79話:覚悟
夜は、決して静寂には包まれない。
戦場の夜には、必ず何かが執拗に残る。
泥濘の底から這い上がるような負傷者の呻き、鼻腔を突く焦げた肉の匂い、そして湿った土に深く染み込み、決して消えることのない血の鉄錆びた気配。
そして何より――眠りという救いを拒絶された者の、研ぎ澄まされた思考。
野営地の外れ。
篝火の光すら届かない、闇と現実の境界。
アルト・フェルディスは、そこに一人で立っていた。
手に地図は持っていない。
彼にとって、そんな紙の束はもはや必要なかった。
地形、兵数、魔力残量、そして冷徹に弾き出された損耗予測。
すべては彼の脳内で一分子の狂いもなく整理され、確定した「未来の図面」として完成している。
――固定線。生存率、二割。
それが、彼が冷徹に導き出した、明日の戦場の断面図だった。
「……」
合理的だ。
その二割という微かな光の中に、軍全体の勝利という果実が隠されている。
だから採用した。
それだけの話だ。一分子の感傷も、彼の演算を狂わせることはない。
「――おやおや。こんな暗がりまで、一体何の用だい? 来ると思っていたよ」
アルトは振り返らずに言った。
声はいつものように明るく、気さくだ。だが、その陽気な響きの裏側には、一切の隙も、軽口という名の「遊び」も存在しない。
「来た」
短い、鋼を打つような声。
エルディア・ヴァレンティナ・グラディウス。
彼女は闇に溶け込むような足取りで、アルトの背後に立っていた。
重厚な鎧は半分だけ外されているが、その下には戦闘服を固く纏っている。完全に休息を取る気など一分子もないという、無言の意思表示。
「……寝ていないのか」
アルトが問う。
「寝る理由がない」
エルディアが返す。
「あはは、そうだね。僕も同じだよ」
会話は、一度そこで物理的に切断される。
だが、終わらない。
沈黙が、二人の間に重く、深く横たわっている。
「……明日の配置」
エルディアが、沈黙を切り裂くように口を開いた。
「変える気はあるか。一分子でも、再考の余地は?」
「ないよ」
即答。
「あれが、今のリソースで導き出せる唯一の最適解だ。僕の計算機は、嘘をつかないからね」
「……だろうな。貴様なら、そう言う」
エルディアは短く頷いた。
分かっているのだ。それが軍を救うための唯一の正解であり、同時に――地獄の底へと続く、片道切符であることを。
「……なあ」
エルディアの声が、不意に、重い低音を孕んだ。
「何だい?」
「……私は、そこに入る。固定線の、一番熱い場所にな」
「知っているよ。君以上に、その役職を全うできる『機能』は存在しない」
「……止めないのか」
「あはは! 止める理由がどこにある? 君は最高の戦力だ。最適配置を、僕が自ら崩すとでも思っているのかい?」
「……」
正論。
一分子の不純物もない、純粋な正論。
アルトの言葉には、情け容赦という概念そのものが欠落している。
「……怖いかい?」
アルトが、初めて彼女の核心に触れた。
「……ある」
エルディアは、逃げなかった。
一瞬の躊躇もなく、己の恐怖を認めた。
「だが、そんなものは判断を鈍らせるノイズに過ぎない。関係ないな」
「そうだね。最高の回答だよ」
再び、沈黙。
だが、今度の沈黙は、先ほどまでとは違う質感を帯びていた。
冷徹な「演算」の間に、何か別の、熱を孕んだ意思が入り込んでいく。
「……私は」
エルディアの言葉が詰まった。
前線の修羅場を幾度も潜り抜けてきた彼女が、言葉に窮する。一分子の迷いも許さぬはずの彼女の唇が、わずかに震えた。
「……」
アルトは待った。
急かさず、茶化さず。ただ、彼女が何を「出力」するのかを、静かに見守る。
「……私は。お前の隣にいると決めた」
言った。
闇の中で、それは血を吐くような告白よりも重く響いた。
