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静淵の竜は、世界を視る  作者: しぇくしーふっふー


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2/7

第一話 静淵、地に降りる

 通路を抜けた先に世界があった。


 ラミフィオーレは、しばし足を止めてそれを眺めた。


 空が青い。どこまでも高く、どこまでも遠く、淡い青が頭上を覆っている。白い雲がいくつも浮かび、形を変えながらゆっくりと流れていく。足元には緑が広がっていた。風が草を波立たせ、その匂いが胸の奥まで届く。土の匂い。生きているものの匂い。光が肌に温かい。


 地の底の闇とは、何もかもが違っていた。


 「……我は、知っている」


 呟いてから、ラミフィオーレは小さく眉を寄せた。


 初めて見る景色のはずだった。記憶を探っても、この空も、この草原も、どこにも引っかからない。それなのに、胸の奥のどこかが、確かにこの景色を懐かしがっていた。帰ってきた、とでも言うような淡い手応え。


 誰かがここで自分を待っていたような、あるいは自分が誰かをここで待っていたような。形にならない何かが、胸の底でほんの一瞬だけ揺れてすぐに沈んだ。


 「腑に落ちぬな」


 いつものように呟いて、ラミフィオーレはそれ以上深追いしなかった。掴もうとすれば逃げる。逃げるものを追っても仕方がない。


 風が銀の髪を撫でていった。


 漆黒の四肢で草を踏みしめ、ラミフィオーレは歩き出した。行く先など決めていない。決める材料もない。ならば真っ直ぐ進めばいい。どこかには着くだろう。着いたところで何かが始まる。


 空の下を悠然と歩いた。


 草原はどこまでも続いていた。低い丘を越え、小川を渉り、また丘を越える。日が高く昇り、やがて少しずつ傾き始める。景色はゆるやかに移ろっていくが、人の姿はどこにもない。


 半日ほど歩いたころ、ラミフィオーレはふと足を止めた。


 「……何か、腹が減ってきたぞ」


 腹の底が静かに満たされることを求めていた。空腹だ。覚えのある感覚だった。


 目覚めてから何も口にしていない。考えてみれば当然だった。生きているものは食わねばならぬ。それは命あるものとして、魂の底から疑いようもなく分かる理屈だった。


 さて、何を食うか。


 あたりを見回しても、草と空ばかりだ。その辺の草を食む趣味はない。


 その時、遠くに目を留めた。


 地平の彼方、丘の向こうから細い煙がいくつも立ち昇っている。火の煙だ。火を使うものがいる。


 「人間の住む町でもあるのか」


 ラミフィオーレは煙のほうへ向きを変えた。人がいるなら、食い物もあるだろう。


 空腹を抱えた最強の竜は、のっそりと丘を下りていった。



 丘を越えると煙の正体が見えてきた。


 小さな集落だった。十数軒ばかりの粗末な家が身を寄せ合うように建ち、畑が周囲に広がっている。だが、のどかな景色ではなかった。


 煙は竈のものではない。家が焼かれていた。


 ラミフィオーレは丘の中腹で足を止め、それを見下ろした。


 集落の中を武装した男たちが我が物顔で歩き回っている。家々から物を運び出し、抵抗する者を殴り倒し、女子供を追い立てている。山賊だ。粗末な防具に不揃いな得物。だが集落の側に、それに抗えるだけの力はないらしかった。


 逃げ惑う者がいる。地に伏して動かぬ者がいる。泣き叫ぶ声が、風に乗って丘の上まで届いてくる。


 弱者が食い物にされていた。


 ラミフィオーレはそれを冷めた目で眺めた。


 この世は弱肉強食だ。強き者が弱き者を喰らう。弱ければ淘汰される。それが理であり、嘆くべきことでも、怒るべきことでもない。草が虫に食われ、虫が鳥に食われるのと何も変わらぬ。あの男たちは強く、あの集落の者は弱い。ただ、それだけのことだ。


 理屈の上ではそうだった。


 それなのに、ラミフィオーレは丘を下り始めていた。


 「あれを助け、礼に食い物を貢がせる」


 口に出してみると、なかなか具合のいい考えに思えた。腹は減っている。集落には食い物がある。助けてやれば、その礼を取る大義名分も立つ。実に理にかなっている。


 うむ、これで行こう、と一人で頷いた。


 なぜわざわざ助けるのか、淘汰されるに任せればよいではないか――という問いは、不思議と浮かんでこなかった。あの光景を見たとき、胸の底が静かに波立った。その感覚に、ただ従っていた。


