判断速度、不測の事態への対処能力。……どれを取っても、この中で私以上のリソースは存在しない。……違うか?」
「……」
誰も否定できない。
それは、感情を排した純粋な「事実」としての提示だった。
「……だが。君が抜けたら、本隊の主戦力が大幅に落ちる」
「落ちないよ」
エルディアは、アルトの横顔を見つめたまま即答する。
「残りの面子で回せるように、貴様が調整しろ。……できるだろう?」
「……」
視線が、アルトに向く。
アルトは少しだけ、その瞳を細めた。
「理由は?」
短く、気さくに。だが、核心を突く問い。
「……」
エルディアは、一瞬だけ沈黙の深淵を覗き込んだ。
そして。
「効率がいい。ただ、それだけだ。一分子の無駄も出さないための、最善の配置だと言っている」
迷いなく、言い切る。
「……」
アルトは、彼女を見た。
いつものような陽気な仮面の裏側にある、底知れぬほどに凪いだ瞳で。
「……」
エルディアも、その視線を正面から受け止める。逸らさない。一分子の揺らぎも許さない。
「……分かった。不採用にする理由が見つからないね」
アルトは、静かに頷いた。
それ以上は、一分子の追及もしない。
「配置は任せるよ、エルディア。最高にハッピーな『固定』を見せておくれ」
「了解した」
エルディアも短く頷く。
会話は、そこで物理的に切断された。
だが。
指揮所に残る者たちの誰もが、気づいていた。
「……」
今のは、「理由」ではない。
効率。最適。
確かに、それは論理的に正しい。
だが。
それだけではない何かが、今のやり取りの中には混ざっていた。
副官が、誰にも聞こえないほどの小声で息を漏らす。
「……本当に、それだけなんですか。……エルディア様」
「……」
誰も、答えない。
エルディアは既に地図に視線を戻し、冷徹な作業へと没頭していた。
「ここに固定線を置く。敵を誘い込むための退路は、この一点。……逃げているように見せて、死地へと引きずり込む。一分子の隙も見せないわ」
彼女の指が、地図の上を駆ける。
「その間に、貴様たちが回り込め。時間は……二刻。それだけあれば、本隊は敵の背後を完全に掌握できる」
「二刻……。その間、持たせられるのか?」
「持たせる」
即答。
その短い言葉の裏側に、鋼のような「覚悟」が、一分子の歪みもなく鎮座していた。
「……」
アルトは、その光景を、ただ見つめていた。
何も言わない。
言う必要が、どこにもないからだ。
彼は理解していた。
彼女の言葉が、一分子の不純物を含んだ「嘘」であることを。
だが。
それでも、彼はそれを採用する。
理由は単純だ。
最適だからだ。
その「嘘」に込められた、非合理なまでの執念を含めて。
すべてが、勝利という結果を導き出すための、巨大な最適配置の一部として機能するからだ。
会議は、終わった。
各員が、それぞれの工程を完遂するために動き出す。
「……」
エルディアは、無言で指揮所を後にした。
砂を蹴る足音は、一定。
呼吸も、変わらない。
だが。
ほんのわずかに。
一分子だけ。
彼女の吐息は、以前よりも深く、重い熱を孕んでいた。
アルトは、その背中を視線だけで追った。
追いかけない。
呼び止めない。
必要がないからだ。
ただ。
理解している。
あの選択が。
「効率」という言葉でコーティングされた、彼女自身の「意志」であることを。
距離を詰めるため。
アルト・フェルディスという、合理の奈落に立つ男の隣に並び立つため、彼女は自ら、死地へと身を投じることを選んだのだ。
風が、吹き抜ける。
朝の光が、野営地を、そしてこれから血に染まる戦場を、一分子の容赦もなく照らし出した。
戦が、始まる。
その巨大な演算の中で、一つの「嘘」が、静かに、しかし決定的な意味を持ち始めていた。
誰も、口にはしない。
だが。
全員が、理解していた。
あの言葉は、最高に気高く、そして美しすぎる「嘘」だったのだと。
第78話、選択。
合理の支配者が下した「正解」は、一人の女の覚悟という名の、不条理な輝きを纏っていた。




