第一話 静淵、地に降りる
通路を抜けた先に世界があった。
ラミフィオーレは、しばし足を止めてそれを眺めた。
空が青い。どこまでも高く、どこまでも遠く、淡い青が頭上を覆っている。白い雲がいくつも浮かび、形を変えながらゆっくりと流れていく。足元には緑が広がっていた。風が草を波立たせ、その匂いが胸の奥まで届く。土の匂い。生きているものの匂い。光が肌に温かい。
地の底の闇とは、何もかもが違っていた。
「……我は、知っている」
呟いてから、ラミフィオーレは小さく眉を寄せた。
初めて見る景色のはずだった。記憶を探っても、この空も、この草原も、どこにも引っかからない。それなのに、胸の奥のどこかが、確かにこの景色を懐かしがっていた。帰ってきた、とでも言うような淡い手応え。
誰かがここで自分を待っていたような、あるいは自分が誰かをここで待っていたような。形にならない何かが、胸の底でほんの一瞬だけ揺れてすぐに沈んだ。
「腑に落ちぬな」
いつものように呟いて、ラミフィオーレはそれ以上深追いしなかった。掴もうとすれば逃げる。逃げるものを追っても仕方がない。
風が銀の髪を撫でていった。
漆黒の四肢で草を踏みしめ、ラミフィオーレは歩き出した。行く先など決めていない。決める材料もない。ならば真っ直ぐ進めばいい。どこかには着くだろう。着いたところで何かが始まる。
空の下を悠然と歩いた。
草原はどこまでも続いていた。低い丘を越え、小川を渉り、また丘を越える。日が高く昇り、やがて少しずつ傾き始める。景色はゆるやかに移ろっていくが、人の姿はどこにもない。
半日ほど歩いたころ、ラミフィオーレはふと足を止めた。
「……何か、腹が減ってきたぞ」
腹の底が静かに満たされることを求めていた。空腹だ。覚えのある感覚だった。
目覚めてから何も口にしていない。考えてみれば当然だった。生きているものは食わねばならぬ。それは命あるものとして、魂の底から疑いようもなく分かる理屈だった。
さて、何を食うか。
あたりを見回しても、草と空ばかりだ。その辺の草を食む趣味はない。
その時、遠くに目を留めた。
地平の彼方、丘の向こうから細い煙がいくつも立ち昇っている。火の煙だ。火を使うものがいる。
「人間の住む町でもあるのか」
ラミフィオーレは煙のほうへ向きを変えた。人がいるなら、食い物もあるだろう。
空腹を抱えた最強の竜は、のっそりと丘を下りていった。
◇
丘を越えると煙の正体が見えてきた。
小さな集落だった。十数軒ばかりの粗末な家が身を寄せ合うように建ち、畑が周囲に広がっている。だが、のどかな景色ではなかった。
煙は竈のものではない。家が焼かれていた。
ラミフィオーレは丘の中腹で足を止め、それを見下ろした。
集落の中を武装した男たちが我が物顔で歩き回っている。家々から物を運び出し、抵抗する者を殴り倒し、女子供を追い立てている。山賊だ。粗末な防具に不揃いな得物。だが集落の側に、それに抗えるだけの力はないらしかった。
逃げ惑う者がいる。地に伏して動かぬ者がいる。泣き叫ぶ声が、風に乗って丘の上まで届いてくる。
弱者が食い物にされていた。
ラミフィオーレはそれを冷めた目で眺めた。
この世は弱肉強食だ。強き者が弱き者を喰らう。弱ければ淘汰される。それが理であり、嘆くべきことでも、怒るべきことでもない。草が虫に食われ、虫が鳥に食われるのと何も変わらぬ。あの男たちは強く、あの集落の者は弱い。ただ、それだけのことだ。
理屈の上ではそうだった。
それなのに、ラミフィオーレは丘を下り始めていた。
「あれを助け、礼に食い物を貢がせる」
口に出してみると、なかなか具合のいい考えに思えた。腹は減っている。集落には食い物がある。助けてやれば、その礼を取る大義名分も立つ。実に理にかなっている。
うむ、これで行こう、と一人で頷いた。
なぜわざわざ助けるのか、淘汰されるに任せればよいではないか――という問いは、不思議と浮かんでこなかった。あの光景を見たとき、胸の底が静かに波立った。その感覚に、ただ従っていた。
利己の口実の下で、本人すら気づかぬ何かが確かに動いていた。
ラミフィオーレは略奪の場へと、ゆっくり歩を進めた。
◇
冒険者の少女は剣を握り直した。
手のひらは汗で滑り、息は上がりきっている。栗色の髪は乱れ、頬には土と血の筋が走っていた。それでも、足は退かなかった。
目の前に、三人の山賊がいる。
右手に父の形見の片手剣、左手に短剣。父に仕込まれた構えだった。元冒険者だった父はこの村でただ一人、剣の何たるかを知る男だった。その父が、数年前に山賊に殺された。今、目の前で笑っている男たちと、同じ穢れた目をした連中に。
