51話:逆転
戦場という名の巨大な回路。その中に流れる膨大な「死」のエネルギーが、ある一瞬を境に、不気味なほどの静止を見せた。
中央街道を埋め尽くしていた黒い津波。その圧倒的な質量と密度は変わっていない。だが、その内部で、極めて微細な、しかし決定的な「不協和音」が鳴り響き始めていた。
それは、アルト・フェルディスという「演算の主」だけが感じ取れる、構造のひび割れだった。
「――おっと! 見つけたよ。みんな、注目! 今、最高にハッピーなシャッターチャンスが来たみたいだ!」
指揮台の上、アルトの声が弾けるように響いた。
この絶望的な状況下にあっても、彼の声はどこまでも陽気で、気さくだ。まるで難解なパズルの最後のピースを見つけ出した子供のように、彼は目を輝かせ、戦場という名の盤面を指差した。
「左の君たち、お疲れ様! 良い我慢強さだった。右の君たちも、完璧なポジショニングだ。……さあ、同期が切れ始めてる。あの中核、電池切れかな? あはは、これだから機械任せは困るよね!」
アルトがパンと手を叩く。その音が、戦場の位相を物理的に書き換える起動キーとなった。
「……崩れるよ。さあ、みんな! 僕のタクトに合わせて、一気にひっくり返そうじゃないか!」
エルディアが、鋭い視線を奥へと走らせる。
「……どこだ。どこを突けばいい」
「中核だね、エルディア! 中央からやや右、あの不自然に動きが鈍い個体。あいつが同期信号の『目詰まり』を起こしてる。……今だよ。中央、押し込め! 二列目、遠慮はいらない、前へ!」
アルトの快活な号令。
兵士たちの動きが揃う。疲労困憊のはずの彼らの足が、アルトの明るい声に操られるように、ミリ単位の狂いもなく地面を蹴った。
音が揃う。
鉄の面が、一斉に前へと踏み出される。
「右、回して! 風属性の君たち、外側からグーッと締め上げちゃって。逃げ道を塞ぐのが一番の親切だからね! 左は土を盛り上げよう。転ばないように気をつけて、ハイッ!」
アルトの指先が躍る。
地面が歪み、魔物たちの足場が物理的に「傾斜」へと変貌する。突進の勢いを利用され、魔物たちは自らの重みで重心を崩し、雪崩のように重なり合っていく。
「あはは! 良い転び方だ。そこだよ、エルディア。仕上げをお願い!」
「……フン、安い御用だ!」
エルディアが大剣を閃かせ、影となって戦場を駆ける。
一撃。二撃。
同期の支点となっていた個体が、肉の塊へと変わる。
その瞬間。
魔物たちの「軍」としての統制が、完全に瓦解した。
「……来た。さあ、押し切るよ! 中央、さらに一歩! 崩さず、流れるように押して!」
黒い波が、押し返される。
これまで、ただ「耐える」だけだった人間側が、明確に「侵食」を開始した。
ほんのわずかな一歩。
だがそれは、絶望を希望へと書き換える、決定的な逆転の始まりだった。
「上空も整理しちゃおうか! 光属性、射的の時間だよ。旋回が乱れた子から順番に、ポイッとしてあげて!」
光の筋が空を切り裂く。
統制を失い、空中でぶつかり合い始めたグレート・レイヴンたちが、アルトの正確な「振り分け」によって次々と地へと堕ちていく。
「風、上空を分断して! 連携なんて、僕たちの前では無意味だよ!」
空気が裂け、魔物たちの通信網(同期)は完全に寸断された。
「……うん、いい流れだね。魔力の循環も最高だ。みんな、本当にハッピーな仕事ぶりだよ!」
アルトは額の汗を拭うことさえせず、朗らかに笑い続けている。
彼にとって、この逆転劇は奇跡ではない。
バラバラだった「リソース」を、正しい場所へ、正しいタイミングで「振り分けた」結果、導き出された当然の解に過ぎない。
「維持。そのままだよ。中央は固定。左右はゆっくりと閉じていこう。……袋のネズミ、って言葉、知ってるかな? あはは、最高に似合ってるね!」
戦線が、円を描くように閉じ始める。
黒い波はもはや波ではない。
ただの、統制を失った哀れな獣の集まりだ。
「さあ、お掃除の時間だ!」
アルトのその一言で、戦いは終盤戦へと突入した。
一方で。
リュミエラは、動けなかった。
目の前で起きている奇跡のような逆転劇。
絶望的な数に包囲されていたはずの自分たちが、今、圧倒的な勝利を掴もうとしている。
それは、本来なら手放しで喜ぶべきことだ。
だが。
彼女の耳の奥には、まだ「あの音」がこびりついて離れない。
アルトが切り捨てた場所。
あそこで、確かに聞こえていた悲鳴。
そして、その後に訪れた、救いようのない沈黙。
「……」
目の前で、兵士が助かる。
「アルトさんのおかげだ!」と叫びながら、彼らは魔物を押し返していく。
確かに、救われている命がある。
この中央街道にいる人々は、アルトの「振り分け」によって、生を保証された。
それでも。
(……あの方たちは……?)
切り捨てられた、あの名もなき人々は?
彼らの命も、かつては誰かの「大切」だったはずだ。
それが今、アルトの語る「ハッピーな勝利」を成立させるための、ただの『廃棄物』として処理された。
リュミエラは言葉を失い、勝利に沸く戦場の中で、ただ一人、沈没していた。
アンジェリカが、横で短く、感嘆の息を吐く。
彼女の視線は、指揮台に立つアルトを、もはや隠しようのない敬意と共に射抜いている。
「……信じられない。本当に、やってのけるなんて。……やるじゃない、アルト」
エルディアも、大剣の血を払い、アルトを仰ぎ見た。
「押し切ったな。……これが、貴様の言う『構造』の力か」
「あはは、褒めても何も出ないよ、エルディア! でもありがとう、最高の動きだった!」
アルトは二人に向かって気さくに手を振り、最後の指示を落とした。
「中央、固定! 左右、閉じろ! 逃げ道はないよ。……終わりだ」
その一言で、戦いの趨勢は決定した。
中央街道、主戦場。
そこは、アルト・フェルディスという一人の「陽気な支配者」によって、一分子の無駄もなく守り抜かれた。
逆転は完了した。
完全な、そして冷徹な勝利。
だが。
リュミエラの中では、何も終わっていなかった。
勝利の歓声が響けば響くほど、彼女の心の中にある「沈黙」は深まっていく。
あふれ出た涙は止まることを知らず、彼女は勝利という名の地獄の中で、ただ独り、声を失ったまま立ち尽くしていた。
合理の男が笑い、勝利が確定する。
その輝かしい光の裏側で、切り捨てられた命の影が、どこまでも長く、暗く、大地に伸びていた。
第51話、逆転。
陽気なタクトが奏でるフィナーレは、救われた命の歓喜と、捨てられた命の沈黙を、等しく冷たく飲み込んでいった。




