54話:代償
匂いが、残っていた。
戦いという名の嵐が過ぎ去っても、世界は浄化されることはない。血の生臭さ、焼けた肉の脂の匂い、そして抉られた泥の湿った臭気が混ざり合い、重く澱となって足元にまとわりついている。
中央街道。
勝利の旗が掲げられたはずの場所。
だが、そこに広がっていたのは、勝鬨を上げる余地もないほどの死の山だった。
「――おーい、みんな! 手を休めないで。死骸の整理も立派な『勝利の工程』のひとつだよ! 景気よくいこう!」
アルト・フェルディスの声は、死臭漂う戦場にあって驚くほど朗らかだった。彼はいつものように気さくな足取りで、折り重なる魔物の死骸の間を縫うように歩く。
「魔物と人は分けてね。一分子の混同もなしだ。……そう、そっちは埋葬班に。こっちは素材回収班へ。振り分け、開始!」
アルトはパンと手を叩き、まるで工場の検品作業を指揮するようにテキパキと指示を飛ばす。
エルディアが、低く唸るような声を出した。
「……運べ。一人ずつだ」
彼女の指揮の下、兵士たちが無言で動く。魔物の四肢を退け、その下から「守られたはずの仲間」を掘り起こしていく。
損耗、予測範囲内。
アルトの計算は正しかった。だが、その「予測」という言葉の裏側には、今まさに冷たい塊となって運ばれていく、一人ひとりの人生が詰まっていた。
アンジェリカは、少し離れた位置で石のように立っていた。
公爵令嬢としての気品は崩さない。だが、その視線は死骸の山をひとつひとつ、なぞるように動いている。
彼女は数えていた。
アルトが守り抜いた「数」と、その代償として支払われた「個」を。
(……これが、あなたの言うハッピーエンドなのね)
言葉にはしない。言葉にすれば、自分の中の何かが物理的に砕けてしまうことを、彼女は本能で理解していた。
アルトは中央に立ち、手帳に数字を書き込んでいた。
「……処理速度、概ね良好。二次感染の懸念、ゼロ。よし、予定通りだね」
彼は満足げに頷く。
彼にとって、この凄惨な光景は「片付けを待つ散らかった部屋」と大差ない。役割を終えたリソースを整理し、次なる運用に備える。ただそれだけの、至極真っ当な事務作業。
その少し後ろ。
リュミエラは、幽霊のように彷徨っていた。
「……」
視線は足元に固定されている。
嫌でも見えてしまう。
泥にまみれた手。折れた剣。
そして――見覚えのある、まだ幼さの残る少年の死体。
「……っ」
リュミエラは、膝から崩れ落ちるようにその場に蹲った。
震える手が、少年の冷たい頬に触れる。
「……ヒール……」
弱々しく、消え入りそうな呟き。
指先から、頼りない光が漏れ出す。
だが、それは少年の傷を塞ぐことも、その瞳に光を戻すこともない。
ただ、冷たい肉体の上を空虚に滑り、消えていく。
「……あ……」
遅い。
何もかもが。
助けたかった。
守りたかった。
でも、自分はアルトの言う通り、安全な場所で「効率的な救済」を待つことしかできなかった。
リュミエラは、ふらふらと立ち上がった。
そして、アルトの背中へと歩み寄る。
揺れない、一切の迷いもない、あの合理の塊のような背中。
「……」
声が出ない。
喉が塞がっている。
それでも、彼女は血の味のする唾を飲み込み、絞り出した。
「……助けられた人も……いたのに」
それだけ。
責める力もない。ただ、そこにある悲劇を指摘するだけの言葉。
アルトは、振り返らなかった。
彼は記録を続ける手を止めず、気さくに、しかし一瞬の間を置いて答えた。
「助けられた『数』の方が多いよ、リュミエラちゃん。あはは、僕の計算機は嘘をつかないんだ」
「……っ」
「ここを守らなければ、この子の隣にあと十人の死体が並んでいた。それを防いだんだから、最高にハッピーな結果だと思わないかい?」
アルトの声は、どこまでも明るい。
その明るさが、リュミエラにとっては、どんな冷酷な罵倒よりも深く心を抉った。
「……」
リュミエラの体が、激しく揺れる。
否定できない。
彼が守った「数」のおかげで、今、村の広場では多くの命が安堵の息を漏らしている。
それは、正しい。
あまりにも正しすぎて、反論する言葉を一分子も持てない。
「……それが戦争だ」
エルディアが、遠くでぽつりと呟いた。
彼女は、アルトの言葉に潜む「血の通わない誠実さ」を理解していた。
アンジェリカは、静かに目を閉じた。
これが、自分たちが選び、そして選ばれた男のやり方。
勝利の代償は、常に死で支払われる。
その不条理を、アルトは「合理」という名のオブラートで包み、笑いながら飲み込んでみせた。
リュミエラは、立ち尽くしたまま、また涙を流した。
崩れきれない。
逃げきれない。
この「勝利」という名の地獄に、自分もまた加担しているという事実。
風が吹く。
死の匂いを巻き込み、誰もいなくなった北東の集落の方へと、空虚に吹き抜けていく。
戦場は、終わった。
だが、そこに残された「代償」の重みは、消えない。
アルト・フェルディスが朗らかに笑い続ける限り。
その代償は、歴史の裏側に正確に刻まれ続けていく。
第54話、代償。
勝利の味は、鉄と血の混ざった、あまりにも苦い沈黙の味だった。




