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静淵の竜は、世界を視る  作者: しぇくしーふっふー


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第三話 人の貌、世界の貌

集落を発つ朝はよく晴れていた。


リネットは門のあたりに集まった村人たちへ頭を下げた。見送りに出てきた顔ぶれは、恐れと感謝が半々に入り混じった何とも複雑な表情をしている。隣に佇む漆黒の巨躯を誰もまともに見られずにいるのは、見ずとも分かった。


「お世話になりました」


短く言って踵を返す。それで十分だった。長い別れは性に合わない。


ラミフィオーレは村人たちをちらりと一瞥し、何も言わずに歩き出した。



村の外れに小高い丘がある。


そこに父の墓があった。


石を積んだだけの粗末なものだ。名前を彫る彫刻師もいなかったから、リネットが自分で父の名を刻んだ。歪な文字が石の表面に残っている。幼い頃の自分が刻んだ字は、今見るとひどく不格好だった。


リネットはその前にしばらく立った。


言いたいことはいくつかあったが、ちゃんを得葉にしようとするたびに上手くまとまらなかった。結局、口から出たのはひとことだけだった。


「行ってきます」


風が草を揺らした。


父が旅をしていた頃の話を、リネットは何度も聞かされた。東の王国の騎士祭り。西の魔導都市の夜市。連合の交易港に並ぶ、見たこともない色の果物。その話をする父の目は、いつも少し遠くを見ていた。


もう一度旅がしたい、いつか一緒に行こう。そう言っていた。


それは叶わなかった。


けれど今、娘は旅に出る。


「この町は、あたしには少し狭すぎたんです」


誰に言うでもなく呟いた。ずっと胸の奥に燻っていた言葉が、初めて声になった。


丘を下り、ラミフィオーレのもとへ戻る。振り返らなかった。



街道に出て少し歩いたところで、リネットはふと足を止めた。


今まで気にしていなかったのが不思議なくらいだが、気づいてしまったら気になって仕方がない。


「ラミフィオーレ様」


「何だ」


「その姿だと……街の門で大騒ぎになります。というか、入れません」


ラミフィオーレは漆黒の四肢で街道の石畳を踏みしめながら、特に動じた様子もなく答えた。


「ふむ。では、こうするか」


それだけ言った。


次の瞬間、変化が起きた。腰から下の漆黒の鱗が、さわさわと波打つように組み変わっていく。四足の胴が収まり、人間の足がすらりと現れた。銀の髪が肩から流れ、赤い瞳が涼しげにこちらを見ている。絶世の美女の全身像。


リネットは息を呑んだ。


真の姿でも十分すぎるほど美しかったが、人型になるとその美しさの種類が変わる。異形の神秘さから、人の形をした何かに近づく。それでも明らかに人ではない。あまりにも整いすぎていた。


「……す、ごい」


我ながら語彙がなさすぎる感想だと思ったが、他に言葉が出なかった。


ラミフィオーレは自分の手を一度眺め、軽く指を動かしてから一歩踏み出した。


足が地面にずぶりとめり込んだ。


真の姿では四肢に分散していた重さが、今は二本の足だけにかかっている。それも、獅子の肢ではなく人間と同じ大きさの足の裏に。体の質量は何一つ変わっていないのに、荷重が集まる面積だけが極端に小さくなったのだ。石畳の表面がぼこりと沈み、亀裂が走る。当然の結果だった。


ラミフィオーレは眉一つ動かさなかった。その場で静止し、ほんの一息の間だけ目を細めた。


リネットには、その瞬間に何が起きたかが分かってしまった。空気の密度がごく局所的に、微細に変化した。人が無意識に感じ取れるような変化ではない。それでも、リネットの体の奥にある何かが確かに反応した。


