53話:勝利
音が、消えていく。
最後に残っていた断続的な衝突音。刃が甲殻を断つ硬い音。魔物の低い唸り。空を切る魔法の裂け目。すべてが、ゆっくりと、しかし確実に薄れていく。
地平線を埋め尽くしていた黒い軍勢は、今や中央街道を埋め尽くす物言わぬ骸の山へと変貌していた。
「――おーい、みんな! 終了だ! フィナーレだよ! 最高にハッピーな結末だね!」
アルト・フェルディスの声が、静まり返った戦場に響き渡った。
彼はいつものように気さくな足取りで指揮台を降りると、血と泥にまみれた兵士たち一人ひとりの肩をポンと叩きながら、眩しいばかりの笑顔を向けた。
「お疲れ様! 君の槍、痺れたよ。君の防御も完璧だった。みんな、僕のタクトによくついてきてくれたね。ありがとう!」
アルトの声は朗らかで、淀みがない。
戦場には無数の痕跡が刻まれている。踏み荒らされた土。崩れた土壁。焼けた大地。だが、アルトが設計した「形」は、最後まで崩れることなく維持されていた。
「……終了だ」
エルディアが低く呟き、大剣を振って最後の一滴を払った。
最後の一体が地に伏し、戦場から「敵意」が消滅する。
「掃討完了。……勝ったな、アルト」
「あはは、その通り! 大勝利だよ、エルディア。みんなが『正しい場所』で『正しい仕事』をしてくれたおかげだね!」
アルトは屈託なく笑い、空を見上げた。
白み始めた空は、硝煙と魔力の残滓で濁っているが、そこから降り注ぐ光は確かに勝利を祝福しているように見えた。
「……大侵攻、撃退」
伝令が、震える声で報告を上げる。
「中央戦線、維持成功。敵主力、殲滅を確認……。……ですが」
一瞬、伝令の言葉が詰まった。その場にいた全員の視線が、彼に集中する。
「……他戦線は、壊滅です。北東、南西、外縁拠点……生存者の報告、ありません」
静寂。
完全な、重い沈黙。
中央街道は守られた。
だが、それ以外の場所は――アルトが「切り捨て」を選んだ場所は、地図から消え去っていた。
「……そうか。想定内だね」
アルトは、まるで今日の天気を再確認するかのような気さくなトーンで頷いた。
驚きも、動揺も、一分子もそこにはない。
彼は最初から、この結果を「正解」として導き出していたからだ。
「他を捨てたからこそ、ここが残った。リソースの集中投下、大成功だ! さあ、湿っぽいのはここまで。僕たちは生き残ったんだ、景気よくいこう!」
「……」
アンジェリカは、何も言わなかった。
彼女は周囲を見渡す。立っている者、座り込む者、傷を押さえる者。
そして――。
本来ならそこにいるはずだった、多くの顔ぶれがいない「空白」を。
公爵令嬢としての矜持が、アルトの冷徹な「正しさ」を前に、言葉を失っていた。
アルトは、ゆっくりと視線を落とした。
足元の血溜まり。刻まれた傷跡。
彼はそれを、感慨に耽るのではなく、ただの「実績データ」として検分するように見つめる。
「……勝ちだ。最高の結果だよ」
小さく、独りごちる。
誰に聞かせるでもなく、ただ事実を確定させるための呟き。
勝った。
それは揺るぎない事実だ。
だが――。
リュミエラは、そこに立ち尽くしていた。
戦闘が終わっても、彼女だけは「あの時間」から動けずにいた。
「……」
視線は前を向いているが、その焦点はどこにも合っていない。
彼女が見ているのは、目の前の勝利ではない。
もう、この世界に存在しなくなった場所。
アルトが笑いながら切り捨てた、あの集落。あの人々の顔。
「……」
口を開くが、音が出ない。
叫びたいのか、泣きたいのか、自分でも分からない。
ただ、心の中に空いた巨大な穴から、すべての感情が漏れ出していくような感覚だけがあった。
「……」
大粒の涙が、頬を伝って落ちる。
ゆっくりと。
音もなく。
止まらない。
誰かが彼女を慰めることも、アルトが彼女を顧みることもない。
アルトは、振り返らなかった。
彼にとって、リュミエラは「生き残った貴重なリソース」であり、その精神的な揺らぎは、戦後処理の優先順位においては低い項目に過ぎない。
戦場は終わった。
ならば次は、復興と再編。
彼はすでに、次の「最適解」を組み立てるために歩き出していた。
「エルディア、アンジェリカ様! 資材の回収と負傷者の集計、僕の指示通りに振り分けてくれるかな? 一秒でも早く終わらせて、みんなで温かいスープでも飲もうよ!」
「……ああ。分かった」
エルディアも、何も言わない。
これが戦場であり、これがアルトの「誠実さ」であることを知っているからだ。
アンジェリカは、ほんのわずかにリュミエラに視線を向けた。
だが、かけるべき言葉が見つからない。
勝利という光の中で、リュミエラの流す涙は、あまりにも暗く、重すぎた。
「……」
風が吹く。
戦場を撫で、鉄と血の匂いを運んでいく。
消えた場所からは、風の音以外、何も返ってこない。
「……」
リュミエラは、泣き続けていた。
声も上げず。
拭おうともせず。
ただ、勝利という名の残酷な沈黙の中で、彼女の魂だけが立ち止まっていた。
勝利。
その言葉が、一分子の重みも持たない場所が、ここにある。
アルト・フェルディスは、朗らかに笑いながら兵士たちを動かし続ける。
彼が守り抜いた「生」の輝きの裏側で。
切り捨てられた「死」の闇が、どこまでも深く、静かに広がっていた。
戦場は、静かになった。
残るのは、合理の男の陽気な声と、届かぬ場所へ向けられた、少女の沈黙の涙だけ。
それが、アルトの導き出した、完璧な結果だった。
第53話、勝利。
白み始めた空の下、生存者たちの沈黙が、この不条理な勝利を完成させていた。




