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準男爵家の二男だが、合理で戦場を支配したら公爵令嬢と侯爵令嬢に選ばれた件  作者: 慈架太子


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63話:検証

空は、どこまでも澄み渡っていた。


昨日の会議室での重苦しい空気、あの淀んだ沈黙が嘘のように消え、視界は地平の果てまで抜けている。風は穏やかに草原を撫で、鉄の匂いも今はもう、春の芽吹きの香りに上書きされつつあった。


だが――。

それが、すべてが終わったという意味ではないことを、アンジェリカ・ラファ・ヴァルクレイアは誰よりも深く理解していた。


小規模掃討任務。

大侵攻の後の残党狩り。本来ならば、彼女のような高貴な将が自ら赴くような規模ではない。だが、彼女は志願した。自分の「誇り」という名の背骨に走ったあの小さな綻びを、自らの「正しさ」で縫い合わせるために。


「やあ、アンジェリカ様! 今日のコンディションは最高だね。空気も美味しいし、絶好の『検証』日和だ!」


指揮を執るアンジェリカの傍らで、アルト・フェルディスがいつものように朗らかに笑った。彼は今回、指揮権をすべてアンジェリカに譲り、自らは一人のオブザーバーとして、気さくな足取りで彼女に随伴している。


「……黙っていて。私は、私のやり方でこれを示すわ」


アンジェリカは前を見据えたまま、冷たく言い放った。その瞳には、かつてないほどの鋭い意志が宿っている。


「配置、完了しました!」

報告が上がる。無駄のない、研ぎ澄まされた声。


「確認したわ」

アンジェリカが頷く。

その采配は、非の打ち所がないほどに「美しい」ものだった。


前衛、中央、後衛。左右のバランスは完璧に均衡を保ち、教本に記された理想の陣形が草原に描かれている。

「前衛、突出しすぎないように。常に中央との距離を維持し、高潔な盾として機能しなさい」

的確な指示。無駄な感情を排し、秩序そのものを形にしたような軍の動き。


エルディアは少し離れた位置で、黙ってその様子を見守っていた。彼女の役目は今回、不測の事態に備えるだけの遊撃だ。干渉はしない。


リュミエラは後衛の治療班にいた。

まだその瞳には影が差しているが、彼女は自分の足で立ち、目の前の現実から目を逸らさないように努めていた。


「……始めるわ」

アンジェリカの合図。

すべては彼女の「理想」に従って動き出す。


魔物の気配は前方。数、規模、ともに予測の範囲内。

「前衛、接敵。予定通り、面で受けなさい。一分子の乱れも許さないわ」

流れるような指揮。魔物の一撃を、盾の列が整然と受け止める。

剣が振られ、魔法が飛ぶ。混乱はない。そこにあるのは、アンジェリカが作り上げた完璧な「秩序」だった。


「……いい流れね」

誰かが小さく呟く。

確かに、理想的だった。アルトのような「切り捨て」を前提とせず、全員が役割を全うし、全員が等しく守られる戦い。


だが。


「――左、反応! 森の中、数が増えています!」

突如、静寂を破る焦燥の混じった報告。


「何?」

アンジェリカの眉がわずかに動く。

「左翼……? 索敵の範囲外だったはずよ」


「森の中から……速い! 想定以上の個体数です!」

報告が重なる。

アンジェリカの思考が火花を散らす。想定外の増援。だが、彼女の選んだ答えは、理想を崩さないことだった。


「前衛、下がらずに維持! 中央、圧を上げてそのまま正面を押し切りなさい! 左右の援護が来るまで、一歩も引くことは許しません!」

即座の判断。美しい。王道だ。

逆境にあっても陣を崩さず、誇り高く立ち向かう。それが騎士の、そしてヴァルクレイア家の戦い方だ。


「あはは! 勇ましいね、アンジェリカ様。でも、その『形』に拘りすぎると、足元を掬われちゃうよ?」

アルトが気さくに、しかし冷酷な事実を告げる。


「黙っていろと言ったはずよ!」

アンジェリカが叫ぶ。


だが、現実は残酷だった。

森から現れた魔物は、彼女の「計算」を嘲笑うかのように速かった。側面への接触。

「右、押されてます! 盾が持ちません!」

悲鳴のような声。