次の瞬間、ラミフィオーレの足が石畳から静かに持ち上がった。亀裂は走ったままだが、それ以上沈むことはない。


「今の……重力魔法、ですか」


声が少しかすれた。


「ああ」


「あんな高位の術を……それを、ずっとかけ続けるんですか」


「まあ、このくらいならな。少々窮屈ではあるが、この程度であれば造作もない」


気だるげな、何でもないことのような言い方だった。


リネットはしばらく言葉が出なかった。


重力魔法は術式の中でも最も難度が高い系統に属する。展開するだけでも上位の術者が必要で、それを常時維持するとなれば、どれほどの魔力と制御が要るか。この町には魔法を使える者など数えるほどしかいなかったが、それでもこれが途方もないことだとは分かる。


それをラミフィオーレは「まあ、これくらい」と言った。


「……すごく、おかしなことをしているんですよ、ラミフィオーレ様」


「おかしいか」


「普通じゃないです。全然」


「そうか」


ラミフィオーレは特に気にした様子もなく、すたりと歩き出した。


足は、もう地面に沈まなかった。



二人は街道を北へ歩いた。


人型になったラミフィオーレは、遠目には普通の旅人に見える。ただし、非常に目を引く旅人だ。街道を行き来する商人や旅人が、すれ違いざまに振り返っていく。ラミフィオーレは気にしていないが、リネットは少し気になっていた。


「ラミフィオーレ様、この世界のことを教えよ、と言っていましたね」


「言ったな」


「どこから話せばいいか……まず、どこへ向かうか、ですかね」


「うむ。それが先だな」


リネットは前を向いたまま続けた。


「ここから一番近い大きな街は、リーベルタ自由連合の都市です。メルカディアといって交易で栄えています。何でも揃う街で、まず最初に向かうなら一番いい場所だと思います」


「リーベルタ、メルカディアか……」


ラミフィオーレはその名を口の中で転がした。


「この世界はどうなっておる。大まかなところで構わぬ」


「大きな国が三つあって、その均衡で平和が保たれているんです」


リネットは頭の中で整理しながら話した。


「東に武を重んじるヴァルガルド王国、西に魔導で栄えるアルメリア王国。その二つの大国に挟まれた緩衝地帯が、これから向かうリーベルタ自由連合です。どちらの王国にも完全には与せず、天秤を保つことで戦争が起きない構造を維持しています。百年ほど前に大きな戦があって、その後にこの三すくみの均衡ができたと言われています」


「三すくみか」


「そうです。どこかが動けば残りの二国の均衡が崩れる。だから誰も動けない」


ラミフィオーレはしばらく黙って歩いた。


「その均衡が今も続いているのか」


「はい。大きな戦争はありません」


また沈滅があった。今度は少し長かった。


「ふむ」


ラミフィオーレがそう言った時、声のトーンがわずかに変わっていた。


「愚かに殺し合う一方で、殺し合わぬ仕組みも編む……人間とは、つくづく」


最後は独り言のようだった。続きは来なかった。


リネットはその言葉の重さをはかりかねながら、前を向いたまま聞いた。


「どちらの意味ですか。呆れているんですか、感心しているんですか」


「両方だ」


短い答えだった。


それ以上は問わなかった。



しばらく歩いたところで、リネットは切り出した。


「ラミフィオーレ様、一つ提案があります」


「何だ」


「冒険者の登録をしておいたほうがいいと思うんです」


「冒険者?」


「はい。登録すると身分が保証されて、関所を通る時の面倒な手続きが省けます。依頼を受けてお金も稼げる。ラミフィオーレ様は記憶がないから素性がありませんよね。冒険者証がそのまま身分証の代わりになります」


