タイトル未定2026/05/05 11:13
55話:正しさの重さ
数は、揃っていた。
仮設の指揮所に広げられた羊皮紙。そこに並べられた無機質な数字の羅列は、誰の目にも疑いようのない「勝利」を証明していた。中央街道――主戦場における生存率。戦線維持の総時間。敵主力の撃破数。そして、防衛側の損耗率。
「――おーい、みんな! 見てくれよ、この素晴らしいスコア! 僕の計算機が弾き出した通りの、最高にハッピーな結果だね!」
アルト・フェルディスの声は、依然として明るく、気さくだった。彼はいつものように朗らかな手つきで報告書をトントンと叩き、周囲の兵士たちに眩しい笑顔を向ける。
「中央戦線の生存率、驚異の八割超え! あはは、僕の『振り分け』に従ってくれたおかげだね。みんな、本当によくやってくれた。最高のパフォーマンスだよ!」
エルディアが腕を組み、冷徹な視線でその数字をなぞる。
「……確定だな。中央は守られた。戦線の再編も即座に可能だ」
感情を排した、純粋な戦力評価。
アンジェリカもその横で、一枚の紙をじっと見つめていた。その瞳には、かつてのような傲慢さはなく、ただ圧倒的な「正解」を突きつけられた者の困惑と納得が混在している。
「……完璧ね。否定する余地が一分子も見当たらないわ」
絞り出すような言葉。それは、アルトの導き出した構造が、この状況下における「唯一の正義」であったことへの、完全な敗北宣言でもあった。
アルトの判断は、正しかった。
客観的に。
物理的に。
論理的に。
「さて、次のページも確認しておこうか。こっちは……うん、予測通り。他戦線は『壊滅』だね。生存率ゼロパーセント。うん、効率的な資源集中の結果だ。大成功だよ!」
アルトは屈託なく笑い、ページをめくる。
そこには、彼が切り捨てた場所の記録があった。北東、南西、外縁。
かつて村があり、人が住み、生活があった場所。
それが今は、ただの「ゼロ」という数字に置き換えられている。
「……全体で見れば、大幅なプラスだ。最小の犠牲で最大の成果を得た。あはは、これ以上の『正解』なんて、神様でも書けないんじゃないかな!」
アルトの声が指揮所に響く。
誰も、何も言わない。
言えるはずがなかった。
「プラス」という言葉の裏側に、どれだけの「マイナス」が埋められているのか。それを最も理解しているのは、この数字を書き上げたアルト自身なのだから。
リュミエラは、少し離れた影の中に立っていた。
彼女の手元には、報告書も数字もない。
だが、アルトの明るい声が、残酷なまでの「正しさ」を彼女の脳裏に刻み込んでいた。
「……」
理解はできている。
頭の中では、アルトの言う通りだと分かっている。
彼が中央を守らなければ、もっと多くの命が消えていた。
彼が冷酷に切り捨てたからこそ、今、自分の目の前で安堵の息を漏らしている兵士たちがいる。
「……どうして」
小さく、掠れた声が漏れた。
誰に届くでもない、独り言。
「……どうして……こんなに、息ができないの……」
勝った。
村は残った。
大勢が救われた。
それは、ハッピーエンドのはずだった。
だが、彼女の胸の奥を支配しているのは、救われた喜びではなく、泥のように重く冷たい「正義」への嫌悪だった。
アルトは、すでに地図を広げ、次の配置を検討し始めている。
「さて! 勝利の余韻に浸るのもいいけど、再編作業を始めようか。次は土属性の君たちをここに振り分けて、新しい防壁を――」
彼の思考は、一分子の停滞もなく「未来」へと向かっている。
過去を悔やむ時間は、彼にとっては不合理な損失でしかない。
「……正しい」
リュミエラが、震える唇で呟いた。
「……アルトさんは、正しいんですよね……。誰も、間違っていない。……そうでしょう?」
その問いに、エルディアが視線だけを向けた。
「そうだ。結果が出ている。アルトの判断がなければ、今ここには死体しかない。……それが現実だ」
「……分かってます」
リュミエラは、ゆっくりと頷いた。
理解している。
完全に。
頭では、もう受け入れているのだ。
アルト・フェルディスという男が、誰よりも「正しかった」ことを。
「……でも。……もう、無理です」
その言葉が、空気に落ちた。
アルトは、地図を見つめたまま動かない。
背中は、揺れない。
リュミエラは、一歩。
ゆっくりと、後ろへ下がった。
「……どこへ行く、聖女」
エルディアの声が、彼女の足を止めようとする。
リュミエラは、答えない。
また一歩、距離を置く。
アルトは、振り返らない。
彼女が「リソース」として機能しなくなったのであれば、今の彼にとって、彼女を追いかけることは合理的ではない。
リュミエラは、最後にもう一度だけ、その背中を見た。
明るく、陽気に、兵士たちを鼓舞し、次の勝利を組み立てる、合理の支配者。
その背中は、あまりにも高潔で、あまりにも残酷だった。
「……ごめんなさい」
誰に、何に対しての謝罪なのか。
自分でも分からないまま、彼女はその言葉を残した。
アルトは、反応しない。
指示を飛ばす声が、止まることはない。
リュミエラは、背を向けた。
歩き出す。
ゆっくりと。
戦場から。
勝利の歓喜から。
そして、アルトが作り上げた「正しい世界」から。
誰も、止めなかった。
止める理由が、どこにもなかったからだ。
アンジェリカは、わずかに唇を噛み、彼女の背中を見送った。
その瞳には、哀れみと、そして同じ「正しさ」に縛られた者としての羨望が混じっていた。
アルトは、淡々と次の座標を指し示した。
「中央の瓦礫撤去を優先して。一分子の無駄も出さないようにね。ハイッ、移動!」
陽気な声。
気さくな采配。
徹底した振り分け。
リュミエラの姿は、次第に小さくなっていく。
彼女は、正しさという名の重圧に耐えきれず、その場所を去った。
後に残されたのは、完璧に守られた中央街道と、そこにある冷徹な勝利の事実だけ。
風が吹く。
戦場の匂いを連れ、遠ざかる少女の髪を揺らす。
正しさは、証明された。
だが、その重さを受け止めきれるほど、彼女の心は機械にはなれなかった。
アルト・フェルディスは、一度も振り返ることなく、次なる「最高の結果」を求めて計算を続けていた。
第55話、正しさの重さ。
勝利の光が差す荒野で、少女はただ一人、その光の冷たさから逃れるように、闇の向こうへと消えていった。




