57話:揺れる誇り
風が、変わった。
戦場を吹き抜けていた、あの吐き気を催すほど重い熱気は、今はもうない。血と硝煙の匂いは依然として大地にこびりついているが、喉を焼き、肺を圧迫していた切迫した「死」の気配は、わずかに軽くなっている。
静けさ。
だが、それは決して安らぎではない。嵐が去った後に残る、救いようのない空白だ。
その沈黙の中を、アンジェリカ・ラファ・ヴァルクレイアは歩いていた。
中央街道。
アルト・フェルディスという男が「勝利」を確定させた場所。
だが、その場所を歩む彼女の足取りは、かつての気高さとは程遠い。泥に汚れ、返り血を浴びたドレスの裾を気にすることさえ忘れ、彼女はただ、一歩ずつ地面を確かめるように進む。
視線は、無意識に地面へと落ちる。
見ないように、意識から外すように努めても、その無惨な「結果」は網膜を突き抜けてくる。
砕けた盾。折れた剣。
そして、それらを握りしめたまま冷たくなった、名もなき兵士たちの亡骸。
「……」
足が、止まる。
一体の死体を見下ろした。まだ十代半ばだろうか。幼さの残る顔は、苦痛に歪んだまま硬直している。
「……守れなかった」
小さく、掠れた声が漏れた。
それは誰に向けた言葉でもない。ただ、自分の内側に深く突き刺すための刃。
顔を上げる。
周囲には、生き残った者たちがいた。
重い体を引きずりながら資材を運ぶ者。傷口を抑え、虚空を眺める者。後始末に追われる者。
「……守った」
別の言葉が、脳裏をよぎる。
中央街道は守られた。この場にいる多くの命は、今、確かに呼吸をしている。
それもまた、揺るぎない「結果」だ。
守れたもの。
守れなかったもの。
その残酷な境界線の上に、彼女は立ち尽くしていた。
「……」
再び、歩き出す。
視線を上げた先、中央広場で依然として「演算」を続ける男の背中が見えた。
アルト・フェルディス。
戦場の真っ只中だろうと、その後始末の場だろうと、彼の在り方は一分子も変わらない。
「やあ、みんな! 手を休めないで。死体の集計が終わったら、次は補給物資の再分配だ! 一秒でも早く終わらせて、最高に温かいスープを飲もうじゃないか!」
アルトの声は、この惨状にあって不気味なほどに明るく、気さくだった。彼は指揮板を片手に、生き残った兵士たちの肩を叩き、淀みない口調で次なる「工程」へと人々を振り分けていく。
アンジェリカは、その背中へゆっくりと近づいた。
アルトは彼女の気配に気づき、わずかに視線を動かす。だが、振り返ることはしない。手元の数字を整理する手を止めず、ただ「そこにいる」ことを認めるだけで応答とする。
「……あなた」
アンジェリカが口を開く。その声には、以前のような傲慢な響きはない。
「……正しいわ。完全にね」
重い言葉。
公爵令嬢としてのプライドを、事実という名の重石で平らにならした、完全な承認。
アルトは何も言わない。当然だ。
彼にとって、自らの判断が正しいことは、一足す一が二になるのと同じくらい明白な「前提」に過ぎない。
「……正しい。そう、正しいのよ」
アンジェリカは、自分に言い聞かせるように繰り返す。
だが、その言葉には、決して消えない「揺れ」が混じっていた。
「……でも。それでも……。……ええ、気に入らないわね。最高に、吐き気がするほどに」
ようやく絞り出したのは、剥き出しの感情だった。
アルトは、静かに答える。
「だろうな。あはは、僕も君に気に入られるためにやってるわけじゃないからね」
気さくな、拒絶。
「……あなたは」
アンジェリカは言葉を選ぶ。
「……それを、平然とやるのね。命を数え、価値を測り、笑いながら切り落とす。……それを『人』として、やり通せるのね」
問いではない。目の前の現象への驚嘆。
「やるしかないんだよ、アンジェリカ様」
アルトの声は朗らかだ。だが、その言葉に潜む「事実の重み」は、彼女の呼吸を奪うほどに鋭かった。
「感情で足を止めて、全員が泥沼に沈むのを待つのが『人』だと言うなら、僕は喜んでその外側に立とう。……僕のタクトが止まれば、今生きている彼らも全員、ただの『処理済みデータ』に変わる。それはハッピーじゃないだろう?」
アンジェリカは、拳を強く握りしめた。
怒りではない。
自らがこれまで信じてきた「誇り」という名の価値観が、アルトの語る「生存という名の合理」の前に、あまりに脆く、頼りなく感じてしまったことへの、戦慄だ。
「……分かるわ。……全部分かっている」
小さく、呟く。
「……それでも。それでも、私の誇りが、それを許さない。……弱者を切り捨てて得た勝利を、ただ手放しで喜べるほど、私は安っぽくできていないのよ」
それが彼女の本質。
公爵家令嬢として、弱きを助け、高潔であるべしと教育されてきた、彼女の「骨」だ。
アルトは、初めて振り返った。
その瞳は、いつものように陽気に輝いている。だが、その奥にある「冷徹な光」が、アンジェリカの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「誇りで死ぬなら、僕は止めないよ。それは君の自由だ。……でもね」
一歩、アルトが近づく。
その気さくな距離感に、アンジェリカは反射的に身構えた。
「誇りを理由に、救えるはずの他人を死なせるというなら――僕は迷わず君を切るよ、アンジェリカ様。一分子の躊躇もなしにね。僕の戦場に、不合理なプライドは不要なんだ」
「……っ」
アンジェリカの呼吸が止まる。
理解した。
この男は、自分を「公爵令嬢」として見ていない。ただ、勝利という結果を導き出すための「リソース」の一つとして、冷酷に、そして気さくに測っている。
「……厳しいわね」
ようやく出た言葉は、自嘲に近いものだった。
「現実だよ。あはは、現実はいつだって僕たちの気分を無視して進んでいくものさ」
アルトは再び、指揮板に視線を戻した。
沈黙が流れる。
長い沈黙。
だが、その空気は以前のような拒絶に満ちたものではなかった。
完全には相容れない。だが、互いの「座標」は明確に把握した。そんな、奇妙な共犯関係に近い沈黙。
「……あなた。嫌いじゃないわ、本心よ」
アンジェリカが、唐突に告げた。
「……でも。……好きになることは、未来永劫ないでしょうね。あなたの隣に立つことは、私の誇りを毎日少しずつ削り取っていくのと同じことだから」
「あはは、光栄だね! 僕も、君のような気高いリソースが傍にいてくれるのは、計算のしがいがあって助かるよ」
アルトは気さくに笑い飛ばし、そのまま次なる指示を飛ばすべく歩き出した。
アンジェリカは、背を向けた彼の姿を見送った。
彼女の背筋は、今もなお公爵令嬢としての誇りによって真っ直ぐに伸びている。
だが。
その内側で、彼女の誇りはかつてないほどに揺れていた。
この勝利が「正しい」と認めた瞬間、彼女の中の「理想」が音を立てて崩れ落ちたからだ。
それでも。
彼女は、その揺れを抱えたまま立ち続ける。
それが、彼女に残された最後の、そして唯一の「誇り」だった。
第57話、揺れる誇り。
合理の支配者が下した「正しさ」という名の裁定は、高潔な令嬢の心に、消えない亀裂を刻み込んでいた。




