14話:指揮ミス
夕刻の赤い光が、戦場をどろりとした血の色に染め上げていた。
森の境界線。そこにはアルトが数日かけて構築した、地形の利を活かした「受動的防衛システム」が存在していた。しかし、バルトロ・フォン・ゼーレという傲慢な不純物が混入したことで、そのシステムは内側から急速に摩耗し、崩壊を始めていた。
「配置がぬるいのだ。一点に集めろ。戦いとは質量の衝突である。分散させるなど、臆病者のすることだ」
バルトロの指示は、机上の兵法書をなぞっただけの、現場のリソースを無視した空論だった。
村人たちは、アルトの冷徹だが確実な指示に慣れ始めていた。しかし、眼前に突きつけられたのは「貴族の命令」という絶対的な権限だ。逆らえば処罰、従えば死。その板挟みの中で、彼らは最適化された散開陣形を捨て、中央に密集するという致命的な選択を強いられた。
「……計算外の負荷だ」
アルトは一歩引いた位置から、崩れていく盤面を見据えていた。
彼の網膜には、密集したことで死角が増大し、村人同士が互いの武器を邪魔し合う未来予測図が展開されている。
(回避不能率、80パーセント。連鎖的パニック発生確率、95パーセント。……防衛線、消失まであと三〇秒)
エルディアは大剣の柄に手をかけたまま、鼻で笑った。
「アルト、あの馬鹿を今すぐ斬るか? そのほうが生存率は上がるぞ」
「今は非効率だ。指揮系統が完全に消失すれば、村人は戦い方を見失う。……崩壊の『底』を叩いてから動く」
アルトの判断は、どこまでも非情だった。
そして、魔物が現れた。
高速移動に特化したフォレスト・ウルフの群れ。彼らにとって、回避スペースを自ら殺した「密集した人間」は、ただの動かない肉の壁に過ぎなかった。
「撃て! 撃てと言っているだろう!」
バルトロの金切り声が響く。
密集した弓兵が放った矢は、味方の肩越しで視界が遮られ、その多くが空を切るか、最前線の仲間の背を掠めた。
「止まらない……! 止まらないぞ!」
「あ、足が……動かない! 邪魔だ、どけ!」
村人たちの間に、アルトが最も忌避していた「混乱」が伝播する。
一匹のウルフが密集の隙間に食い込み、村人の喉笛を食い破った。鮮血が舞い、その生暖かい飛沫が隣の男の顔にかかる。
「ひ、ひいぃっ!」
悲鳴。
それが引き金だった。
秩序は一瞬で瓦解し、バルトロの言う「質量の衝突」は、ただの「無秩序な敗走」へと成り果てた。
「なぜだ! なぜ私の指示通りに動かない! この無能どもめ!」
バルトロは馬車の影に隠れながら、責任を現場へと転嫁する。
その時、教会の救護所からリュミエラが飛び出してきた。
「やめてください! 下がって! 傷ついた人を置いていかないで!」
彼女はアルトに教わった「効率」を忘れ、本能的な慈愛に突き動かされていた。
倒れた村人の元へ駆け寄り、無防備に背を向けて回復魔法を唱え始める。
(……最悪のタイミングだ。個体識別リュミエラ、位置取りの致命的ミス。生存可能時間、残り四秒)
アルトの思考は、リュミエラの行動を「非合理的」と切り捨てながらも、肉体はすでに次の演算を実行していた。
魔物が、リュミエラの白い項を目がけて跳躍する。
ウルフの牙が、彼女の華奢な首筋を噛みちぎるまで、あと数センチ。
「――物理演算、上書き」
アルトの足元で、地面が陥没した。
「身体強化・出力上限突破」
「筋肉強化・強制励起」
一瞬。
リュミエラが背後の死に気づくよりも早く、アルトの姿が彼女と魔物の間に割り込んでいた。
ガ、という重い衝撃音。
アルトは剣を抜いていない。
彼は左腕一本で、空中のウルフの頭部を鷲掴みにし、そのまま地面へと叩きつけた。
石畳が砕け、魔物の頭蓋が粉砕される。
「……アルト……さん……?」
震える声で振り返るリュミエラ。その瞳には、死の直前まで迫っていた恐怖が滲んでいた。
「言ったはずだ、リュミエラ。崩れる瞬間を拾うと」
アルトは、リュミエラを背後に隠すように立ちふさがった。
彼の周囲には、バルトロの誤射によって負傷した村人たちと、統率を失い逃げ惑う群衆。そして、それを嘲笑うように包囲を狭める魔物の群れ。
「指揮官殿」
アルトは、震えるバルトロを一瞥もせずに告げた。
その声は、怒りすら超えた絶対的な零度。
「お前の『大局』の結果がこれだ。……データは揃った。ここからは、俺の手順で回させてもらう」
「な、何を……! 私の指揮を……!」
「黙れ。一分子でも動けば、次にお前の頭を叩きつけるのは、あの魔物ではなく俺の手だ」
バルトロは、アルトから発せられた本物の「殺気」に、声も出せずにへたり込んだ。
アルトは右手を掲げ、残存する全魔力を指先に集束させる。
「エルディア、回収を。リュミエラ、お前は俺の魔力循環を外側から固定しろ。……防衛線を再定義する」
「……待ってましたよ、アルト。その台詞をな」
エルディアが大剣を引き抜き、暗闇の中で狂おしいほどに輝いた。
崩壊の極致。
絶望の底。
そこからアルト・フェルディスという名の「合理」が、世界を、命を、力ずくで書き換え始める。
第14話、指揮ミス。
無能な支配者がもたらした瓦礫の上で、真の支配者がその牙を剥いた。