 利己の口実の下で、本人すら気づかぬ何かが確かに動いていた。


 ラミフィオーレは略奪の場へと、ゆっくり歩を進めた。



 冒険者の少女は剣を握り直した。


 手のひらは汗で滑り、息は上がりきっている。栗色の髪は乱れ、頬には土と血の筋が走っていた。それでも、足は退かなかった。


 目の前に、三人の山賊がいる。


 右手に父の形見の片手剣、左手に短剣。父に仕込まれた構えだった。元冒険者だった父はこの村でただ一人、剣の何たるかを知る男だった。その父が、数年前に山賊に殺された。今、目の前で笑っている男たちと、同じ穢れた目をした連中に。


 だから、少女は剣を取った。


 いつか父の仇を討つために。二度と、奪われる側でいないために。


 「威勢のいい嬢ちゃんだ」


 山賊の一人が、下卑た笑いを浮かべて踏み込んできた。


 少女は短剣で受け、片手剣で斬り返す。一人を退かせる。だが、すぐに横から二人目が来た。村の中では、少女は強いほうだった。同年代に剣で敵う者はいない。大人とも互角に渡り合える。


 だが、ここにいるのは戦い慣れた山賊だった。人を殺すことに慣れた者たちの、淀みのない殺気。村の物差しなど、外では何の意味も持たない。それを、少女は肌で思い知らされていた。


 それでも退けば、後ろの家に隠れた子供たちが見つかる。


 退けなかった。


 「っ……!」


 二人目の一撃を捌いた、その隙だった。三人目の蹴りが横腹に入る。体が泳ぎ、たたらを踏んだ。その一瞬を、敵は逃さなかった。剣を打ち下ろされ、受け切れずに片手剣が手から弾かれて宙を舞う。


 地に膝をついたところを、上から組み伏せられた。


 背に乗る重み。腕をねじり上げられ、短剣も取り落とす。頬が地面に押しつけられ、土の味が口に広がった。


 「手間をかけさせやがって」


 頭上で刃を抜く音がした。


 ああ、ここまでか、と少女は思った。


 奇妙なほど、頭は冷えていた。父が死んだとき、自分はまだ幼くて何もできなかった。今もまた、何もできない。せめて子供たちだけでも逃げてくれていればいい。最後に浮かんだのは、そんなことだった。


 目を閉じる。


 次の瞬間――頭上で濡れた音がした。


 重みが消えた。


 恐る恐る顔を上げた少女の目に、それが映った。


 血が空に舞っていた。自分を組み伏せていた山賊の体が、首から上を失って、ゆっくりと傾いでいく。そしてその向こうに、立っていた。


 異形の者だった。


 上半身は、人だった。いや、人などという言葉では足りない。絹のように艶めく長い銀の髪。血のように赤い双眸。陶器のごとく滑らかな白い肌。見たこともないほど整った、絶世の美女がそこにいた。


 だが、腰から下が違った。


 漆黒の鱗に覆われた、四足の胴。獅子を思わせる巨躯が、金属めいた光沢を放ちながら大地を踏みしめている。背から尾にかけて並ぶのは、黒曜石の棘。竜だ。人の美しさと、竜の異形が、一つの体に溶け合っていた。


 あまりに、美しかった。


 恐ろしいはずだった。化け物のはずだった。それなのに、少女はその姿から目を離せなかった。胸の奥を、得体の知れない何かが鷲掴みにする。畏れ。戦慄。そして、抗いがたい――見惚れ。


 異形は、倒れた山賊たちを赤い瞳でゆっくりと見渡した。


 残った男たちが、悲鳴じみた声を上げて得物を構える。だが、その手は震えていた。


 ラミフィオーレは片頬をわずかに上げた。


 「さて。片付けてやるとするか」



 それは戦いとは呼べなかった。


 一方的な蹂躙だった。


 ラミフィオーレが地を蹴ると、漆黒の巨躯が掻き消えるように疾った。次の瞬間には山賊の只中にいて、爪の一閃が三人をまとめて薙ぎ払う。悲鳴が上がる暇もない。胴を断たれた体が、何が起きたかも分からぬまま地に崩れ落ちた。


 残った男たちが、我に返って得物を構える。


 ラミフィオーレは、慌てなかった。一人の山賊へ、白く細い人差し指を、まるで道でも示すかのように、すいと向けた。


 ただ、それだけだった。


 次の刹那、指先の延長線上で、空気が白く灼けた。山賊の体が音もなく光に呑まれ――消えた。後に残ったのは、人の形をかろうじて留めた、ひとかたまりの黒い燃え滓だけ。それが、ぱらぱらと崩れて土に還る。


