第四話 交易都市メルカディア
城門をくぐった瞬間、世界が変わった。
人の波だった。行商人が荷車を引き、旅人が地図を広げ、子供が屋台の間を縫って走っていく。軒を連ねる店々から客を呼ぶ声が飛んでくる。石畳の上を東の王国の軍服を着た男と、西の魔導師らしき長衣の女がすれ違う。どこかで楽器が鳴っていた。
匂いがした。焼けた肉の香り、香辛料の煙、干した果物の甘さ、革と油の匂い。それが混ざり合って、メルカディア独自の空気を作っている。
「ほう……」
隣でラミフィオーレが静かに言った。
「これは大した賑わいだ」
尊大なあの方が素直に感心している。それだけでこの街の規模が伝わった。
リネットも圧倒されていた。父から話は聞いていたが、実際に立ってみると違う。街が生きていた。
屋台の列の向こうから、炭火で何かを炙る香ばしい煙が流れてきた。その瞬間、ラミフィオーレの足がほんの一拍だけ止まった。
赤い瞳が煙の方向へ向く。
「まず、用を済ませるか」
自分に言い聞かせるように呟き、また歩き出した。
◇
冒険者ギルドは大通りから一本入った広場に面していた。石造りの頑丈な建物で、扉の上に剣と盾を組み合わせた紋章が掲げられている。
中に入ると、広い受付フロアを数人の冒険者が行き来していた。掲示板に依頼書が並び、奥のカウンターには受付の人間が二人いる。
リネットが窓口へ向かうと、眼鏡をかけた女性が顔を上げた。きちんと結い上げた髪に清潔感のある制服。親しみやすい笑顔だったが、目がよく動いていた。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」
「冒険者の新規登録をお願いしたいんですが」
「かしこまりました。こちらの用紙にご記入をお願いします」
差し出された用紙を、リネットはラミフィオーレへ渡した。
ラミフィオーレは用紙を一瞥し、迷いなく記入を始めた。羽ペンが淀みなく走る。
しばらくして用紙がカウンターへ戻された。受付の女性——胸の名札にはキアラとある——が用紙を手に取り、確認し始めた。
数秒後、その手が止まった。
眼鏡の奥の目が、ゆっくりと細くなる。
「あの……」
丁寧な声だったが、わずかに違う色が混じっていた。
「古代文字ではなく、現代の文字でお願いできますか……?」
ラミフィオーレが怪訝そうに眉を上げた。
「なんだ? この文字は使えぬのか」
「現在は……使われていない文字でして」
キアラは用紙を差し出した。リネットが覗き込む。そこに書かれていたのは、確かに見たことのない文字だった。形は整っているのにまったく読めない。
「代わりに書きます」
リネットはラミフィオーレから必要なことを聞き取りながら、新しい用紙に記入した。名前、出身地は不明、職業は魔法使い。
その間、キアラはラミフィオーレが書いた用紙を、視線を外せない様子でじっと見つめていた。
登録が進み、最後に魔道具での照合が行われた。小さな水晶球に手をかざすだけの手順だ。
「犯罪歴の照合です。少々お待ちください」
水晶球が一度光り、消えた。
「問題ございません。登録完了です」
キアラが新しい冒険者証を差し出した。刻まれているのは、銅色のブロンズの印だ。
◇
ギルドを出たところで、ラミフィオーレが掲示板の依頼書を眺めていた。
「リネット。この"ゴールド"とあるのは何だ」
「依頼のランクです。難易度に応じてブロンズから上がっていきます」
「では早速、これを受けるとするか」
ラミフィオーレが指したのは、ゴールドランクの討伐依頼だった。
「……受けられません」
「何故だ」
「ラミフィオーレ様はブロンズ登録なので、ゴールドの依頼は受けられないんです。ランクを上げるには、低いランクの依頼から実績を積まないといけなくて」
ラミフィオーレはしばらく依頼書とリネットを交互に見た。
「……面倒だのぉ」
深い溜め息だった。心底面倒そうだった。
「最初はみんなそうです。簡単なのから一緒にやりましょう」
