5.服従契約
鼻先まで湯船に浸かり、水面を揺らしてアオさんを曖昧にぼかす。
裸の付き合いに恥ずかしさはなかった。
なにせ青染アオ、いくら着飾ろうと、彼は歴とした男だからだ。
「無理に性別を押し付けないでおくれよ。ボクはもう、その次元を降りたのだから」
「というと?」
「男とか、女とか、そんなくくりに執着はない。ボクはただ、ありのままの感性をさらけ出しているにすぎないの」
「変態ですね〜」
「んー? なぜ君はガッカリしているんだい?」
「安心しているんですよ。変わらないでいてくれる僕の間抜けっぷりに」
美少女に拾われたと内心ウキウキしていた先の自分を、殴ってやりたいぜ。
「べつに喜んでくれたっていいじゃん。可愛いのは事実なんだし」
メイクを落としたアオさんは、けれど見ていられないくらいに綺麗だ。
脱色された眉毛は造形の美しさを際立たせ、水気で寄せられた前髪がどうにも妖艶で。
紅潮した表情が無駄にエロいの!
ふわふわボーっと見惚れていると、返答しなかったことに怒ったのか、ぐっと距離を詰められた。唇が触れてしまいそうな所まで。
「うわっ!?」
反射的に身をよじる。汚いものが近づいてきたみたく卑しく。
とっさに気づく、なんて傲慢な態度なのだろうかと。
「ごめんなさい。悪気はないんです」
別にアオさんが男だから、忌避したわけでない。
無警戒に接するには、あまりにも破滅的すぎるだけだ。
「わかっているよ。びっくりさせちゃったね」
細い指先が胸に触れてくる。
「ドキドキしてる」
「い、いじめるなぁ……」
あせるな。この火照りは、お風呂が熱すぎるせいにちがいないのだから。
「冗談はお終い。木洩日ひなた君。そろそろボクに君を教えてはくれないか」
湯に映る自分の顔、いつも眠たそうだねって言われる、垂れたまぶたが印象的な、頼りない凡のツラ。
僕にこれと言った特技はない。体を動かすのは好きだけれど、福山くんのほうが足は早い。
本を読むのは好きだけれど、木村さんみたく賢くない。
強いて特徴をあげるのならやはり──。
「僕は間抜け者なんです」
「たしかにー。さっきもシャンプーとボディーソープ、間違って使っていたしー」
それは教えておくれよ……。
どうりで髪がギシギシなわけだ。
「他にもね、頭ではダメってわかっているのに、ついしてはいけないことをしでかしてしまうんです」
自分がやられていやなことは、人にしてはならないよ。父に教えられた。
心底怒ってしまっても、六秒間はぐっと堪えなさい
。母に助言された。
どれも守れた試しがない。
「人に悪意を向けられると、つい反撃したくなってしまうんです」
瞬間、悪意をはるかに凌駕する殺意がこびんを掠めた。これまでの人生でおよそ浴びたことがない類の鏃。アオさんから発せられたものだ。
防衛本能が理性よりも早く、両の手を彼の細首へ伸ばさせた。
「うわぁすごい、マジなんだ」
手はアオさんに受け止められた。ぎゅっと、恋人繋ぎで。
からかわれたのだと少し遅れて気づく。
この人、一挙手一投足が僕の内心をかき混ぜてくる。
「ふふ、とんでもない反応速度だ。やっぱりボクの目に狂いはなかった。ひなた君は狩人に向いている」
狩人。アオさんみたく、異世界の怪物を狩る人たちを指す言葉らしい。
「思いの外いい手下ゲットしちゃったな〜。嬉しい。あ、家族のことは心配いらないよ。ちゃんと代わりの死体は用意しておくから」
「し、死体?」
「ひなた君には死んだことになってもらいます」
「でも、それじゃあ……」
「うん。家族は大いに悲しむだろう。とはいえ、何年も捜索されるよかマシだと思うぜ」
僕は両親から愛されていると自負している。
二人が僕のせいで悲しむところを想像すると、血の気が引いた。
「他に何かいい手段は……?」
「木洩日ひなた。あまりボクを怒らせるなよ。線を踏み越えたのは君だ。全ての責任は君自身にある。もう選択の余地はないんだよ、君は知りすぎた。逃すわけにはいかない。でないと君を狩人として処理しなければいけなくなる」
でないと殺意が、本物になる。
覚悟なんてなかった。深く考えることすら放棄していた。
そのツケは僕でなく、家族が支払うのだ。
なんて愚かで、グズで、間抜けな息子なんだろう。自己嫌悪の海に潜る。
ぶくぶく、ぶくぶく。
あぶくをたてて。バカを吐き出す。
後先考えられないのが僕の悪癖ならば、せめて今だけは、必死に、死ぬ気で、考えてみよう。
でなきゃここで溺れてしまえ。
「ぶはっ」
「覚悟は決まったかい?」
考えて、考えて、考え抜いて。僕は僕なりの責任の取り方を思いついた。
「はい。アオさん、僕のことを殺してください」
「はぁ?」
「絶対に絶対に。誰にも、異世界のことを広めないと心から誓います。だから、たまにでいいので、家族に合わせてください!」
あなたのルールに、手前勝手なわがままで歯向ってみよう。愚か者だから、愚か者らしい戦い方を選ぼう。
「無理だ。社はそれを許さない。身近な者との接触は、無益なリスクしかうまないから」
「アオさんが無理だと思うのなら、僕のことを今殺せ。死ぬ覚悟はできています」
「本気かい?」
「本気です」
しばらく見つめ合う。今度は逸らすことなく真摯に。
「……君は卑怯な奴だ、自分自身を人質にするだなんて。正直、本当に殺してしまおうか今も迷っているよ」
「望むところです」
アオさんはこめかみを押さえてうなる。緊張と恐怖で息が詰まりそう。
「……たはっー。ガキンチョのくせに見上げた根性じゃあないか。ボク好みのね。わかったよ、折れてあげますよ。社にはボクのほうから掛け合ってみます。あまり期待しないでおくれよ……」
「あ、ありがとうございます!」
感激、あとは緊張からの弛緩で涙が自然と溢れ出した。
ダメだこりゃ、しばらくはやみそうにない。
「ただし条件がある」
「ぐずっ。……条件?」
指先を額に突き立てられた。
僕にはなぜか、その人差しが銃口に思えたのだ。
「ボクに絶対服従ね」
なんだ、そんなことか。こちとら元よりそのつもりだ。
「わかりました」
「まずは一つ目の命令──」
とはいえ僕という奴のなんて浅はかな。
その命令が、のちの人生を大きく左右することになるとはつゆ知らず。
のんきに間抜けに考えなしに、アオさんの言葉を受け入れてしまうのだ。
「ひなた君はボク以外の人間を愛してはいけない」
「ん?」
「つまり、ボク以外のやつとセックスをしてはいけない」
「せっく?」
この場面の何が不幸なのかを紐解けば、やはり僕が間抜け者だってことに終始する。
僕は小6にもなって、いまだほとんどの性知識を有していなかった。だからここでもやはり──。
「わかったかい?」
「は、はい! わかりました!」
考えなしに決断する。
「ふふ、いい返事だ」
アオさんの素敵な笑顔は、この日一番の。
──悪意に満ち満ちていた。




