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準男爵家の二男だが、合理で戦場を支配したら公爵令嬢と侯爵令嬢に選ばれた件  作者: 慈架太子


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62話:綻び

石造りの会議室は、不気味なほどに整っていた。


重厚な石壁には王国の紋章が掲げられ、床は塵一つなく磨き上げられている。中央に据えられた長い黒檀の卓を、揺らぐことのない燭台の炎が静かに照らしていた。


外とは、違う。

あの鼻を突く血の匂いも、泥にまみれた難民の呻きも、遺体を運ぶ兵士たちの荒い息遣いも、この厚い壁を越えることはできない。ここは、現実を「情報」へと濾過し、清潔に処理するための隔離空間だった。


「――以上が、此度の大侵攻における戦果報告である。まずは、最前線で剣を振るった諸侯の尽力に、心より感謝する」


上座に座る老貴族の声が、冷たい静寂を満たす。重々しく、形式に則った謝辞。

「特に中央街道の防衛成功は、王国崩壊の危機を救ったと言っても過言ではない。実に、見事な采配であった」


居並ぶ貴族たちの間で、肯定の囁きが広がる。彼らにとっての勝利とは、地図上の重要拠点が染め直されるか否かという一点に集約されていた。


「……」


アンジェリカ・ラファ・ヴァルクレイアは、最上席に近い位置に、背筋を正して座っていた。

公爵家令嬢としての誇りを象徴するかのような、一点の曇りもない姿勢。だが、その表情はいつもの華やかさを欠き、深淵を見つめるかのように静かだった。


「しかし」


その賛辞を断ち切るように、別の声が響く。少し若いが、野心と鋭さを隠そうともしない言葉。

「西側戦線の壊滅、および外縁小集落の全滅は、王国にとって看過できぬ損失だ。……現場の判断に偏りがあったのではないか?」


空気が、一瞬で鋭利なものへと変わる。


「指揮系統の混乱か、あるいは情報伝達のミスか……。中央に戦力を過剰に集中させた結果、救えるはずの拠点が手薄になり、無残に切り捨てられた。これは戦略的成功であると同時に、重大な統治上の『過失』と言えるのではないか?」


言葉が、冷徹に並べられていく。

責任の所在を突き止めるための、政治という名の戦い。

中央街道を守り抜いた「功績」を認めつつも、その裏で支払われた「代償」を攻撃材料に変える。


「……結果として勝利した以上、あの場での判断は正しかったと評価すべきだ」

「だが、同様の事態が再び起きた際、同じ冷酷な選択が許されるのか。民の信頼を損なうような采配が『王国の正義』であっていいはずがない」


場が、静かにざわめき始める。

誰も否定しない。否定できない。事実は、アルト・フェルディスが多くの場所を見捨てたことを示しているからだ。


「……」


アンジェリカは、ゆっくりと視線を上げた。

彼女の内側にある「誇り」が、周囲の低俗な責任追及に反応し、熱を帯びる。


「……誇りある采配とは」


一言。

その鈴を転がすような、しかし芯の通った声が場を制圧した。

視線が彼女に集まる。


「……すべてを守るという強い意思と、そのために己の命をも賭す覚悟のことです。……最初から切り捨てを前提とした戦いは、本来、騎士道ある者が、そして王国を背負う者が取るべき形ではありません」


はっきりと、淀みなく。

それは、彼女自身の本質であり、彼女が信じてきた「正しさ」の根幹だった。

年長の貴族たちが深く頷く。伝統を重んじる彼らにとって、アンジェリカの言葉は心地よい響きを持っていた。


「今回の勝利は、確かに結果として成立しました。……ですが、それが常に正しいとは限りません。心なき采配は、いつか必ず致命的な綻びを生みます。私たちは、効率ではなく、高潔さをこそ重んじるべきです」


