3話:不完全な信頼
村の広場に漂う空気は、昨日の絶望から一転して、奇妙な静謐さに包まれていた。
アルト・フェルディスがもたらしたのは「希望」という名の眩い光ではない。それは、冷徹な「生存確率」の提示だった。
村人たちは、アルトの指示に従って機械的に動いている。井戸から汲み上げられた清冽な水、整然と分類された食料、そして何より、昨日まで死線を彷徨っていた負傷者たちが立ち上がり、自らの足で歩いているという事実。それらが、アルトの言葉に絶対的な説得力を与えていた。
「おい、そこの二人。その木材はそこじゃない。北西の風を遮る角度で固定しろ。防壁の強度は接合部ではなく、受圧面の角度で決まる」
アルトの声は、広場の喧騒に埋もれることなく、鋭く、正確に響く。
彼は手元の羊皮紙に、村の簡易地図と防衛線を書き込んでいた。鑑定スキルによって導き出された魔物の侵攻予測経路。地形の起伏、風向き、村人の平均歩法。あらゆる要素がアルトの脳内で演算され、一つの「盤面」として構築されていく。
リュミエラは、教会の柱に寄りかかりながら、その光景を眺めていた。
彼女の手は、まだ昨日の治癒の感触を覚えていた。祈りを捧げ、神に縋り、汗を流して一人の傷を癒す。それが彼女の知る「救い」の形だった。しかし、アルトが示したのは、指先一つで二十数名の命を一括処理する「最適化」だった。
「……あなたは、怖くないのですか?」
気づけば、リュミエラはアルトの背中に問いかけていた。
アルトは手を止めず、冷淡に答える。
「何がだ。魔物の襲来か? それとも、自分の判断ミスか?」
「その両方です。そして……あなたの判断によって、誰かが後回しにされるという事実が」
アルトはそこで初めて顔を上げ、リュミエラを直視した。その瞳には、感情の揺らぎが一片も存在しない。
「怖い、という感情は生存に寄与しない。恐怖は判断を鈍らせ、呼吸を乱し、魔力効率を低下させる。俺にとって必要なのは『恐怖』ではなく『計測』だ」
アルトは再び手元の地図に視線を戻す。
「昨日、君は『見捨ててはいけない』と言ったな。だが、優先順位をつけないことは、結果として全員を見捨てることと同義だ。俺は救う者を選んでいるのではない。救える確率を最大化しているだけだ。そこに感情が入り込む余地はない」
「それでも……」
リュミエラは言葉を飲み込んだ。
彼の言うことは正しい。現に、この村は彼の「冷徹」によって首の皮一枚で繋がっている。だが、その正しさはあまりに鋭利で、触れる者の心を切り裂く。
「報告します!」
斥候に出していた村人の一人が、血相を変えて駆け込んできた。
「森の境界線付近に、オークの群れを確認! 数は十五から二十! まっすぐこちらに向かっています!」
広場に戦慄が走る。
十五体以上のオーク。この疲弊した村にとっては、本来なら全滅を意味する数だ。村人たちが武器を取り、震える手で互いを見合わせる。
「想定の範囲内だ」
アルトの返答は、あまりに平坦だった。
「十五体なら、トラップと配置で七割は削れる。残りの三割を、俺がバレットで処理する。リュミエラ、君は後方で待機しろ」
「え……?」
「君の魔力は、万が一の際の『予備資源』だ。前線に出る必要はない。ただし、俺が指示した位置からは動くな」
アルトはそう言い捨てると、村の外縁へと歩き出した。
村人たちも、彼の背中に導かれるようにして、それぞれの守備位置へと散っていく。
そこには「信頼」と呼ぶにはあまりに危うい、しかし強固な「利害の一致」があった。彼に従えば助かるかもしれない。その一点のみが、烏合の衆だった村人たちを一つの軍勢のように繋ぎ止めていた。
アルトは村の入り口、自らが仕掛けた落とし穴と障害物の向こう側に立った。
夕闇が迫り、森の奥から不気味な咆哮が響く。
(魔力循環、正常。各バレットの装填、完了。ターゲット・コンファームまで、あと三〇〇)
アルトの指先が、わずかに光を帯びる。
それは救済の光ではなく、効率的に敵を排除し、システムを守るための「部品」の輝きだ。
リュミエラは、指定された位置からその背中を見つめ続けていた。
彼のやり方は、どこまでも不完全だ。心がない。温もりがない。
けれど、その不完全な正しさがなければ、明日の朝日はこの村を照らさない。
「……私は、あなたのようにはなれません」
リュミエラは、自らの杖を強く握りしめた。
「でも、あなたの背中が倒れることは、私が許しません」
それが、彼女なりの「不完全な信頼」の形だった。
アルトはその言葉を聞いていたのか、いないのか。ただ一言、風に乗せて呟いた。
「来るぞ。――迎撃開始」
森の影から、巨大な怪異たちが姿を現した。
第3話、不完全な信頼の中で。
絶望的な戦いの幕が、ついに上がる。




