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静淵の竜は、世界を視る  作者: しぇくしーふっふー


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第五話 古き文字、禍つ書物

応接室は静かだった。


革張りの椅子が二脚、重厚な机を挟んで向かい合っている。壁に沿って棚が並び、分厚い台帳や書物が整然と収まっていた。窓から朝の光が差し込み、埃の粒子がゆっくりと漂っている。


リネットは椅子に座り、隣のラミフィオーレを横目で見た。ラミフィオーレは背もたれに軽く寄りかかり、部屋を一瞥して特に何も言わなかった。


扉が開いた。


入ってきたのは五十がらみの男だった。銀混じりの髪を後ろへ撫でつけ、濃紺の上着を纏っている。所作に余分な動きがない。リネットは反射的に背筋を伸ばした。


「お待たせしました」


声も落ち着いていた。机の向こうへ回り、腰を下ろす。その目がラミフィオーレをじっと見た。


「私はロレンツォ。このギルドの長を務めております」

「ラミフィオーレだ」

「リネットといいます」


ロレンツォは頷き、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。昨日ラミフィオーレが記入した申込書だった。


「新しく加入した者のチェックをするのも仕事でしてね」


紙をテーブルに置く。


「これを見た時、手が止まりました」


リネットも覗き込む。古代文字が淀みなく並んでいる。


「私は読めません。しかし、手元に同じ文字を使った書物があります。それと同じものだと一目で分かった」


ロレンツォの目がラミフィオーレへ戻った。その視線は値踏みとも敬意ともつかない静かな観察だった。ラミフィオーレの立ち居振る舞い、その淀みのない古代文字、何者にも媚びない泰然とした空気——ロレンツォはそれらをひとつひとつ見て取ったのだろう。やがて口を開いた。


「名のある学者か、あるいは相当の魔術師のお方が、何らかの事情で素性を隠して登録なさったのでしょう。……いや、詳しい事情は伺いますまい」


ラミフィオーレは少し機嫌が上向いた様子だった。


「ほう。お主には我の品というものが分かるようだな」


リネットは内心で小さく笑った。買いかぶられているのだが、本人は満足そうだ。


「して、用というのは何だ」


ロレンツォは一拍おいた。


「本題に入りましょう」





「古代遺跡から書物を持ち帰りました。全部で五冊」


ロレンツォは机の引き出しから、薄い革表紙の書物を一冊取り出して置いた。


「ご覧の通り、すべて古代文字で書かれています。これまで何人かの学者に当たりましたが、古代文字を本当に読める者はおらず、翻訳は進んでいない。名のある研究者に頼む手もあるにはあるのですが、費用が嵩む。それに、いつ訳してもらえるかも分からない。古代文字の解読となれば、年単位の話になることも珍しくはない」


ラミフィオーレが書物を手に取った。ぱらりと開く。淀みなく視線が走る。


「読めるな」

「読めるんですか」


リネットは思わず声に出した。


「当たり前だ」


ラミフィオーレは書物を机に戻した。


「つまり、我にこれを翻訳せよと言いたいのだな」

「はい。もし引き受けていただけるなら、これほど心強いことはありません。……報酬も相応に用意しています」

「ほう、どの程度を考えておる?」


ロレンツォはわずかに目を細めた。


「一冊につき金貨三枚。五冊で金貨十五枚。いかがでしょう」


リネットの呼吸が一瞬止まった。


金貨十五枚。それがどういう額か、計算するまでもない。低ランクの依頼を地道にこなす覚悟を昨晩したばかりだった。その日々がどのくらいかかるかも薄々分かっていた。それがいきなり——。


「よかろう。引き受けてやる」


ラミフィオーレは即答した。


「ありがとうございます。では、書物の全冊をお預けします。翻訳が済んだものから順にギルドへ届けていただければ」


リネットは五冊の書物を受け取りながら、まだ少し頭がついていかなかった。





宿に戻り、二人は机を挟んで向かい合った。


ラミフィオーレが一冊目を開く。リネットは羽ペンと紙を用意した。


「書き取れるか」

「やってみます」

「我が読む。お主が現代文字で書き取れ」


ラミフィオーレが声に出し始めた。


古代語の響きは不思議と耳に心地よかった。音の連なりがなめらかで、どこか水が流れるような調子がある。リネットはその意味を受け取りながら、懸命に書き取っていく。


しばらくして、ラミフィオーレがふと手を止めた。


「その文字は我のものとは随分形が変わっておるな」


リネットが書いた現代文字を見ている。


「よく見ると、似ているところはありますよ。この縦の線とか、この角の曲がり方とか。元は同じところから来ているんじゃないかって気がします」

「……なるほどな。削ぎ落とされたわけか」

「時代が変われば、使いやすいように変わっていくんだと思います」

「ふむ」

「ラミさんが書けないと今後困ることもあると思うんですが……教えましょうか」


ラミフィオーレは一瞬リネットを見た。


「お主が我に教えるのか」

「あたしの方がランクが上ですから」


言いながらリネットは少し緊張した。言い過ぎたかと思ったが——。


「……ふん」


ラミフィオーレは鼻を鳴らした。否定はしなかった。


それから不思議な時間が始まった。


ラミフィオーレが古代語を訳し、リネットが書き取る。書き取りながら文字の読み方や書き順を教える。ラミフィオーレは一度見れば覚えた。二度目は確認だけで済み、三度目には手が先に動いていた。