「最初はみんなそう……か。ところで」
ラミフィオーレがリネットを見た。
「様は付けなくてよい」
「え? でも」
「一応、お主の方がランクが上であろう。それに長い付き合いになる。様付けも面倒だ」
リネットは少し考えた。呼び捨てはさすがに憚られる。
「……では、ラミさん、と」
「好きにしろ」
興味なさそうに言って、ラミフィオーレはギルドの扉を押した。
◇
宿の手配は、ギルドの近くにある冒険者向けの宿で済んだ。冒険者証を見せると割引が利く。荷を部屋に置いて、リネットは一息ついた。
ラミフィオーレは部屋を一瞥して「狭いな」と言った。文句ではなく感想のようだった。
街へ繰り出したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
大通りを歩きながら広場の位置、武器屋と道具屋の場所、ギルドまでの近道を確認していく。リネットが「こっちです」と引っ張り、ラミフィオーレが「ふむ」と従う。それが自然なリズムになってきていた。
屋台の列を抜けた角で、炭火の香りが漂ってきた。
ラミフィオーレの足が、今度こそ止まった。
◇
串に刺さった肉が炭火の上で炙られていた。
モー・モウの串焼きだ。この地方で飼われる家畜で、肉付きが良く脂が乗っている。屋台の主人が扇であおぐたびに炭火が赤く熾き、脂が滴って白い煙が上がる。
焼き色が入っている。照りがある。
ラミフィオーレが無言で財布を出した。
「お、お待ちを。あたしが——」
「よい。これくらいは持っている」
銅ルーナを二枚、無造作に置いた。串が二本差し出される。
ラミフィオーレは一本を受け取り、すぐに齧った。
リネットも一本を手に取って口をつけた。
表面は香ばしく、中は柔らかかった。塩が効いている。歩き回って空いた腹に、肉の旨味がじわりと広がる。屋台の料理だ。丁寧な仕事ではないかもしれない。それでも旨かった。
隣でラミフィオーレがもう一口食べた。
咀嚼して、少し間があった。
「塩が勝ちすぎている」
リネットは串を持ったまま振り向いた。
「でも……お顔は悪くないと言ってますよね?」
「うむ、悪くない」
ラミフィオーレはそう答え、もう一口食べた。
◇
その頃、ラミフィオーレは内心で静かに舌を巻いていた。
塩は確かに強い。だが、この力強い旨さは——炭火と脂と獣の本来の味が、単純に重なっている。余分なものがない。素材と火と塩、それだけでここまで出るとは。
屋台ならではよな、とラミフィオーレは思った。豪勢な調理場では出せないこの野趣。悪くない。満更でもない。
ふと、何かがよぎった。
この力強い味の奥に、名状しがたい既視感がある。知っている。どこかで確かに——。
記憶を探る。何も出てこない。
腑に落ちぬ。
だが、ラミフィオーレはそれを深くは追わなかった。串の残りを食べて、煙の上がる屋台を静かに眺めた。
◇
日が傾いてきた頃、二人は宿へ戻った。
夕食は宿の食堂で、旅人向けの煮込みと黒パンだった。街道の宿場のものより少し整っているが、豪勢ではない。リネットが「悪くないですね」と言うと、ラミフィオーレが「まあな」と短く返した。
部屋に戻り、リネットは脚を伸ばした。
「明日、簡単な依頼を受けに行きましょう。ブロンズでも取れる薬草の採取とか、荷の護衛とか」
ラミフィオーレは天井を見上げたまま言った。
「草を摘むのか」
「最初はそんなものです」
「……面倒だのぉ」
同じ台詞だった。リネットは苦笑して目を閉じた。
◇
翌朝ギルドへ向かうと、カウンターにキアラがいた。
二人の姿を見て立ち上がる。いつもの丁寧な笑顔だったが、眼鏡の奥の目が昨日と少し違う光を持っていた。
「ラミフィオーレさん、よろしければ——少しお話をさせていただいてよろしいでしょうか」
ラミフィオーレはキアラを見た。視線だけで問う。
「場所を変えてご説明させてください」
奥の応接室へ案内され——扉が静かに閉まった。




