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準男爵家の二男だが、合理で戦場を支配したら公爵令嬢と侯爵令嬢に選ばれた件  作者: 慈架太子


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58話:再対話

夜は、静かだった。


つい数時間前まで、この大地を震わせていた絶叫も、鉄が肉を裂く鈍い音も、すべてが嘘のように消え去っている。空は高く、澄み渡り、無数の星々が冷徹なまでの輝きを地上へと投げかけていた。遠くで焚かれた篝火かがりびが、夜の闇をわずかに揺らしている。


中央街道の仮設陣地。

勝利を掴み取ったはずのその場所には、祝杯の喧騒など一分子も存在しない。あるのは、ただ重苦しい疲労と、埋まらない喪失感だけだ。


リュミエラは、天幕の外で一人、地面に直接座り込んでいた。

背を丸めるでもなく、膝を抱えるでもない。ただ、魂が抜けたかのような頼りない形のまま、そこに「置かれている」だけだった。


「……」


手は膝の上に投げ出され、指先には一分子の力も入っていない。

視線は足元の泥に向けられている。だが、彼女の瞳は何も映していない。


「……」


まぶたを閉じれば、昼間の光景が鮮明に蘇る。

救済を求められながら、自分の心が壊れて治療を拒んだ、あの惨めな瞬間。

助けられたはずの命。助けられなかった場所。

アルトの明るい声と、切り捨てられた命の沈黙。

そのすべてが、泥水のように混ざり合い、彼女の胸を圧迫していた。


深く息を吸おうとしても、喉の奥で何かがつかえて、肺まで空気が届かない。


その時、規則正しい足音が近づいてきた。

ゆっくりと。迷いのない足取り。

その音はリュミエラのすぐ前で、ぴたりと止まった。


「……」


リュミエラは、重い頭をゆっくりと持ち上げた。

そこには、昼間と何ら変わらぬ様子で立つ、アルト・フェルディスの姿があった。


「やあ、リュミエラちゃん。こんなところで夜風に当たってるのかい? 風邪を引いたら、せっかくの『最高のリソース』が台無しだよ」


いつものように明るい声。気さくな響き。

だが、アルトはそれ以上、無意味な言葉を重ねることはしなかった。

彼はただ、そこに静かに佇み、リュミエラが口を開くのを「待って」いた。


「……アルト、さん」


リュミエラの声は、自分でも驚くほど掠れていた。

それでも、彼女は逃げなかった。この男の瞳から、その「正しさ」から。


「……私、間違っていないはずなのに。……誰よりも、人を助けたいって、そう思ってきたはずなのに。……苦しいんです」


剥き出しの告白。

理屈や構造などではない。ただ、心という器官が上げている悲鳴。


「……」


アルトは、すぐには答えなかった。

彼は夜の静寂を享受するように一拍置き、それから、いつもの気さくなトーンのまま、だが一分子の嘘も混じらない声で言った。


「それでいいんだよ、リュミエラちゃん。あはは、最高に正常な反応だね!」


「……いい……?」


リュミエラの瞳が、困惑に揺れる。

肯定されるとは思っていなかった。叱責されるか、あるいは合理的に「無駄だ」と切り捨てられると思っていたからだ。


「苦しくない方が、異常なんだよ」


アルトは、空を見上げたまま続けた。

「いいかい。僕のように、切った場所のことを何も感じない、数字としてしか見られない生き物はね、世間じゃ『人』とは呼ばないんだ。……君が苦しんでいるのは、君がまだ、救いようのないほど『人』である証拠だよ。それはね、とても貴重な機能なんだ」


「……」


リュミエラの呼吸が、ほんのわずかに楽になった気がした。

自分を否定し続けていた重圧。その一部を、アルトの言葉が「正常な機能だ」として肯定したからだ。


「お前は、感じる側だ。……僕には欠けている、その『痛み』をリソースとして持ち続けなさい。それでいいんだよ」


「……でも。それじゃあ……」


リュミエラは、自分の震える手を見つめた。

「……それじゃあ、私は何もできない。……今日みたいに、目の前の人を助けることさえ、できなくなってしまう。……そんなの、あの日死んでいった人たちに、申し訳ないです」


「今は、それでいいよ」


アルトは即答した。否定も妥協もない、冷徹なまでの「今」の肯定。


「今は、処理が追いついていないだけだ。情報の洪水に、心がパンクしちゃったんだね。あはは、無理もないよ。僕の振り分けは、普通の人にはちょっと刺激が強すぎるからね!」


アルトは一歩近づき、リュミエラの目線を覗き込むように腰を屈めた。その瞳は、いつものように陽気で、一点の曇りもない。


「逃げるな、リュミエラ。その苦しみを、そのまま自分の中に積みなさい。一分子も捨てずにね」


「……積み、上げる?」


「そう。積んで、その重さに耐えきれずに潰れて壊れるか。……それとも、積んだものを土台にして、新しい自分という『形』を再構築するか。……それを選ぶのは君だ」


アルトの言葉は、残酷なまでに明確な二択だった。

優しくはない。だが、これ以上なく誠実な「対話」だった。


「……」


沈黙が流れる。

リュミエラは考える。自分の中によどんでいる、この泥のような感情。

これを捨て去ることはできない。ならば、これを抱えたまま、どうやって「聖女」として立てばいいのか。


「……分かりません。……どうすればいいのか、まだ、一分子も分かりません」


「あはは! それでいいんだよ! 分からないからこそ、計算のしがいがあるってもんだ。君は君のペースで、そのぐちゃぐちゃな自分を整理していけばいい。僕が待ってあげるからね」


「……」


リュミエラの肩から、ふっと力が抜けた。

完全に解決したわけではない。明日になれば、また血の匂いに足がすくむかもしれない。

けれど。


「……また、できるようになりますか。……私、また、人を救うために、手を伸ばせますか」


震える声での、祈りのような問い。


アルトは、少しだけ目を細め、それから最高に明るい笑顔で断言した。


「なるよ。確信を持って言える。……君は僕が見込んだ『最高のリソース』だからね。壊れたまま放っておくほど、僕は無能じゃないよ。安心しなさい」


「……はい」


リュミエラの瞳に、涙が浮かぶ。

だが、それは先ほどまでの虚無の涙ではなかった。

内側から温かな血が通い始めた、生きている人間の涙だった。


アルトはそれを確認すると、「よし、解決だね!」とパンと手を叩き、いつもの気さくな足取りで背を向けた。


「じゃあ、僕は仕事に戻るよ。再編作業が山積みなんだ。一分子の無駄も出せないからね! おやすみ、リュミエラちゃん。良い夢を!」


アルトは振り返ることなく、暗闇の向こうへと去っていった。

彼の背中は、相変わらず冷徹で、合理の塊で、そして――誰よりも強く、真っ直ぐだった。


リュミエラは、その背中をじっと見つめていた。

完全に理解し合える日など、一生来ないだろう。

けれど、あの背中を追うために、自分もまた「自分の形」で立たなければならないのだと、静かに悟った。


リュミエラは、震える手で地面を押し、ゆっくりと立ち上がった。

足取りはまだ、おぼつかない。

けれど、一歩。

彼女は自分の足で、天幕の中へと、救いを待つ人々の元へと歩み出した。


夜は、静かだった。

だが、その静寂の中で、少女の心という名の「構造」は、ゆっくりと、確実に、再生のための鼓動を始めていた。


第58話、再対話。

合理の男が投げかけた言葉は、折れかけた聖女の心に、新しい「正しさ」の種を植え付けていた。

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