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静淵の竜は、世界を視る  作者: しぇくしーふっふー


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第二話 贄と馳走と

 ラミフィオーレはのっそりと身を起こした。


 空が明るい。腹が減った。それだけを確かめて、あたりを見渡す。


 昨日あれだけ怯えていた集落の者たちが、遠くの家の陰からちらちらとこちらを窺っているのが見えた。


 最高の食事、と言った。さて、貧しい集落で最高とはどの程度のものか。期待はしていないが、腹が膨れれば文句はない。


 ラミフィオーレは大樹に背をもたせかけ、長い尾をゆるりと揺らした。


 そこへ、一人の人間が歩いてくるのが見えた。



 冒険者の少女が大樹の前に立った時、異形の赤い瞳がこちらを向いた。


 心臓が跳ねる。それでも膝を折らなかった。


「来たか」


 ラミフィオーレが低く言った。あくびでもしそうな気だるさだった。


「で、食い物はどこだ?」


 直球だった。少女はひとつ息を呑んだ。


「……目の前に」


 言葉がかすれた。


「まだ清い身です。どうか、これでご満足ください」


 ラミフィオーレの赤い瞳が少女をじっと見た。それから、ゆっくりと左右を見回した。


「ん? 目の前……お主しかおらぬぞ」


「はい」


 少女は静かに答えた。


「貴女様の贄となりに参りました」


 沈黙があった。


 ラミフィオーレは眉をわずかに寄せた。目の前の少女を値踏みするでもなく、ただ奇妙なものを見る目で眺めている。


「……お主、勘違いしておらぬか?」


「は?」


「我は人なぞ食わぬぞ。気持ち悪い」


 少女の思考が止まった。


 止まって、もう一度動き出して、それでも追いつかなかった。


「……え?」


「お主ら人間は同族を食うのか。我は我と同じ姿をした者は食わぬ」


 ラミフィオーレはどこか呆れたように続けた。


「お主らの食うものを持ってこい、と言ったのだ。精一杯の食事を拵えてこい、と。……はぁ。全く」


 深いため息が朝の空気に溶けた。


 少女はしばらく立ち尽くした。


 覚悟を決めてきた。一晩かけて、死を受け入れてきた。父の形見を置いてきた。別れを告げてきた。震える膝を叱りつけて、ここまで歩いてきた。


 それが全部、とんだ早とちりだったと。


「も、申し訳ございません……!」


 頭を下げた拍子に、顔に血が上るのを感じた。恥ずかしい。穴があったら入りたい。入って、そのまま塞いでほしい。


 ラミフィオーレは、そんな少女をしばらく眺めていた。


 それから、ふっと小さく笑った。



「まあよい」


 ラミフィオーレの声は、不思議と柔らかかった。


「贄としてここへ来た。同族のために、自分が犠牲になればよいと――そう覚悟を決めて来たのであろう」


 少女は、恥ずかしさと驚きが入り混じった顔で顔を上げた。


「フフフ……これだから人間は面白い」


 笑いを含んだ声だった。笑いものにしている風ではなかった。どこか、本心から楽しんでいるような。


「気に入ったぞ」


 その一言が、少女の胸にすとんと落ちた。


 死を覚悟した行いを、この異形は笑いものにしなかった。哀れみもしなかった。ただ、面白いと言い、気に入ったと言った。それがどういう意味を持つのか、少女にはまだよく分からなかった。ただ、胸の奥の何かが、静かに緩んだのを感じた。


「我が名はラミフィオーレ。お主、名は?」


「……リネット、と申します」


「リネットか」


 自分の名が、その声で呼ばれた。それだけのことなのに、妙に胸に残った。


 ラミフィオーレは、赤い瞳でリネットをまっすぐ見た。


「命を捨てる覚悟でここへ来たのであろう。ならばその命、我が貰い受ける」


「は、はい……?」


「案ずるな、喰いはせぬ。働いてもらうだけだ」


 リネットは目を瞬いた。


「我には過去の記憶が一切ない。どこにどんな街があるのかも、この世の常識というものも分からぬ。その辺りを教えよ。そして、この世界を周る我が供をせよ」


「お、お供……ですか?」


「そうだ」


 ラミフィオーレはあっさりと言った。命じる口調だった。相談でも懇願でもなく、そういうものだ、という断言。


「とりあえず腹が減った。何か作れ」


 リネットは、しばらく返事ができなかった。


 情報が多すぎた。死を覚悟してきたら喰われなかった。名前を聞かれた。命を貰い受けると言われた。供をしろと言われた。腹が減ったと言われた。


 一つずつ処理しようとして、頭が追いつかない。


 結局リネットは一番最後の、一番単純な言葉だけに答えることにした。


「……分かりました。何か作ります」



 集落の一軒を借りた。


 家の前、大樹の根方から少し離れた場所にラミフィオーレが腰を落ち着けている。あの巨躯では戸口を潜れない。台所は家の中だ。必然、料理はリネットが一人でやることになった。