ラミフィオーレは少し考える様子を見せた。


「身分だの手続きだの、煩わしいな」


「でも必要です。それに――メルカディアで良い料理を食べようと思ったら、それなりの値がします。依頼をこなして稼いでおいたほうが選択肢が広がりますよ」


ラミフィオーレは少し間を置いた。


「……確かに。いいものであれば相応の対価が必要だな」


しみじみとした口調だった。身分証の話をしていたはずが、いつの間にか食の話に着地している。リネットは内心で少し笑った。


「よかろう。登録とやらをしてやる」


結局、食の話で動く。それがこの存在の、今のところ一番確実な動機だった。


「メルカディアに着いたらギルドへ行きましょう。あたしも冒険者登録はしているので手続きは分かります」


「お主も冒険者か」


「駆け出しですけど」


「ふむ。使えるな」


素直に褒めているのか、単なる評価なのか判然としない言い方だったが、リネットはもうそのあたりは気にしないことにしていた。



日が傾いてきた頃、街道沿いに宿場が見えてきた。


街道を行き来する旅人や商人が立ち寄る小さな宿場だ。看板に「飯と宿」の文字がある。建物は古いが、煙突から煙が上がっていて中が温かそうだった。


「少し休みましょう。ここで食事もできます」


リネットが言うと、ラミフィオーレの歩調がわずかに速まった気がした。気のせいかもしれない。


宿場の食堂は旅人で半分ほど埋まっていた。リネットが席を取り、宿の主人が運んできたのは、野菜と肉を煮込んだシチューと、厚めに切った黒パンだった。


「この街道の名物料理だ」と主人は言っていた。地元で取れる根菜と、街道沿いの農家から仕入れた豚肉を、香辛料と一緒に半日かけて煮込んだものだという。


ラミフィオーレは運ばれてきた器を眺めた。湯気が立ち、複数の香辛料が混ざり合った香りが漂ってくる。


「……ほう」


ひと口すすった。


村の素朴な食事とは明らかに違った。煮込みの奥に重なりがある。香辛料の一つひとつが主張しすぎず、しかし確かに存在していて、口の中で段階的に開いていく。豚肉は繊維がほどけるほど柔らかく、脂が出汁に溶けて汁に甘みを加えている。


「時間をかけてある」


「半日煮込むと言っていましたから」


「根菜の形が残っているのに芯まで火が通っている。火加減を丁寧に管理しているな」


ラミフィオーレはもう一口すすり、黒パンをちぎって汁に浸した。


「パンは固いな」


「街道用に焼いたものは、日持ちするように固めに作るらしいです」


「汁を吸わせると悪くない。……うむ。村の食事より一段上だな」


「褒めているんですか?」


「事実を言っている」


それでも器は静かに空になっていった。パンも最後まで食べた。


「メルカディアでは、もっと上のものが食えるのか」


器を置きながら、ラミフィオーレが言った。


「食べられます」


リネットは迷わず答えた。


「交易都市だから各地の食材も料理も集まるんです。リーベルタは食の街とも呼ばれていて、屋台から高級な料理店まで何でもある。あたし自身は行ったことないんですけど、父から聞いていて」


「父が行ったのか」


「冒険者時代に。話を聞くたびに、いつか行きたいと思っていました」


ラミフィオーレはしばらく黙っていた。


それから、静かに言った。


「それは楽しみだな」


赤い瞳が街道の先を向いていた。どこか、わずかに和らいだ色をしていた。



宿場を出ると、空は夕焼けに染まり始めていた。


二人は街道をゆっくりと歩いた。宿場の明かりが遠くなり、前方には暗くなり始めた街道が続いている。その先のどこかにメルカディアがある。


ラミフィオーレは歩きながら、腹の中の温かさをぼんやりと感じていた。


供は賢く、よく働く。道も知っている。手続きも知っている。料理も作れる。


先にはまだ知らぬ人間たちの営みと、まだ知らぬ味がある。それだけで足が前へ向く。


ふと、不思議な感覚があった。


あの煮込みの香りが鼻腔に残っている。香辛料の重なり。煮詰まった肉の甘み。それをどこかで知っているような気がした。記憶にはない。過去には何もない。それなのに、初めて食べたとは思えない既視感が、ほんのわずかに胸の底を掠めた。


腑に落ちぬ、とラミフィオーレは思った。


しかしそれは一瞬で、夕風に溶けるように消えた。


前を歩くリネットの栗色の髪が、夕暮れの光を受けて揺れている。


「リネット」


「はい」


「メルカディアまで、あと何日だ」


「街道を真っ直ぐ行けば、二日ほどです」


「ふむ」


ラミフィオーレはそれだけ言った。急く様子はない。ただ、どこか満足げに長い息をついた。


夕暮れの街道を、二人はのんびりと歩いていった。賑わう交易都市の灯が、まだ見えぬ先に待っている。

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