61話:余波
匂いが、消えない。
嵐のような大侵攻が過ぎ去り、風は穏やかな凪を取り戻していた。空はどこまでも高く、澄み渡っている。だが、地面に深く染みついたものは、そう簡単に消えはしない。剥き出しの土に吸い込まれた大量の血、魔物の体液、焼けた肉の脂、そして死の予感そのものが、重い澱となって空気の底に沈んでいた。
中央街道。
勝利という名の「結果」が確定した場所。
だが、そこに広がっていたのは、勝鬨など一分子も存在しない、泥臭い後処理の光景だった。
「こっちに運べ! 早くしろ!」
「識別が終わってない個体がある、待てって言ってるだろ!」
「布が足りない? 贅沢言うな、適当な旗でも幕でも切って使え!」
声が飛び交う。
だが、それは昨日の戦場で見られたような、高揚を孕んだ叫びではない。怒号でもない。ただ、終わりの見えない作業と、背負いきれないほどの疲労に押し潰されそうな、乾いた声だ。
兵たちが、黙々と遺体を運んでいる。
一体ずつ。重みを腰で受け、持ち上げる。
並べる。分ける。
魔物と、人を。
誰も、顔を上げようとはしない。隣の者と目を合わせることさえ避けている。ただ、機械的に手足を動かし、目の前の「物」を片付けていく。
「……」
街道の脇では、難民の列が延々と続いていた。
中央に流れ込んできた人々。
「守られた側」。
「生き残った側」。
だが――その顔に、安堵の光は一分子も宿っていない。
ただ深い虚無と、自分が生きていることへの戸惑い、そして行き場のない混乱だけが、一列に並んでいた。
「水を……誰か……」
「食べ物は……いつになるんだ……」
声は小さく、弱い。
だが、その呟きは波のように重なり、止まることはない。
救われた後の地獄。それもまた、紛れもない現実だった。
「……」
アンジェリカ・ラファ・ヴァルクレイアは、その泥濘の中を歩いていた。
一歩ずつ、地面を踏みしめるように。
公爵令嬢としての気位を、鎧のように身に纏いながら。
視線は絶えず動き、遺体の山、難民の瞳、兵士の震える手、そのすべてを直視する。
逃げない。
目を逸らさないことが、今この場に立つ「象徴」としての最低限の責務だと、彼女は理解していた。
「……」
道端で、一人の女が子供を抱きしめていた。
泣いてはいない。叫んでもいない。
ただ、すでに冷たくなっているはずの小さな塊を、二度と離さないと言わんばかりの強さで抱きしめている。
「……」
アンジェリカの足が、止まる。
その光景を、魂に刻み込むように見つめる。
何か声をかけるべきか。だが、どんな高貴な言葉も、今の彼女の前では一分子の価値も持たない。
彼女は再び歩き出した。
すぐ隣には、布に覆われた遺体の列。
長い。あまりにも長い列。
中央街道は守られた。戦術的には「大勝利」だ。
それでも、この数。
「……」
アンジェリカの脳裏に、アルトが示した報告書の数値が重なる。
生存率、八〇パーセント以上。
損耗率、予測の範囲内。
勝利の確率は、一〇〇パーセントに収束した。
それは、完璧な「正解」だったはずだ。
「……」
だが、目の前の現実は、数字が持つ清潔さとはあまりにかけ離れている。
彼女は、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……これが」
言葉が、途中で止まる。
「……これが、あなたの言う“正しい勝利”なの?」
その問いは、空虚に響いた。
「結果だ。以上。あはは、それ以外に何を期待してたんだい?」
即答だった。
後ろから響いた、場違いなほど明るい声。
振り返らなくても分かる。
アルト・フェルディスだ。
アンジェリカは、ゆっくりと向きを変えた。
そこに立つ男は、昨日と何ら変わらない様子だった。
泥も返り血も浴びてはいるが、その瞳には一分子の陰りもなく、陽気な輝きを保っている。
「……それだけ?」
アンジェリカの声には、抑えきれないトーンが混じっていた。
「それ以外に何がある。中央街道は健在。敵主力は消滅。避難民の八割は存命。……これ以上のハッピーエンドが、この地獄に転がってるとでも?」
アルトの答えには、迷いがない。
彼はいつものように気さくな足取りで彼女の横に並び、手元のメモに何かを書き込んでいく。
「……人が」
アンジェリカは、遺体の列を指差した。
「……これだけ、死んでいるのよ? あなたの隣で、たった今も一人の母親が、動かない子供を抱いている。それを見ても、あなたは同じことが言えるの?」
「想定内だね」
アルトは即答した。冷たい。だが、圧倒的に正確な響き。
「僕の計算では、あと三パーセント死者が増える可能性すらあった。それを思えば、これは最高に効率的なリソース管理だったと言えるよ。あはは、褒めてくれてもいいんだよ?」
「……あなたは」
アンジェリカの眉が、鋭く寄る。
「……それでいいの? 心が痛むとか、後悔するとか……そういう『人の感情』は、あなたの構造には組み込まれていないのかしら」
問い。価値観の衝突。
アルトは、少しだけ視線を動かした。
遺体。難民。汚れ。
彼はそれらすべてを一度に視界に収め、それからアンジェリカの瞳を真っ直ぐに、陽気に覗き込んだ。
「いい悪いの話じゃないんだよ、アンジェリカ様。僕がしているのは、『必要だったかどうか』という選別だ。……感情で判断を鈍らせて、ここに並ぶ遺体を二倍に増やすことが『人』だと言うなら、僕は喜んで化け物でいいさ」
「……」
アンジェリカは、絶句した。
言い返そうとして、喉元まで出かかった言葉が、事実という名の重石に押し潰される。
中央街道は守られた。
それは、彼が「化け物」として振る舞ったからこそ得られた、唯一の現実だ。
「……」
否定できない。
だが、納得など、一生かかってもできるはずがない。
「……」
アルトは、もう彼女を見ていなかった。
視線を外した瞬間、彼はすでに「次の工程」へと意識を切り替えている。
「あ、そこの君! 東側の難民、少し分散させて。あそこに留まらせると、水の配給が詰まっちゃうよ。一分子の淀みもなく流して! ハイッ、移動!」
アルトの指示が飛ぶ。
陽気な采配。
徹底した振り分け。
彼の周りだけが、残酷なほどの活気に満ちて動き出す。
アンジェリカは、その背中をじっと見つめていた。
変わらない。一切。
この悲惨な光景を背景にしても、彼は一分子の動揺も見せない。
胸の奥に残る、得体の知れない違和感。
それは、彼の「正しさ」に対する恐怖か。それとも、その正しさに縋らざるを得ない自分への嫌悪か。
「……」
彼女は、目を逸らさなかった。
見る。全部を。
アルトが切り捨てたものも、救い上げたものも。
それが、勝利の現実であり、自分が負うべき「余波」なのだ。
「……ふぅ」
小さく、重い息を吐く。
言葉にはできない。
否定もできない。
理解もできない。
けれど。
納得しないことだけが、彼女に残された最後の誇りだった。
風が吹き、血の匂いを遠くへと運んでいく。
消えることのない余波の中、合理の支配者は笑いながら、新しい秩序をこの荒野に刻み込み続けていた。
第61話、余波。
勝利の後に残されたのは、あまりに重い「正解」の形だった。