アンジェリカの声には、力が宿っていた。

だが――。

その力強さの裏側に、自分でも気づかないほどの微かな「虚しさ」が混じっていた。


「――おやおや! 随分と高尚な議論に花が咲いているね! 聞いているだけで、僕の鼻が高くなっちゃいそうだよ!」


その時、会議室の端から、場違いなほど明るい声が割って入った。


アルト・フェルディスだ。

彼はいつものように気さくな、しかし一切の隙を感じさせない笑顔を浮かべ、椅子に深く背をもたれさせていた。


「再現性は?」


短く。鋭く。

陽気な仮面の裏から、真実を射抜くような一言。


「……」


部屋の温度が、一瞬で数度下がったかのような錯覚。


「……どういう意味かしら、フェルディス殿」

アンジェリカは、平静を装って問い返す。


「言葉通りの意味だよ、アンジェリカ様! あはは、そんなに難しい話じゃない。……君の言う『高潔な意思』とやらがあれば、次の大侵攻でも、この被害を半分に抑えて、かつ拠点をすべて守り抜くことができるのかい? 理想論じゃなく、具体的な手順レシピで示してほしいな」


「……」


「意思があれば、人員の移動速度は上がるのかい? 覚悟があれば、兵士の生存時間は延びるのかい? 誇りがあれば、敵の包囲速度は遅くなるのかい? ……もし答えがノーなら、君の言葉は勝利の条件には含まれない。『ノイズ』だ」


淡々と。気さくなトーンのまま、彼はアンジェリカの主張を根底から解体していく。

「人員、位置、時間、補給。これらが揃って初めて勝利は再現できる。揃わないなら、何かを切るしかない。……違うかい?」


アンジェリカの指が、黒檀の卓の上でわずかに震えた。

反論しようとして、唇を噛む。

「……誇りは、戦う者にとって必要なものよ。それがなければ、人はただの肉の塊になるわ」


「必要だね。一分子の異論もないよ!」

アルトは快活に頷いた。

「だが、それが勝てるかどうかは別問題だ。僕はね、誇りを守って全滅するよりも、泥を啜ってでも生存する方を『ハッピー』と呼びたいんだ。君の言う綻びは、僕が縫い合わせる。……手順でね」


「……」


言葉が出ない。

周囲を見渡しても、さっきまで彼女に賛同していた貴族たちが、気まずそうに視線を逸らしている。

アルトが提示した「理屈の重さ」に、彼らは圧倒されていた。

意思や誇りという、目に見えない不確かなものよりも、アルトが並べた「構造」と「結果」の方が、この冷たい会議室においては圧倒的な説得力を持っていた。


アンジェリカは、初めて、完全に沈黙した。


理解してしまったのだ。

自分の言葉が通じていないのではない。

アルトの築き上げた「正解」の前では、自分の理想は、具体性を持たないただの装飾に過ぎないのだということを。


「……」


顔には出さない。公爵家の令嬢として、視線は逸らさず、背筋は伸ばしたまま。

だが、彼女の内側で、何かが音を立てて崩れ去った。

昨日まで自分を支えていた「誇り」という名の背骨に、小さな、しかし修復不能な亀裂が入った瞬間だった。


「さて! 建設的な議論はここまでだ。次の議題に移ろうか。復興のためのリソース配分、これがまた最高にパズル的な難問でね! みんな、僕のタクトに合わせて、効率よく数字を動かしてくれよ!」


アルトはすでに、アンジェリカとの対話を終わらせていた。

彼の興味はすでに「次の最適解」へと向かって加速している。


アンジェリカは、静かに、誰にも気づかれないように息を吐いた。

彼女の目の前には、アルトが引いた冷徹な防衛線の地図が広がっている。


誇りは消えていない。

だが、それはもう、彼女にとって絶対の盾ではなくなっていた。

現実という名の重圧に押し潰され、歪み、綻び始めている。


会議は続く。誰かが話し、誰かが頷く。

だがその声は、もはやアンジェリカの耳には届かなかった。


第62話:綻び。

合理の支配者が突きつけた「再現性」という名の真理は、気高い令嬢の魂に、二度と埋まらぬ裂け目を刻み込んでいた。

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