52話:殲滅
戦場という名のキャンバスは、すでに完成間近の絵画のように、アルト・フェルディスの手によって塗り替えられていた。
先ほどまで、世界を飲み込まんばかりの「黒い津波」だった魔物の群れ。だが今、そこに「軍」としての統制は一分子も残っていない。密度はズタズタに引き裂かれ、個体はただ生き延びるためだけに無様にのたうち回る、ただの「処理対象」へと堕ちていた。
「やあ、みんな! いよいよフィナーレだ。ここまでの頑張りは本当に素晴らしかったよ。さあ、最後の仕上げ、パパッと片付けちゃおうか!」
アルトの声は、耳障りな断末魔が響き渡る中央街道にあって、驚くほど明るく、気さくだった。彼は指揮台からひょいと降り、軽やかな足取りで前線へと歩み寄る。
「……終盤だね」
短く。
だが、その言葉には、運命を確定させる絶対的な重みがあった。
エルディアが、血に濡れた大剣を肩に担ぎ、鼻で笑った。
「掃除だな。……貴様の言う通りになった」
「あはは、エルディアも絶好調だね! さあ、前線は固定。深追いは禁止だよ。崩さず、逃げ場をじわじわと削る……そう、『包囲という名の抱擁』だね!」
アルトの朗らかな指示に従い、兵士たちが動く。
彼らの動きには、もはや迷いも恐怖もない。生き残った彼らは、この陽気な支配者が描く「構造」こそが、唯一の生存圏であることを骨の髄まで理解していた。
「右、閉じろ! 左、回り込んで。……よし、これで完璧なサークルだ。みんな、最高にハッピーな陣形だよ!」
逃げ道を完全に塞がれた魔物たちは、連携を失い、個として暴れ狂う。
だが、それこそがアルトの狙いだった。
「……さて。次は僕の番かな」
アルトが一歩、前へ出る。
これまでは指揮という名の「振り分け」。
ここからは、自らが「機能」として介入する、殲滅のフェーズ。
「魔力、回すよ」
小さく。
その瞬間、戦場の空気が一変した。
「……っ!?」
近くにいた兵士が、反射的に後ずさった。
感じる。肌を刺すような、圧倒的な密度の魔力。
だが、それは破壊の予兆ではない。もっと根源的な「収奪」の気配だ。
アルトの周囲、数十メートルの空間から、魔力が渦を巻いて吸い込まれていく。
大気から、大地から、そして――崩れかけた魔物たちの個体から。
乱れた魔力の流れを、アルトはその「陽気な支配力」で強引に引き寄せ、自らの中へと還流させていた。
「あはは、なるほどね! 統制が崩れた個体は、魔力のガードもガタガタだ。これなら、一分子の無駄もなく回収できちゃうね!」
吸収。
取り込み。
循環。
その速度は、通常の魔導師の概念を遥かに超えていた。
彼は奪っているのではない。ただ「浮いているリソースを最適化」しているだけなのだ。
「全部、もらうよ」
次の瞬間、アルトの手が空を舞った。
水が弾ける。
だが、それは単なる魔法ではない。空間全体を、薄く、しかし強固に覆い尽くす広域展開。
「……っ!?」
包囲網の中にいた魔物たちが、一斉に動きを止めた。
彼らの顔を、透明な膜が覆う。
水。
窒息。
だが、それは一箇所ではない。円陣の中にいる数百の個体、そのすべてが、同時に「呼吸」という機能を奪われた。
「吸収しながら、展開。保持……うん、このコストなら無限に回せるね!」
アルトの指先が、ピアノを弾くように軽やかに動く。
膜が増え、重なり、広がる。
逃げ場はない。
魔物たちは喉をかきむしり、悶絶する。
だが――。
三秒。
四秒。
ドサリ、ドサリと、黒い塊が沈黙のまま地に伏していく。
「……次!」
間を置かない。
アルトの笑顔は、残酷なほどに清々しい。
圧縮された風が巻く。
逃げようとした個体を、物理的な圧力で中心部へと押し戻す。
「そこ、ちょっとお行儀が悪いよ。みんなと一緒にいてね!」
土が跳ね、足場が崩れる。
転倒。
そして――。
蒸気、爆ぜる。
「熱いお風呂は好きかな?」
一瞬で視界を奪うほどの熱波。魔物たちの動きが完全に止まる。
アルトの魔力循環は、使えば使うほど加速し、周囲の「死」をエネルギーに変えて膨れ上がっていく。
「……おやおや、まだ元気な子がいるね。光、収束」
アルトの指先に、極限まで圧縮された光が集まる。
それは聖なる救済の輝きではなく、一分子の無駄も許さない、冷徹な「切断」の輝き。
「切るよ。ハイッ!」
放たれた光の線。
音もなく、一直線。
それは最前列の魔物を貫き、その後ろ、さらにその後ろまでも、抵抗を感じさせぬままに貫通していく。
一直線に描かれた、光の死線。
「……終わりだね」
短く。
その一言で、主戦場を埋め尽くしていた「脅威」は、文字通り一掃された。
残っているのは、戦意を失い、ただの獣に戻った数体の残党のみ。
「掃討に移るよ! みんな、最後まで気を抜かずにハッピーにいこう!」
アルトの声に、兵士たちが弾かれるように動く。
疲労はある。だが、彼らの顔には「勝利」という名の結果に対する、絶対的な陶酔があった。
アンジェリカは、ゆっくりと、震える吐息を漏らした。
「……本当に、一人でやってのけるなんて。あなたは……何なの?」
彼女の視線は、もはやアルトを「人間」として見ていない。だが、拒絶でもない。
ただ、その圧倒的な「正しさ」に、魂ごと屈服していた。
エルディアは、最後の一体を斬り捨て、剣を収めた。
「……終了だ。完璧だな、アルト」
戦場が、急速に静寂を取り戻していく。
立ち込める蒸気の向こうで、アルトはいつものように気さくに、兵士たちの健闘を称えていた。
そして。
リュミエラは、動けなかった。
目の前で完遂された、完璧な殲滅。
自分たちがどれほど願っても届かなかった「勝利」が、そこにはあった。
圧倒的な、一点の曇りもない結果。
「……」
大粒の涙が、地面の泥を濡らす。
勝った。
村は守られた。
多くの命が救われた。
それは、疑いようのない事実だ。
でも。
それでも。
(……この勝利の横には、どれだけの沈黙があるの……?)
アルトの背中。
陽気に笑い、兵士たちに「お疲れ様!」と声をかける、その気さくな後ろ姿。
その姿が、今は何よりも遠く、何よりも恐ろしいものに見えた。
感情を、命を、一分子の無駄も許さぬリソースとして「振り分けた」末の、この静寂。
リュミエラは、声を失ったまま、ただ泣き続けていた。
アルトが導き出した「最高にハッピーな結末」の真っ只中で、彼女の心だけが、どこまでも深く、暗い深淵へと沈んでいった。
第52話、殲滅。
合理の支配者が奏でた終曲は、一切の不純物を焼き尽くし、ただ冷徹な勝利の事実だけを、夜明けの荒野に残していた。