 時が止まったようだった。


 誰も何が起きたのか理解できなかった。剣も、魔法らしき詠唱も、何もなかった。ただ指を向けられただけで、一人の男が消し炭になった。


 その理不尽が、ようやく恐怖として山賊たちに染み渡ったとき、彼らは一斉に背を向けた。


 戦う、という選択肢は、もう誰の頭にもなかった。命だけを抱えて転がるように逃げ出す。


 ラミフィオーレはその背中を赤い瞳で見送った。


 逃がす理由がどこにもなかった。


 ふたたび漆黒の巨躯が疾る。逃げる男たちに追いつくのに、息を一つ吐くほどの間もいらなかった。背後から振るわれた爪の一薙ぎが、逃走者の体を肩から腰へ袈裟に断つ。たたらを踏んだもう一人を、返す爪が縦に両断した。地に倒れた者へは、太い前肢の一打を見舞う。


 逃げ切れた者は、一人もいなかった。


 刃を向けてきた最後の一人がいた。死に物狂いの一撃が、漆黒の鱗に吸い込まれ――刃のほうが、甲高い音を立てて砕け散った。男が呆然と折れた柄を見つめた、その上から、爪が振り下ろされた。


 少女は、地に座り込んだまま、それを見ていた。


 力の桁が、違った。


 自分が死力を尽くして抗い、それでも届かなかった山賊たちが、まるで路傍の石ころのように消されていく。藻掻くことも、命乞いをすることも許されない。指一本で人を灰に変え、逃げる背を一息で両断する。あれはもう、戦いという言葉の通じる相手ではなかった。


 外道には慈悲がなかった。彼女は淡々と、しかし容赦なく、村を襲った者たちを残らず屠っていく。


 その姿に、酷たらしさを誇る色はなかった。怒りに我を忘れた風もない。ただ、片付けるべきものを片付ける。それだけの、静かな苛烈さだった。


 最後の一人が地に伏したとき、あたりは静まり返っていた。


 風が血の匂いを運んでいく。


 異形は、ゆっくりと少女のほうへ向き直った。赤い瞳がまっすぐにこちらを見ている。少女の心臓が、跳ねた。


 助けてくれた。それは分かる。だが、この存在が次に自分をどうするのかは、まるで読めなかった。


 やがて、隠れていた村人たちが、一人、また一人と姿を現し始めた。焼けた家の陰から、伏せていた地面から。そして、目の前の光景を理解するにつれ、誰もが言葉を失っていった。


 山賊を皆殺しにした異形の化け物。


 村人たちは、引き寄せられるように、しかし怯えながら、ラミフィオーレの前へ集まってきた。逃げることもできず、ただその圧倒的な気配に、膝を屈していく。やがて誰からともなく、地に額をつけて平伏した。


 村の長らしき老人が、震える声を絞り出した。


 「お、お救い、いただき……まことに……」


 その先は、言葉にならなかった。



 ラミフィオーレは平伏する人間たちを見下ろした。


 助けてやった。ならば、礼をもらう番だ。


 「面を上げよ」


 低く、よく通る声だった。村人たちが、おずおずと顔を上げる。その顔には、感謝よりも恐怖のほうが色濃く張りついていた。


 それでよい、とラミフィオーレは思った。畏れられるのは悪くない。話が早い。


 「我はお前たちを助けてやった。当然、その恩には報いてもらわねばな」


 村人たちが息を呑む。


 「とりあえず、食い物だ」


 一拍おいて、ラミフィオーレは続けた。


 「この貧相な集落で、贅を凝らした料理は期待しておらぬ。お主らが用意できる中で、最高の食事を持ってこい」


 言いながら、焼け落ちた家々を見やる。畑は踏み荒らされ、蓄えも大半が奪われたか焼かれたかしたのだろう。今すぐ最上のものを、というのは酷というものだ。


 「――集落はこの有様だ。明日まで待ってやる」


 それだけ告げると、ラミフィオーレは身を翻した。


 漆黒の巨躯が、ゆっくりと集落を離れていく。村のはずれの大樹の下まで来ると、その根方に悠然と身を横たえた。腹は減ったままだが、明日には満たされる。それまで、ひと眠りでもしていよう。