「早い……」

「何がだ」

「覚えるのが」

「これくらいは当然であろう」


尊大な答えだったが、事実だった。翻訳を進めながら文字を習得するという並行作業を、ラミフィオーレは涼しい顔でこなしていく。


一冊目が半分ほど進んだ頃、ラミフィオーレはリネットの書き取りを覗き込んで言った。


「お主の字は読みやすいな」


褒めているのかどうか微妙な言い方だった。しかしリネットは少しだけ嬉しかった。





その頃、ラミフィオーレは文字を読みながら胸の奥で何かが反応しているのを感じていた。


目の前の少女が一字一字丁寧に教えてくれる。今この時代の文字。今この時代の形。


我の知る文字とはずいぶん形が変わったものよ。


角が取れ、線が整理されている。古い文字の方が複雑だったが、情報量も多かった。この文字は簡潔だ。必要なものだけが残っている。


面白い、とラミフィオーレは思った。


何百年かかけて、人は文字を削ぎ落としていった。余分を切り捨て、伝わるものだけを残した。それは思考の変化でもある。


腑に落ちぬのは、なぜこれほど懐かしい気がするのかということだった。初めて見るはずなのに。





二日かけて一冊目が訳し終わった頃、ラミフィオーレは現代文字をほぼ書けるようになっていた。


リネットは書き上がった翻訳稿を眺めながら率直に言った。


「二日でですよ。普通じゃないです」

「普通に比べて何の益がある」


言い返しようがなかった。


二冊目に入った。内容は変わった。一冊目が記録や地誌の類であるのに対し、二冊目は様子が違う。文体が重くなり、筆圧が上がっている。書いた者の緊張が何百年の時を越えて伝わってくるようだった。


ラミフィオーレが声に出して訳していく。


「……我らはそれを御することを諦めた」


リネットの手が自然と止まった。


「続けろ」

「あ、はい」

「制御しえぬ力は、長く留め置けば必ず溢れる。街を灰に変えた記録が三例ある」


リネットは書き取りながら内容を処理していた。街が三つ。灰に。制御できない力。


「封じることを決めた。完全に消すことは我らには不可能であった。ゆえに封じた。この書に記す封印の地が永劫変わらぬようここに残す」


ラミフィオーレがページを繰る。


「物騒だのぉ」


あっさりとした感想だった。リネットは苦笑した。


「あっさり言いますね」

「古い話であろう」

「でも、封印の地がこの本に——」

「続きを訳そう」





翻訳が核心へ差し掛かった時、ラミフィオーレの手が一瞬止まった。


声に出す前に目だけがページの上を滑った。


リネットにはその一瞬が分かった。何かに引っかかったという間だった。


「ラミさん?」

「……少し待て」


ラミフィオーレはそのまま数行を黙読した。赤い瞳がゆっくりと動いている。


やがて静かに訳し始めた。


「エネルギー体とでも呼ぶべきものだ。形はなく、器に満ち、あるいは溢れる。古代の我らが作り出したものではない。地の底から滲んできたものをある者が引き上げ、利用しようとした。制御を失い、街を焼いた。人の手には余る」


声は平静だった。しかし、どこかが違った。


リネットは書き取りながら横目でラミフィオーレを見た。表情は変わっていない。それでも——何かがほんのわずかに静まったように見えた。





これは知っている。いや——知っている「気がする」。記憶にはない。だが、魂の深いところがこれを「小さきもの」と告げていた。


稚拙だとも感じた。人が御しきれずに封じたという事実がひどく矮小に映る。なぜそう感じるのかは分からない。ただそう感じる。


もっと大きな何かを、ラミフィオーレ自身の魂の底はかつて知っていた。この書に記された厄災はその「何か」と引き比べれば確かに小さい。


腑に落ちぬ。


自分が何を知っているのか知らないのに、何と比べているのか。


ラミフィオーレはその感触を追わなかった。追っても掴めないものは今は置いておく。





問題は次のページにあった。


ラミフィオーレが次のページを開いた瞬間、リネットも前のめりになった。封印の地がここに記されているはずだった。


ラミフィオーレの目が止まった。


リネットが覗き込む。


ページがなかった。


正確には——切り取られていた。背のところからきれいに一枚だけ。封印の地を記すはずのそのページだけがない。


「……切り取られてる」

「そのようだ」


ラミフィオーレは書物を裏返し、切り口を確かめた。リネットも手を伸ばしてその断面に触れた。


指先が止まった。


「ラミさん」

「分かっている」


切り口が古くなかった。革の断面に新しい色がある。数十年、百年前の切り口であればもっと色が変わっているはずだ。


これはごく最近のものだ。


リネットは顔を上げた。


「これって……誰かが最近——」

「ページだけ抜いたということは」


ラミフィオーレは書物を閉じ、表紙を静かに撫でながら続けた。


「この力の在り処を知っている者なら、手掛かりとなる書物ごと処分しているはずだ。本を残してページだけ持ち去るということは——文字は読めないが、地図なり図なりは見れば分かる、その程度の者だろう。ここに何かあるとは気づいた。だが何かは分からない。そういうことだ」


「じゃあ、目的は……」

「財宝でも埋まっていると思っているのであろう。古い書物に地図めいたものがある——それだけでそう解釈する者は多い」


ラミフィオーレは少し間を置いた。


「そこへ向かい、掘り起こし、封印が解けて厄災が溢れ出す。まあ……それも人の業というものか」


「ちょっと待ってください!」


リネットは思わず身を乗り出した。


「それ、止めないとまずくないですか!?街を三つ灰にした力ですよ? 人の業どころじゃないです!」

「ふむ」

「ふむ、じゃないです!この事もギルドに報告を——書物を持ち込んだ者の記録と、封印の場所を探している可能性があること、この両方を伝えないと!」


ラミフィオーレは少し愉快そうに目を細めた。


「お主は止めに行くつもりか」

「当然じゃないですか!」

「……ふん」


ラミフィオーレは立ち上がった。否定はしなかった。


リネットも立ち上がる。


外の喧騒は続いている。何も変わっていない。


それなのに、何かがすでに動き出していた。

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