49話:感情の爆発
戦場という名の巨大な機構は、アルト・フェルディスという「心臓」を得て、かつてない精度で脈動を続けていた。
中央街道。押し寄せる黒い波は、物理的な質量となって防衛線に激突し続けている。だが、アルトのタクトが振られるたび、その圧力はまるで計算された放熱のように逃がされ、砕かれ、無力化されていく。
「やあ、みんな! 良いリズムだね。右端の君たち、ちょっとだけ力みすぎかな! あと二歩、ふわりと下げて固定。押し返そうとしなくていいよ。ただそこに『ある』だけで、敵は勝手に転んでくれるからね!」
アルトの声は、耳を劈くような魔物の咆哮を軽やかに飛び越える。彼は指揮台の上で、まるで収穫祭の準備でも指揮しているかのような気さくな笑顔を浮かべていた。
「中央三列目、おっと、そこは足場が滑りやすくなってるよ。注意して! はい、盛り土(土壁)一丁上がり! 重心を崩したところに、槍をプレゼントだ。景気よくいこう!」
彼の指先が動く。土が盛り上がり、魔物の突撃が空転する。そこへ、待機していた槍列が機械的な正確さで突き入れられる。
戦線は、一分子の狂いもなく維持されていた。
その完璧な秩序の裏側で。
何もかもが、音もなく崩れ去っていた。
アルトが切り捨てた戦線。北東、南西、外縁の小集落。
先ほどまで通信石のノイズ越しに届いていた「音」が、今はもう、何も聞こえない。
悲鳴。
怒号。
祈り。
助けを求める、あの掠れた声。
それらはすべて、アルトの「情報切断」によって沈黙させられ、今や地図上のただの空白へと変わっていた。
リュミエラは、その沈黙を「聴いて」いた。
彼女の耳には、物理的な音を超えて、断絶された場所から溢れ出す絶望の残響がこびりついて離れない。
そして――それは、耐えきれる限界を超えた。
「……なんで」
小さな、震える声。
だが、次の瞬間、それは戦場の喧騒を真っ二つに叩き割る叫びとなって爆発した。
「なんでなんですか!! アルトさん!!」
兵士たちが一瞬、凍りついたように動きを止める。
エルディアが鋭い視線を向け、アンジェリカがその場に立ちすくむ。
アルトだけが、いつものように陽気な笑みを湛えたまま、ゆっくりとリュミエラを振り返った。
「おや、リュミエラちゃん。どうしたんだい、そんなに大きな声を出して。喉を痛めちゃうよ。ほら、一度深呼吸して! 笑顔、笑顔!」
「笑わないで……! どうして、そんな風に笑っていられるんですか!!」
リュミエラは前へ出る。膝は笑い、足元は覚束ない。それでも、彼女の魂が、彼女をアルトの目の前へと押し出した。
「聞こえてたじゃないですか……! 確かに、誰かが助けてって、叫んでたじゃないですか!!」
声が裂ける。
リュミエラの瞳から溢れ出した大粒の涙が、血と泥に汚れた大地に吸い込まれていく。
「なのに……無視して、切って……。それで、平気なんですか? あなたは……心が痛くないんですか……!?」
痛切な問い。
アルトは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙の間も、彼の頭脳は戦場の推移をミリ単位で計算し続けている。彼はゆっくりと、しかしどこまでも気さくに答えた。
「平気なわけないじゃないか、リュミエラちゃん! 僕はこれでも、みんなと仲良くハッピーにやりたいんだよ。君の悲しい顔を見るなんて、計算外のノイズだ」
一瞬、空気が緩む。リュミエラはその言葉に、わずかな人間性の片鱗を求めて縋ろうとした。
「……じゃあ……!」
「だから、切るんだよ」
陽気な声が、再び絶望を宣告した。
「……え?」
「平気じゃないから、選ぶんだ」
アルトは、困ったような笑顔で首を振った。
「いいかい、リュミエラちゃん。全部を背負おうとすると、重すぎて足が止まっちゃうだろ? 足が止まれば、ここにいる全員が共倒れだ。それは僕にとって、一番見たくないバッドエンドなんだよ」
アルトは一歩、踏み出す。その瞳には一点の曇りもない。
「だから切る。僕が全部、汚れ役を引き受けてあげているんだ。君たちはただ、僕が作った『安全な流れ』の中で、全力で生きてくれればいい。ね、気さくな提案だろう?」
リュミエラの中で、何かが完全に弾けた。
その「明るい断絶」に、彼女の心は粉々に打ち砕かれた。
「……違う」
小さく、拒絶の言葉が漏れる。
「違う……そんなの、絶対に違う……!」
顔を上げる。涙に濡れ、怒りに震えながら、彼女は目の前の「正解」を全力で否定した。
「あなたは……!」
叫ぶ。魂の底からの拒絶。
「あなたは……人じゃない!! 心のない、ただの機械だ!!」
その言葉が、戦場に落ちた。
一瞬。完全な静寂。
魔物の咆哮さえも、その「断絶」の前には鳴りを潜めた。
エルディアの目が鋭く細まり、アンジェリカの指先が戦慄に震える。
アルトは、動かなかった。
ただ、その陽気な瞳でリュミエラを見つめ続けている。
「……人だよ、リュミエラちゃん」
短く。
だが、その声は初めて、明るさの裏側に潜む「重さ」を露わにした。
「人だから、切るんだ。神様じゃないから、全部は救えない。全部を救おうとして全部を殺すのは、ただの傲慢だ」
アルトは再び、気さくな指揮官の顔に戻った。
「人だから、選ぶ。人だから、泣きながらでも計算機を叩く。……君が僕を機械だと思うなら、それでもいい。でも、この『機械』が動いている限り、君は死なないし、村の半分は確実に生き残る。それじゃ不満かな?」
「……っ」
リュミエラの喉が詰まる。
「それでも……! それでも、切っちゃいけないものがあるんです!! 命を……命をパズルのピースみたいに扱わないで!!」
「全部が命だ。だから、選ぶんだよ」
アルトは完全に、対話を終わらせた。
「さあ! 湿っぽい話はここまでだ! リュミエラちゃん、君の仕事はここで兵士たちを癒やすことだ。感情の整理は、勝利の祝杯の時にでもゆっくりやればいい。今は僕のタクトに合わせて、最高に効率よく動いてくれ!」
アルトはパンと手を叩き、周囲に指示を飛ばし始めた。
彼の背中は、一度も揺れない。一度も振り返らない。
そこに感情がないからではない。感情というリソースすら、彼は「勝利」のために最適配分してしまったからだ。
リュミエラは、その背中を見つめたまま、ただ立ち尽くしていた。
どれほど叫んでも、どれほど涙を流しても、あの背中には届かない。
アルト・フェルディスという男は、すでに自分たちとは別の、より高く、より残酷な地平に立っている。
「戦線を維持しろ! 次の波が来るよ! みんな、僕と一緒に、最高の結末を掴み取ろうじゃないか!」
明るい声。
陽気な指揮。
一分子の無駄も許さない、完璧な振り分け。
その旋律の裏で、切り捨てられた命の沈黙が深まっていく。
二人の間に横たわる断絶は、もはや埋められることはない。
思想が、感情が、命が。
合理という名の刃によって、冷たく、正確に切り離された。
戦場は続く。
だが、その中心で、二人の心は完全に別の世界へと引き裂かれていた。
第49話、感情の爆発。
少女の叫びは空虚に消え、合理の男は、また一つ、冷酷な正解を歴史に刻み込んでいた。




