番外編7 あなたが待っていたことを、ようやく理解しました(クラリス視点)
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クラリス視点の番外編です。時系列は番外編6の後のお話になります。
きっかけは、とても些細なことだった。
ルシアンは、よく触れる。
それはもう、日常の一部と言っていいほど自然に。
手を取るとき。
書類を渡すとき。
隣に並んで歩くとき。
そして——
触れるように、キスをする。
手の甲に。
額に。
頬に。
それはどれも、やわらかくて、優しくて、ほんの少しだけ距離を確かめるようなものだった。
最初は、その一つひとつに驚いていた。
けれど今は、驚きはしない。
慣れた、というわけではないが、受け止めることはできる。
ただ——
「……」
クラリスは、ふと考える。
唇には、触れてこない。
最初の一度だけ。
あの、朝。
寝起きの、まだ意識が曖昧だったとき。
気づけば触れられていて、気づいたときにはもう離れていた。
あれ以来、一度もない。
額にはある。
頬にもある。
手の甲にも。
けれど、唇だけは。
「……」
嫌なのだろうか。
そう考えて、すぐに違うと首を振る。
嫌なら、そもそも他の場所にも触れないはずだ。
あの人は、そういうところはきちんとしている。
では——
気を遣っているのか。
それは、あり得る。
クラリスは、自分でも自覚している。
こういうことに慣れていない。
恋愛というもの自体が、ほとんど初めてだ。
結婚しているとはいえ、それは事情があってのことで。
想いが通じたのは、その後だった。
だから——
「……私のため、でしょうか」
小さく呟く。
そうだとしたら。
それは、ありがたいことだと思う。
無理に踏み込まないでいてくれること。
こちらの歩幅に合わせてくれていること。
けれど、その一方で。
「……」
胸の奥に、少しだけ引っかかるものがある。
したい、と思う。
その感情に気づいたとき、クラリスはほんのわずかに目を見開いた。
今まで、考えたことがなかったわけではない。
けれど、それを“自分の望み”としては、はっきり認識していなかった。
されるものだと思っていた。
相手が望むなら、受け入れるものだと。
けれど今は違う。
したい、と思っている。
自分から。
その事実に、少しだけ戸惑う。
これは、正しいのだろうか。
こういうことを、自分から望むのは。
ましてや、口にするでもなく、行動に移すなど。
けれど——
ルシアンのことを思い出す。
あの人は、いつも急がない。
触れるときも、距離を詰めるときも、必ず一度、こちらを見る。
拒まないか。
嫌がっていないか。
確かめるように。
そして、唇には触れてこない。
あの一度きり。
あれは、衝動だったのだろう。
だからこそ、あのあと、一度も同じことをしていない。
——つまり、選ばせているのだ。
クラリスが、どうするかを。
踏み込むかどうかを。
ここから先へ進むかどうかを。
「……」
そこまで考えて、クラリスは静かに息を吐いた。
そういうことか。
あの人は、ずっと待っている。
急かさず、押しつけず、ただ——選ぶのを。
「……なら」
小さく、声に出す。
言葉にした瞬間、少しだけ迷いが消えた。
ならば。
答えるべきだ。
自分で選ぶべきだ。
その日の夜。
いつものように、二人は同じ部屋で過ごしていた。
書類を片付け、軽く会話をして、静かな時間が流れる。
特別なことは何もない。
けれど、その“何もない”時間が、今はとても穏やかに感じられる。
「ルシアン」
ふと、クラリスが名前を呼ぶ。
「なあに?」
顔を上げたルシアンと視線が合う。
そのまま、ほんの一瞬、言葉が止まる。
何を言えばいいのかわからない。
言葉にするべきか、それとも。
迷った末に、クラリスは——言葉を選ばなかった。
一歩、近づく。
距離が縮まる。
ルシアンが、わずかに目を細める。
その表情を見て、胸が少しだけ強く鳴る。
けれど、止まらない。
ここで止まるのは、違う。
だから、そのまま。
顔を上げて。
ほんの少しだけ背伸びをして。
触れる。
今度は、自分から。
ほんの一瞬。
けれど、確かに。
唇が、触れ合う。
離れたとき、ルシアンは何も言わなかった。
ただ、目を見開いていた。
ほんの一瞬だけ。
それから、ゆっくりと表情が変わる。
驚きと。
理解と。
そして——
隠しきれないほどの、嬉しさ。
「……」
言葉が出てこないらしい。
珍しいことだと、クラリスは思う。
いつもなら、何かしら軽口を挟むのに。
けれど今は、ただこちらを見ている。
だから、クラリスは先に口を開いた。
「……あのときのことですが」
「……ええ」
「寝起きの朝の、あのときのことです」
ルシアンの表情が、少しだけ柔らかくなる。
「はい」
「……理解しました」
「何を?」
「あなたが、どうしてそれ以降、同じことをしなかったのか」
ルシアンは、少しだけ目を細める。
否定しない。
ただ、続きを待っている。
「……待っていたのですね」
静かに言う。
「私が、どうするかを」
その言葉に、ルシアンはほんのわずかに息を吐いた。
そして、観念したように笑う。
「ええ」
あっさりと、認める。
「だって、あれは反則だったもの」
「反則、ですか」
「ええ。衝動でやったくせに、あれ以上を望むのは、さすがにね」
肩をすくめる仕草。
けれど、その目はまっすぐだ。
「だから、次はあなたに選んでほしかった」
「……そうですか」
「ええ」
少しだけ間を置いて。
「それで?」
問いかけるように、ルシアンが微笑む。
「今のは——答えでいいのかしら」
クラリスは、ほんの一瞬だけ視線を揺らした。
けれど、すぐに戻す。
逃げる理由は、もうない。
「……はい」
静かに、はっきりと。
「これが、私の答えです」
一拍、呼吸を置く。
けれど、それで終わりにするのは違うと、はっきりとわかっていた。
これは、“答え”の続きだ。
視線をまっすぐに向けたまま、言葉を続ける。
「……それと」
「ええ」
ルシアンが、少しだけ身を乗り出す。
その仕草に、胸が強く鳴る。
けれど、逃げない。
「……あなたが、好きです」
言葉にした瞬間。
自分でも、驚くほどまっすぐだったと思う。
回りくどくもなく、言い換えもなく。
ただ、そのまま。
「……ルシアン」
もう一度、名前を呼ぶ。
その響きが、少しだけやわらかい。
ルシアンの表情が、完全に止まった。
理解するまで、ほんの一瞬。
そして——崩れる。
「……ごめんなさい」
低く、少しだけ掠れた声。
「さすがに、今のは我慢できないわ」
次の瞬間、腕が引き寄せられる。
驚く間もなく、抱きしめられる。
強く。
けれど、壊さないように。
「……ずっと待ってたのよ」
耳元で、低く囁く。
「あなたが、自分で来るのを」
ほんの少しだけ、腕に力がこもる。
「でも……来られたら来られたで、無理ね、これ」
小さく、息を吐くような笑い。
クラリスは、そのまま静かに身を預けた。
抵抗はない。むしろ、安心する。
ああ、と思う。
これでいいのだと。
選んだのは、自分だ。
言葉にしたのも、自分だ。
そして、その結果が——これだ。
ゆっくりと顔を上げる。
距離は、もう迷うほどではない。
ルシアンが、ほんの少しだけ目を細める。
今度は、どちらからともなく。
触れる。
それは、はじまりのキスではなく。
確かに、続いていくものだった。
この番外編で完結となります!
最後までお付き合いいただきありがとうございました!




