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異端の白球使い  作者: R.D
異端者
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異端者 (2)

 入学式の一日を終え、家に戻ると、再び静寂が訪れた。

 真新しい制服を脱ぎ、見慣れた部屋着に着替える。誰もいない家に響く自分の足音だけが、今の私の日常だった。教科書や配布物を机の上に置く。


 どれもこれも、これから始まる中学校での生活を示すものだ。しかし、私の思考は、既に卓球部へと向かっていた。


 夕食を一人で済ませた後、私は迷わず卓球台のある部屋へ向かった。部屋の照明をつけると、卓球台が静かにそこにあった。壁際には、祖父母が用意してくれた高性能なマシンが鎮座している。


 ここが、私のもう一つの世界だ。


 ラケットを手に取る。裏ソフトとスーパーアンチ。指の腹でラバーの感触を確かめると、体に馴染んだ感触が返ってくる。


 グリップを握り、素振りをする。体の軸、腕の振り、手首の返し。小学三年生から磨き続けてきた、この異質なスタイル。誰にも知られることなく、ここで私は強くなってきた。


 マシンの設定を調整する。一定のコースに、様々な回転のボールを出せるように。


 最初はゆっくりと、基本の持ち替えからのフォアハンド、バックハンド。裏ソフトでのドライブ、スーパーアンチでのカットブロック。体の動きとラケットの角度。コンマ何ミリのズレが、打球の質を決定的に変える。それを、体で覚える。


 練習が進むにつれて、マシンの設定速度を上げ、コースもランダムに設定する。こんな高いマシンを惜しげもなく買ってくれた祖父には、感謝しかない。


 高速のラリーに対応するための、瞬時の持ち替えと正確な打球。体躯の不利を補うための、反応速度とフットワーク。


 汗が、シャツに滲んでいく。息が上がる。しかし、心は静かだった。

 集中。目の前のボールだけを追う。解析、判断、実行。この繰り返しが、私を強くする。


(…今日の入学式。多くの人間がいた。それぞれの感情、それぞれの目的。私の卓球は、彼らに理解されることはないだろう。それでも構わない。)


 誰もいない部屋で、黙々と練習を続ける。高性能なマシンは、決して私を裏切らない。要求した通りのボールを返し続ける。それは、人間関係よりも、ずっとシンプルで、ずっと信頼できる関係だった。


 卓球台の向こうに、想像上の対戦相手を置く。私が倒すべき相手。彼らのプレイをイメージし、それに対する戦術を組み立てる。


 数日後、中学校では部活動の見学・体験期間が始まった。


 私は迷わず卓球部へと向かった。体育館の隅にある卓球スペースには、既に何人かの生徒が集まっていた。新入生らしき顔ぶれと、先輩らしき少し背の高い生徒たち。そして、ジャージ姿の顧問らしき先生。


 私は、体育館の入口で一度立ち止まり、様子を観察する。他の新入生は、先輩たちに声をかけられたり、練習風景を興味深げに見たりしている。


 私は、誰にも声をかけられずに、静かに卓球スペースへと近づいた。


 顧問の先生に声をかける。


「卓球部に入部させていただきたいのですが」

 簡潔に、そして丁寧に伝えた。

 顧問の先生は、私の真新しい制服を見て、少し驚いたような顔をした。


「ほう、静寂さんか。入部希望か、ありがとう。見学はしたかい?」と尋ねる。

「はい。入部を希望します」


 見学は、入学式の日に遠目から勧誘の様子を見ただけだったが、それで十分だった。私に必要なのは、卓球ができる場所。それだけだ。


 入部届を受け取り、記入する。その間も、周囲では部員たちが打ち合っている音が聞こえる。先輩たちが新入生に、基本的なラケットの握り方や素振りを教えている声も。


 入部届を提出し、顧問の先生から簡単な説明を受ける。そして、ラケットを持ってみるように促された。

 私は、慣れた手つきで自分のラケットケースから、愛用のラケットを取り出した。白いグリップ、裏ソフトとスーパーアンチ。


 それを見た瞬間、顧問の先生の顔色が変わった。


「それは…ずいぶんと珍しいラバーの組み合わせだね。スーパーアンチを使うのかい?」


 周囲で打ち合っていた先輩たちも、私のラケットを見て、ざわめき始めた。


「なんだ、あのラバー?」

「スーパーアンチなんて、見たことないぞ」

「小学生で使ってるやついるんだな」


 私は、彼らの反応を冷静に観察する。


(…やはり、異質だと認識される。それは、予測の範囲内だ)


「はい。このラバーを使っています」

 私は、特に説明を加えず、簡潔に答えた。

 顧問の先生は、私のラケットを手に取り、ラバーの感触を確かめる。


「うーん…これは、かなり扱いにくいラバーなんだが。練習はしているのかい?」と尋ねる。


「はい。練習はしています。これで、戦えます」


 私の言葉には、確かな響きがあった。それは、自己肯定感の低さを埋めるための、偽りの自信ではない。小学三年生から積み重ねてきた、圧倒的な練習量と分析に裏打ちされた、揺るぎない確信だ。


 顧問の先生は、私の目を見て、何かを探るような表情をした。


「よし、じゃあ、少し打ってみようか。誰か、相手をしてやってくれ」と、先輩たちに声をかけた。

 一人の先輩が、少し戸惑った様子でこちらに近づいてくる。彼は、ごく一般的な裏ソフトの両面攻撃型に見えた。


 私の異質なスタイルが、彼にどのようなプレイを強いることになるか。


 私は、ラケットを握り直し、卓球台の前に立った。

 ここから始まる。私の、中学校での卓球生活が。


 私がこの世界で自身の価値を証明する物語が。


 そして、その輝きが、いつか悪夢へと繋がる物語が。


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