「持ちこたえなさい! 高潔なる志を忘れるな!」

指示。激。

だが、その言葉は魔物の爪を防ぐことはできない。

一瞬。ほんの一瞬の判断の遅れ。

「完璧な形」を守ろうとしたがゆえに、状況の変化への適応が遅れた。


「……!」

前衛の列が、わずかに、しかし決定的に押し込まれる。

一歩。たった一歩の退却。

だが、アンジェリカが築いた「左右均衡」という名の脆いガラス細工には、それで十分な亀裂だった。


「中央、詰まるな! 間を空けるな、補填しなさい!」

必死の修正。

だが、一度崩れた均衡は、物理的な連鎖となって全体を蝕んでいく。

左翼もまた、同時に強い圧力を受けた。まるで魔物たちが、彼女の「理想の陣」の弱点を理解しているかのような連動。


「……な、ぜ……」

アンジェリカの瞳が、驚愕に見開かれる。

配置は完璧だった。兵士たちの練度も申し分ない。

なのに、現実は音を立てて崩れていく。


「後衛、前進して支援! 左右の綻びを埋めなさい!」

指示。だが、現場は混乱していた。前衛が詰まり、逃げ場を失った兵士たちが通路を塞いでいる。


「――っ、ぐあぁぁ!」

一人の兵が倒れる。致命ではない。だが、それは彼女の「完璧な勝利」が死んだ瞬間だった。


「押し切るな、引け! 全員一斉に、斜めに圧を逃がしながら後退だ!」

その時、エルディアの声が雷鳴のように響いた。

短く、重く、現実を直視した声。


「……っ、引くですって……!?」

アンジェリカが逡巡する。誇りが、その決断を邪魔する。

だが、目の前の惨状を見れば、もはや答えは一つしかなかった。


「……撤退! 全員、整然と下がりなさい!」

決断。

遅くはなかった。壊滅は免れた。

だが、そこには彼女が望んだ「高潔な勝利」の美しさは微塵もなかった。


「……」


戦闘が、終わる。

追いすがってくる魔物をエルディアが文字通り一掃し、一行は何とか拠点へと戻った。

大敗ではない。だが、本来不要だったはずの損耗が、重く兵士たちの肩にのしかかっている。


「……」


再び、静寂。

アンジェリカは草原に立ち尽くしていた。

夕闇が迫る草原。

視線が、地面へと落ちる。

そこには、さっきまでなかったはずの血の染みが、無惨に広がっていた。


拳が、白くなるほどに握り締められる。

震えている。

誇りが、悔しさが、そして何より、自分自身への「疑念」が止まらない。


頭の中で、何度も配置を再生する。

教本通り。理想通り。

一分子の隙もないはずの「形」。


「あはは、お疲れ様、アンジェリカ様! 良い勉強になったね。君の陣は、確かに美しかった。美術館に飾るなら、一〇〇点満点だよ」

アルトが、いつものように陽気な足取りで近づいてくる。


「……皮肉なら、後にしなさい」

アンジェリカの声は、力なく震えていた。


「皮肉じゃないさ、本音だよ。ただね、戦場は美術館じゃないんだ。君が守ろうとした『形』は、状況という名の暴力の前では、ただの重りになっちゃった。……人を助けたいという『意思』は、時に判断を遅らせる最大のノイズになる。……検証結果、だね」


アルトの言葉が、彼女の心に冷徹な事実を刻み込んでいく。


「……こんなはず、ないわ……」

小さく、呟く。

「私は、間違っていない。……間違っていないはずなのに」


理想と現実の、絶望的なまでのズレ。

自分の信じてきた「誇り」が、実戦という名の演算の前で、どれほど無力であったか。

リュミエラが後方で、苦い表情をしながら負傷者の手当をしている。

それもまた、彼女が招いた現実だった。


「さあ! 湿っぽいのは終わり。反省が終わったら、次は再編のパズルを解こうじゃないか! 一分子の無駄も出さないように、次の『最適解』を探しに行こう!」


アルトは朗らかに笑い、彼女に背を向けた。


アンジェリカは、その背中を見つめ、立ち尽くす。

綻びは、もう隠せないほどに広がっていた。

それでも。

彼女は折れることを、自分自身に許さなかった。


第63話、検証。

夕闇に沈む草原で、気高い令嬢のプライドは、血の味のする現実に塗りつぶされようとしていた。

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