「それは、命令かな? それとも、ただの報告かい?」
アルトの声は、依然として変わらない。
「違う」
エルディアが、一歩、前に踏み出した。
「選択だ。ヴァレンティナの血でも、公爵家の象徴としての役割でもない。私という個の、選択だ」
「……理由は?」
「……」
ここで瞳を逸らせば、すべてが終わる。エルディアは、己の全存在を懸けてアルトを見据えた。
「……分からない。合理でもない。最適でもない。説明のつかない、非効率な衝動だ」
「……」
「だが、離れたくない。お前という男が作る、この狂気じみた構造の中に、私は居場所を見つけた」
その言葉は、小さかった。
だが、この荒れ果てた戦場で、何よりも重く、確かな質量を持っていた。
アルトは、そこで初めて、視線を彼女の方へと向けた。
月光を弾く彼の瞳は、いつもの陽気な輝きとは違う、底知れぬ深淵を湛えている。
「……なら、死ぬな」
空気が、一瞬で凍りついた。
「……それは、命令か?」
「違うよ」
アルトが一歩、距離を詰める。
二人の間にあった「境界」が、一分子も残らず消滅する。
「条件だよ。ハッピーな結末を迎えるための、最低限の前提だ」
「……条件?」
「死ぬような奴は、僕の隣には必要ないんだ。死んだ瞬間、それはリソースから『廃棄物』に変わる。君も知っているだろう?」
「……」
「生きて隣に立ちなさい。できないなら、今すぐこの視界から消えろ。無能な亡霊に構っている暇は、僕にはないんだ」
完全な切断。
甘美な誘いも、安っぽい慰めも一切ない。
だが、それがアルト・フェルディスという男の、最大級の「肯定」だった。
「……」
エルディアの呼吸が、一瞬だけ激しく乱れた。
怒りではない。深い、深い理解だ。
この男に認められる唯一の方法は、不条理な地獄を生き延び、結果を突きつけることだけ。
「……随分と、勝手なことを言うな」
エルディアが笑った。ほんの僅かに、牙を見せるような不敵な笑み。
「合理だよ。一分子の淀みもないね」
「……なら、証明してやる」
エルディアの瞳に、新しい火が灯った。
「死なない。必ず生きて戻り、お前の隣に立つ。……お前に、『私が必要だ』と、その理屈を完膚なきまでに書き換えさせてやる」
「……期待しているよ」
「……もう一つ、言っておくことがある」
エルディアが続けた。
「私は、アンジェリカのような公爵家の令嬢じゃない。……王国の象徴になれるような、綺麗な器でもない」
「……」
「だから、正妻の座なんていう、飾りの椅子はいらない。そんなものは、彼女にでもくれてやればいい」
一拍。
彼女はアルトの瞳の奥を、一分子も逃さずに射抜いた。
「だが――位置は譲らない。お前の背中を預かる場所、お前の隣で剣を振るうその一点だけは、誰にも渡さない」
空気が、極限まで張り詰める。
「……なら、奪ってみなよ。僕の隣は、座っているだけで維持できるような、甘い場所じゃない」
アルトは、ゆっくりと、しかし確実な宣告を返した。
「与えないよ。実力で、結果で、その地位を奪い取りなさい」
それが、完全な回答だった。
「……ああ。最初からそのつもりだ」
夜が、ゆっくりと終わろうとしていた。
地平の彼方、朝の予感が空の色を薄めていく。
再び、凄惨な「振り分け」が始まる。
アルトは、前を向いた。
彼の隣には、今、一人の女が立っている。
一分子の迷いも、揺らぎもなく。
ただ、明日を生き抜くという「不合理な覚悟」だけを武器にして。
「さあ! 最高にハッピーな一日の始まりだ。みんなを動かして、最高の盤面を作ろうじゃないか、エルディア!」
アルトの陽気な声が、朝の静寂を突き破った。
戦いが始まる。
そこにはもう、ただの駒ではない、一人の戦士としての魂が、静かに、そして激しく燃え上がっていた。