 恐ろしい異形が要求したのが「うまい飯」だとは、平伏した村人たちは思いもしないだろう。だが、ラミフィオーレにとっては至極当然の話だった。腹が減った。だから飯を食う。それ以上でも以下でもない。


 赤い瞳がゆっくりと閉じられた。



 異形が去ったあと、集落には重い沈黙が残された。


 生き残った村人たちが、長の家に集まっていた。誰の顔も青ざめている。山賊から救われたという安堵は、どこにもなかった。代わりに、もっと得体の知れない恐怖が、その場を覆っていた。


 「最高の食事を持ってこい、と……あの化け物は、そう言った」


 長が、掠れた声で呟いた。


 「最高のもてなし、だ。あの姿を見たか。あんなものが、芋や麦で満足するものか」


 誰かが、震える声で言った。その言葉が、皆の胸に最も恐ろしい想像を呼び起こした。


 人を喰らう化け物。


 あの異形が求める「最高のごちそう」とは――生贄ではないのか。


 一度そう思い至ると、もう誰もその考えを振り払えなかった。あの恐ろしい姿。山賊を虫けらのように屠った力。そして、明日までに最高のものを差し出せという要求。すべてが、その解釈へと雪崩れていった。


 「だ、誰を……差し出すというのだ」


 重い問いが、場に落ちた。


 誰も答えられなかった。


 差し出せる者がいないわけではなかった。年頃の娘も、村には残っている。だが、誰がその名を口にできるだろう。我が娘を、隣家の娘を、化け物の餌に差し出せと――そんな言葉を、誰一人として持ち合わせていなかった。


 かといって、まだ年端もいかぬ子供を差し出すなど、できようはずもない。


 重い沈黙が、その場を押し潰していた。村人たちは互いに目を逸らし合い、誰も先を口にできなかった。誰かが名乗り出ることを心のどこかで待ちながら、その誰かに自分がなる勇気だけは、誰も持てずにいた。助かった命の数だけ、新たな苦悩がそこにあった。


 その時だった。


 「――あたしが、行きます」


 戸口に、あの冒険者の少女が立っていた。


 手当てを受けた頬に布を当て、それでも、その黒い瞳はまっすぐだった。村人たちが一斉に振り返る。


 「お前、何を……」


 「あたしが、生贄になります」


 もう一度、はっきりと、少女は言った。


 言葉にしなかったが、胸の中には三つの想いがあった。


 一つは、恩。あの異形は、間違いなく自分の命を救った。組み伏せられ、もう終わりだと目を閉じた、あの瞬間に。その恩を返さずに、子供を身代わりにすることなど、できはしない。


 一つは、矜持。誰も名乗り出られずにいるのなら、剣を取った自分が行く。誰かが身代わりに怯える姿を、黙って見ていることなどできない。弱い者を守れずに、何のための剣か。父なら、きっとそうした。


 そしてもう一つ――自分でも、うまく言葉にできない想い。


 あの異形の姿が、瞼の裏に焼きついて離れなかった。恐ろしいはずなのに、目を離せなかった、あの美しさ。畏れと、戦慄と、その奥にある、説明のつかない引力。あれに引き寄せられている自分が確かにいた。


 「……あたしには、もう守るべき家族もいません。剣を取ったときから、覚悟はできています」


 少女は、静かに言った。


 長は、何度も口を開きかけ、そのたびに言葉を失った。最後には、ただ深く頭を垂れることしかできなかった。許しを請うように。詫びるように。



 翌朝。


 空は残酷なほどに晴れていた。


 少女は村のはずれに一人で立っていた。父の形見の剣は、村に残してきた。供物に武器はいらない。手入れだけは済ませ、いつか誰かが使えるように、と。


 別れは昨夜のうちに済ませていた。世話になった人々に頭を下げ、子供たちの頭を撫で、もう振り返らないと決めた。


 大樹の下にあの異形が眠っているのが遠くに見える。


 あれに自分は喰われるのだろう。どんなふうに喰われるのかは、考えないようにした。考えたところで、変わることは何もない。


 恐ろしくないと言えば、嘘になる。膝は、さっきから小さく震えていた。


 それでも、少女は一歩を踏み出した。


 助けられた命だ。ならば、誰かのために使いたい。それに――心の片隅で、あの美しい異形に、もう一度近づけることを、わずかに望んでいる自分がいた。その想いの正体は、まだ分からなかった。


 朝の光の中を、少女は大樹へ向かって歩いていく。


 喰われる覚悟を決めた供物として、ただ一人、その時を待つために。

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