56話:空白
音が、遠い。
人の声も、慌ただしい足音も、鎧が擦れる金属音も、すべてが分厚い膜を隔てた向こう側にあるようにぼやけている。視界は開けているはずなのに、焦点がどこにも定まらない。目に入る形は判別できても、その意味が、心が、現実として追いついてこない。
リュミエラは、薄暗い天幕の中にいた。
仮設の治療所。
使い古された布で囲われた空間。隙間なく並べられた寝台。横たわり、苦悶の表情を浮かべる負傷者たち。薄暗い天幕の中を、あちこちで揺れる淡い治癒魔法の光が、不気味なほどに青白く照らし出している。
神官たちの手が、止まることなく動いている。
血を拭い、砕けた骨を整え、必死に光の魔力を流し込む。
「次、こっちだ! 出血が止まらない、急げ!」
「こっちは魔力枯渇だ! 誰か、交代を!」
怒号に近い声は、確かにそこに存在している。
だが――。
そのどれもが、リュミエラの耳を滑り落ち、届くことはなかった。
「……」
リュミエラは、ただ突っ立っていた。
入口のすぐ近く。邪魔にならない隅の場所。
だが、そこから一歩も動いていない。動けない。ただ、そこに「存在している」だけの、空っぽの器のような佇まい。
「――あ、リュミエラ様!」
一人の若い神官が、彼女に気づいて駆け寄った。
手には懸命な治癒の光を灯し、額には脂汗を浮かべている。
「良かった、こちらへ……! 重症者が多すぎて手が足りません。軽傷の方からでも良いので、どうかお願いします!」
誘導。当然の要請。
彼女はこの地で最も優れた治癒の力を持つ神官だ。
ここにある命を繋ぎ止めるために、今、この瞬間に最も必要とされているリソース。
「……」
リュミエラは、ゆっくりと視線だけを向けた。
その神官の顔を、必死な眼差しを見る。
何も言わない。言えない。
「……あの、リュミエラ様?」
神官が、戸惑うように一歩近づく。
「治療を……。みんな、あなたを待っています」
その言葉の途中で。
リュミエラの手が、拒絶するようにわずかに動いた。
小さく、だが、決定的で冷たい拒絶。
「……いいです」
声が出る。
それは自分のものとは思えないほど、低く、掠れていた。
「……できません」
短く。
それだけを告げる。
神官が、凍りついたように固まった。
言葉の意味が、目の前の現実と結びつかない。
「……ですが……! あなたがやらなければ、あそこにいる兵士は……!」
当然の反論。
彼女が手を動かせば、救われる命がある。アルトが守り抜いた、この「中央街道の生存者」という名のリソース。それを維持し、再構築するのが彼女の役割だ。
「……今は」
リュミエラは、神官から目を逸らした。
「……無理です。……できません」
完全な、沈黙への沈没。
神官は、それ以上何も言えなくなった。
否定することも、強制することもできないほどの、底知れぬ「虚無」が彼女を包んでいたからだ。
「……分かりました。失礼します」
神官は一歩下がり、唇を噛んで別の負傷者へと駆け戻った。
手を動かし、声を上げ、死の淵にある命を繋ごうとする営みは、彼女を置いてけぼりにしたまま止まらない。止められない。
リュミエラは、動かない。
「……」
目の前で、一人の兵がうめき声を上げる。
深い切り傷のある腕を抱え、苦痛に顔を歪めている。
「……っ、あ、あぁ……」
その声に、身体がわずかに反応する。
一歩。
踏み出そうとする。
無意識に指先が温かな光を思い出そうとする。
だが。
止まる。
「……」
できない。
手を伸ばせない。
光を出せない。
まぶたの裏に、別の光景が焼き付いている。
アルトが「捨てた」場所。
届かなかった距離。
無視した叫び。
あそこで消えていった命たちの沈黙が、目の前の生存者の声を塗りつぶしていく。
「……」
呼吸が、浅く、速くなる。
胸が苦しい。だが、それは身体の病ではない。
救うべき「数」の中に、自分がいること。救われなかった「個」を、自分が見捨てたこと。
その「正しさ」という名の冷酷な重圧が、彼女の魔力回路を、そして心を、物理的に焼き切っていた。
「……ちくしょう、まだか……! 痛えんだよ……!」
兵が苛立ちを露わにする。生きている、剥き出しの生命の音。
助けられる。今、指を動かすだけで。
それでも――。
「……」
足が動かない。手が上がらない。
「助ける」という行為そのものが、あの日切り捨てた命への裏切りであるかのような錯覚。
そして、アルトという名の合理の歯車の一部として機能することへの、魂の拒絶。
リュミエラは、ゆっくりと後ろへ下がった。
背中が、天幕の冷たい布に当たる。
そのザラついた感触だけが、今の彼女に許された唯一の現実だった。
「……」
目を閉じる。
だが、暗闇はもっと酷い。
アルトの陽気な、明るい、気さくな声が響く。
『大成功だよ! 景気よくいこう!』
『助けられた数の方が多いんだ、ハッピーだろう?』
その声が、彼女の中で無限に反響する。
アンジェリカが、天幕の入口に音もなく立った。
視線が中を泳ぎ、隅に座り込むリュミエラで止まる。
「……」
一瞬、何かを言おうとして、彼女は唇を閉じた。
彼女もまた、アルトの「正しさ」を身を以て知っている。そして、その正しさが人の心をどれほど磨り潰すかも。
アンジェリカは何も言わず、そのまま背を向けて外へと去っていった。
エルディアは来ない。役割のない場所に、彼女は姿を見せない。
アルトも来ない。
彼にとって、リュミエラという「リソース」が故障したなら、今は別の「機能」を優先するだけだ。
彼に悪意はない。ただ、彼女が動けるようになるのを「待つ」という工程が、計算式の中に組み込まれているだけなのだ。
「……」
リュミエラは、一人。
大勢の人間が、命が蠢く天幕の中で、彼女だけが絶対的な断絶の中にいた。
自分の手を見る。
震えている。指先は氷のように冷たい。
拳を握ろうとしても、力が入らない。
空っぽ。
何もない。
助けたいという意志も。
アルトへの怒りさえも。
ただ、泥のように重い疲労と、埋まらない「空白」があるだけ。
「……」
リュミエラは、糸が切れたようにその場に座り込んだ。
力が抜け、立っていることすら贅沢なことに思えた。
周囲の音は続いている。
血を洗う水の音。誰かを励ます声。救われる命。
だが――それが、星の彼方の出来事のように遠い。
「……」
涙が、静かに落ちた。
一滴。また一滴。
拭う気力も、声を上げる体力もない。
泣いているのに、吐息ひとつ漏れない、死んだような沈黙。
何も埋まらない。
何も入ってこない。
リュミエラは、動かない。
救済の光を失った聖女は、勝利という名の残酷な光の下で、ただの空白となって佇んでいた。
心が、音を立てずに折れていた。
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「――やあ、みんな! 休憩は終わりだ。次の工程に移るよ!」
天幕の外。
アルト・フェルディスの、いつものように明るく、気さくな声が響き渡った。
彼のタクトは止まらない。
誰が折れようと、誰が去ろうと。
一分子の無駄も許さない「勝利の継続」だけが、冷徹に、そして陽気に加速し続けていた。