 奥の台所に立ったリネットは、借りてきた食材を並べながら、ようやく呼吸を整え始めた。


 野鳥が一羽。根菜がいくつか。干した香草の束と、塩と胡椒。村の人々が震えながらも精一杯かき集めてくれたものだった。


 これならできる。


 鳥の塩焼きと、根菜のスープ。貧しい集落で出せる、精一杯のものだ。豪華とは言えない。だが、手は抜かない。


 リネットは手を動かし始めた。


 鳥を捌き、塩を揉み込む。根菜を乱切りにして、水と一緒に鍋へ。この土地に生える香草は、少し甘みのある独特の香りがする。スープに入れると、素朴な食材でも深みが出る。父に教わったことだった。


 薪に火が入る。鍋が温まってくると、台所に香りが広がった。


 開け放した窓の外に、ラミフィオーレの気配がある。時折、風が銀の髪を揺らすのが見えた。


「随分と手際がよいな」


 ラミフィオーレがふと言った。窓越しに届く声だった。


「父が教えてくれたので」


 リネットは鍋をかき混ぜながら答えた。


「剣を教えたのも父か?」


「はい」


「ほう」


 ラミフィオーレは、少し間を置いた。


「料理も剣も。多芸な父だな」


「旅をしていたので、何でも自分でやらないといけなかったと言っていました」


 リネットは根菜をひと混ぜしながら続けた。


「冒険者だったんです。若い頃から世界中を歩いて、色んなものを見てきたって、よく話してくれました」


 言いながら、少し驚いた。父の話を、こんなふうに誰かにするのは久しぶりだった。悲しくなるかと思ったが、不思議と口が滑らかに動く。


「冒険者、か」


 ラミフィオーレが静かに繰り返した。


「世界中を歩いたと」


 その声のトーンが、わずかに変わった。リネットは窓の外に目を向けたが、ラミフィオーレの表情は読めなかった。赤い瞳が、どこか遠くを見ているようにも見えた。


 鍋がぐつぐつと音を立てた。



 鳥の塩焼きを皿に盛り、スープを椀によそって、リネットは戸口まで運んだ。


「お待たせしました」


 差し出すと、ラミフィオーレの鼻がわずかに動いた。


「……ほう。いい香りだ」


 声にかすかに色が乗った。気の抜けた期待、という感じだった。


 ラミフィオーレは皿と椀を受け取り、鳥の塩焼きをひと口食んだ。


 沈黙があった。


 リネットは固唾を呑んで見ていた。この存在を怒らせたらどうなるか。料理が気に入らなかったら、どうなるか。昨日の蹂躙が、ありありと脳裏に甦る。


 ラミフィオーレは、もう一口食べた。


「悪くない」


 それだけ言った。


「……悪くない、ですか」


「悪くない。……うむ、まあ、悪くはない」


 二度繰り返してから、ゆっくりと続けた。


「塩の加減が丁度よい。この鳥は本来、臭みがある。それをきちんと抜いてある」


 リネットは少し目を見張った。捌いた後、塩を揉み込む前にひと手間かけていた。気づかれるとは思っていなかった。


「スープは――」


 ラミフィオーレは椀を傾け、ひと口啜った。


「この香草か。甘みのある草を使ったな」


「はい。この辺りに生えているもので、スープに入れると」


「深みが出る。うむ」


 短く、しかし確かに頷いた。


「根菜はもう少し火を入れてもよかった。芯が残っている」


「……す、すみません」


「だが、まあ」


 ラミフィオーレは皿に視線を戻した。


「貧しい集落の食材で、これだけのものを拵える。腕は悪くない」


 声は相変わらず平静だったが、皿の上の鳥は、けして遅くないペースで減っていた。スープも音もなく口に運ばれていく。褒めているのか採点しているのか判然としない物言いだったが、確かに食べている。貧しい材料を、丁寧に平らげている。


 リネットは小さく息をついた。それだけで、十分だった。


 空になった皿を、ラミフィオーレはしばらく眺めた。


「まだ食い足りぬが、まあよい」


 言いながら、どこか満足げに長い尾をゆるりと揺らした。


「連れていく価値はありそうだ」


 リネットは苦笑するにとどめた。これがこの存在の流儀なのだろう、という気が、少しずつしてきていた。



 食後のひとときを、ラミフィオーレは大樹の根方で過ごした。


 腹の中に温かいものがある。悪くない感覚だった。


 目の前にリネットが座っている。遠巻きにしていた村人たちは、いつの間にか気配を消していた。二人だけの、静かな時間だった。


 さて、とラミフィオーレは思った。


 腹は満たされた。次は、知識を満たす番だ。


 記憶がない。どこへ行けばいいかも分からない。何があるかも分からない。何もかもが白紙のまま、この広い世界に放り出されている。それ自体は困りはしないが、何も知らないまま歩き続けるのは効率が悪い。


 目の前の少女は、賢い。覚悟も据わっている。供として、悪くない拾い物だった。


「リネット」


「はい」


 返事が早い。それも気に入った。


「ではこの世界のこと、教えてもらおうか」


 リネットは少し目を見張った。それから、何かを確かめるように一度だけ瞬きをして、小さく頷いた。


 その黒い瞳の奥で、かすかに何かが灯るのをラミフィオーレは見た。


 何かと思ったが、問わなかった。


 聞かずともいずれ分かるだろう。この供は、まだ言葉にしていない何かを持っている。旅をしながら、それが形になる日が来る。


 朝の光が、二人の上に静かに降り注いでいた。

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