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準男爵家の二男だが、合理で戦場を支配したら公爵令嬢と侯爵令嬢に選ばれた件  作者: 慈架太子


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77話:距離

風は、穏やかだった。


戦の匂いは、まだ完全には消え去っていない。しかしそれでも、数刻前までの鉄と硝煙に満ちた地獄に比べれば、ここは確かに「休息」と呼ぶに相応しい場所だった。


簡易野営地。

そこには、かつての軍隊に見られたような無秩序な喧騒はない。整然と並べられた天幕、等間隔に配置された歩哨、一分子の無駄も排した物資の集積。それ自体が、アルト・フェルディスという男が描き出した戦術の延長線上にある「構造」だった。


「……」


アルトは、その野営地の最も外縁、境界線となる場所に座っていた。

背を預けているのは、戦火で倒れた一本の巨木。

視線は、真っ直ぐに前を向いている。何かを凝視しているようで、その実、網膜に映る景色をただのデータとして受け流しているかのような、凪いだ瞳。


「……」


魔力の流れは、極めて安定している。

周囲数キロの気配はすべて、彼の無意識の領域で把握済みだ。伏兵も、残党の気配もない。脅威は、存在しない。

だからこそ。


「……」


彼の思考は、一時的にその回転を止めていた。

必要がないからだ。

一分子のエネルギーも浪費せず、来るべき次の「振り分け」のためにリソースを温存する。それが彼の、気さくな仮面の裏側にある真実の姿だった。


「……」


足音が、聞こえてきた。

軽い。だが、重心が一切ぶれない、極めて鍛え上げられた足取り。


「……」


アルトは、視線を動かさなかった。

近づいてくるのが誰であるか、一分子の疑いもなく理解していたからだ。


エルディア・ヴァレンティナ・グラディウス。

彼女の歩みは、常に一定だった。速くもなく、遅くもない。戦場を歩く時も、休息の場を歩く時も、彼女は自らの「戦士」としてのリズムを崩さない。


「……」


彼女は、アルトから数歩離れた、一定の距離で足を止めた。

近すぎず、遠すぎず。

互いの剣が届く範囲の外であり、かつ、囁き声が十分に届く範囲の内。

それ以上、彼女は踏み込まない。


「……」


沈黙が、重く、静かに二人の間に落ちる。


周囲では、兵たちが束の間の休息を取っていた。

革袋から水を飲み、刃の欠けを研石で整え、仲間の傷に清潔な布を当てる。

どこにでもある日常のような光景。だが、その一人ひとりの動きは、かつてよりもずっと統制され、静かな緊張感を孕んでいる。彼らはもう、自分たちが巨大な「機構」の一部であることを理解していた。


「……」


エルディアは、視線を逸らさなかった。

アルトの、陽気な仮面を脱ぎ捨てた無機質な横顔を、静かに見つめている。


「……」


だが。

彼女は、一分子の言葉も発しない。


「――あはは。何か言いたいことがある顔だね、エルディア」


先に口を開いたのは、アルトだった。

視線は依然として前方の空に向けられたまま。声はいつも通り明るく、気さくだ。だが、そこには軽口という名の「不純物」は一分子も混じっていない。


「……」


エルディアの瞳が、わずかに揺れた。

ほんの一瞬。武門の令嬢としての鉄の自制心が、わずかに波打つ。


「……ない。今は、な」


短く。

それだけを返した。


「……」


アルトは、何も返さない。

追及も、冗談も言わない。ただ、その答えを一つの確定した「事象」として受け入れただけだった。


沈黙が、再び場を支配する。

だが、その沈黙は決して不自然なものではなかった。

二人の間には、もはや言葉を尽くすまでもない、深い「理解」が横たわっていた。


戦場で見せた、互いの動き。

下された判断の是非。

そして、積み上げられた死体と生存者の数という「結果」。

それで、すべては語り尽くされていた。


「……」


だが。

それでも。


「……」


言葉にしていない、形にならない何かが、まだそこには残っていた。


エルディアは、それを痛いほどに分かっていた。

アルトが提示した「構造」。命を数として扱い、一分子の無駄も許さずに全体を生かす、あの狂気じみた合理性。

彼女はそれを理解し、自分のものとして使いこなしてみせた。


だが。

その「構造」を支える、アルト・フェルディスという男の奥底にある「覚悟」の部分については。


「……」


まだ、触れることさえできていない。

だから、彼女は距離を取る。


「……」


今、無理に踏み込めば。

せっかく噛み合い始めたこの「機構」が、音を立てて壊れてしまう予感があった。


「……」


まだ。

その段階ではない。


彼女は視線を、わずかに逸らした。

かつて自分が死線を潜り抜け、今はアルトの支配下にある、前線の方角。

そこにはまだ、消え残った戦いの火種がある。すべてが終わったわけではない。


「……」


アルトもまた、同じ方向を見ている。

同じ景色を、同じ戦後処理のデータを、同じ未来の予測を。


だが。

見えている「質」は、同じではないのだ。


エルディアは理解した。

あの戦術も、あの配置も。

手順としてなぞることはできても、彼が背負っている「冷徹な光」の正体を、自分はまだ言葉にできない。


だから。

今は、言わない。


時間が必要だった。

アルトのやり方を、自らの血肉として完全に同化させるための時間。

そして、彼という存在がもたらす「残酷なまでの救い」を、自分の中で噛み砕き、納得させるための時間が。


それが終わるまでは。

彼女は、この距離を保ち続ける。


風が、強く吹いた。

天幕の布がバタバタと騒がしい音を立て、焚き火の灰を宙に舞い上げる。


その音の中で。

エルディアは、静かに、深く息を吐いた。

ほんのわずかだけ、肩の力を抜く。


だが。

次の瞬間には、彼女の表情は再び、厳格な「前線の女」のものへと戻っていた。


「あはは。無理に距離を詰める必要はないよ、エルディア。君は君の場所で、正しく『機能』してくれれば、それで最高にハッピーなんだから」


アルトが、再び口を開いた。

相変わらず視線は動かさないが、その声には、彼女の逡巡をすべて見透かした上での、気さくな肯定が宿っていた。


「……分かっている」


短く、それだけ。

それ以上は、必要ない。


沈黙が戻る。

だが、その沈黙は先ほどよりも、ほんの一分子だけ、軽くなっていた。

理解が一つ、積み重なった証拠。


言葉にしなくても、伝わる。

伝わって、共有される。

それが、今の二人の間に築かれた「距離」だった。


近すぎず、遠すぎず。

互いが最高のパフォーマンスを発揮するための、冷徹な最適解。

それ以上は、一分子たりとも踏み込まない。

それが、今のこの戦場における「正解」なのだ。


エルディアは、ゆっくりと踵を返した。

砂を蹴る確かな足音。

彼女は離れていく。迷いなく、自分の持ち場へと。


アルトは、見送らなかった。

ただ、そこに座り続け、前方の虚空を見つめ続けていた。


それでいい。

それがいいのだ。


空は、どこまでも静かだった。

戦はまだ終わらず、明日にはまた血が流れるだろう。

だが。

この一瞬、野営地を包む静寂だけは。

来るべき巨大な「覚悟」の前の、一分子の狂いもない、正しい静けさだった。

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