だから、少女は剣を取った。
いつか父の仇を討つために。二度と、奪われる側でいないために。
「威勢のいい嬢ちゃんだ」
山賊の一人が、下卑た笑いを浮かべて踏み込んできた。
少女は短剣で受け、片手剣で斬り返す。一人を退かせる。だが、すぐに横から二人目が来た。村の中では、少女は強いほうだった。同年代に剣で敵う者はいない。大人とも互角に渡り合える。
だが、ここにいるのは戦い慣れた山賊だった。人を殺すことに慣れた者たちの、淀みのない殺気。村の物差しなど、外では何の意味も持たない。それを、少女は肌で思い知らされていた。
それでも退けば、後ろの家に隠れた子供たちが見つかる。
退けなかった。
「っ……!」
二人目の一撃を捌いた、その隙だった。三人目の蹴りが横腹に入る。体が泳ぎ、たたらを踏んだ。その一瞬を、敵は逃さなかった。剣を打ち下ろされ、受け切れずに片手剣が手から弾かれて宙を舞う。
地に膝をついたところを、上から組み伏せられた。
背に乗る重み。腕をねじり上げられ、短剣も取り落とす。頬が地面に押しつけられ、土の味が口に広がった。
「手間をかけさせやがって」
頭上で刃を抜く音がした。
ああ、ここまでか、と少女は思った。
奇妙なほど、頭は冷えていた。父が死んだとき、自分はまだ幼くて何もできなかった。今もまた、何もできない。せめて子供たちだけでも逃げてくれていればいい。最後に浮かんだのは、そんなことだった。
目を閉じる。
次の瞬間――頭上で濡れた音がした。
重みが消えた。
恐る恐る顔を上げた少女の目に、それが映った。
血が空に舞っていた。自分を組み伏せていた山賊の体が、首から上を失って、ゆっくりと傾いでいく。そしてその向こうに、立っていた。
異形の者だった。
上半身は、人だった。いや、人などという言葉では足りない。絹のように艶めく長い銀の髪。血のように赤い双眸。陶器のごとく滑らかな白い肌。見たこともないほど整った、絶世の美女がそこにいた。
だが、腰から下が違った。
漆黒の鱗に覆われた、四足の胴。獅子を思わせる巨躯が、金属めいた光沢を放ちながら大地を踏みしめている。背から尾にかけて並ぶのは、黒曜石の棘。竜だ。人の美しさと、竜の異形が、一つの体に溶け合っていた。
あまりに、美しかった。
恐ろしいはずだった。化け物のはずだった。それなのに、少女はその姿から目を離せなかった。胸の奥を、得体の知れない何かが鷲掴みにする。畏れ。戦慄。そして、抗いがたい――見惚れ。
異形は、倒れた山賊たちを赤い瞳でゆっくりと見渡した。
残った男たちが、悲鳴じみた声を上げて得物を構える。だが、その手は震えていた。
ラミフィオーレは片頬をわずかに上げた。
「さて。片付けてやるとするか」
◇
それは戦いとは呼べなかった。
一方的な蹂躙だった。
ラミフィオーレが地を蹴ると、漆黒の巨躯が掻き消えるように疾った。次の瞬間には山賊の只中にいて、爪の一閃が三人をまとめて薙ぎ払う。悲鳴が上がる暇もない。胴を断たれた体が、何が起きたかも分からぬまま地に崩れ落ちた。
残った男たちが、我に返って得物を構える。
ラミフィオーレは、慌てなかった。一人の山賊へ、白く細い人差し指を、まるで道でも示すかのように、すいと向けた。
ただ、それだけだった。
次の刹那、指先の延長線上で、空気が白く灼けた。山賊の体が音もなく光に呑まれ――消えた。後に残ったのは、人の形をかろうじて留めた、ひとかたまりの黒い燃え滓だけ。それが、ぱらぱらと崩れて土に還る。
時が止まったようだった。
誰も何が起きたのか理解できなかった。剣も、魔法らしき詠唱も、何もなかった。ただ指を向けられただけで、一人の男が消し炭になった。
その理不尽が、ようやく恐怖として山賊たちに染み渡ったとき、彼らは一斉に背を向けた。
戦う、という選択肢は、もう誰の頭にもなかった。命だけを抱えて転がるように逃げ出す。
ラミフィオーレはその背中を赤い瞳で見送った。
逃がす理由がどこにもなかった。
ふたたび漆黒の巨躯が疾る。逃げる男たちに追いつくのに、息を一つ吐くほどの間もいらなかった。背後から振るわれた爪の一薙ぎが、逃走者の体を肩から腰へ袈裟に断つ。たたらを踏んだもう一人を、返す爪が縦に両断した。地に倒れた者へは、太い前肢の一打を見舞う。
逃げ切れた者は、一人もいなかった。
刃を向けてきた最後の一人がいた。死に物狂いの一撃が、漆黒の鱗に吸い込まれ――刃のほうが、甲高い音を立てて砕け散った。男が呆然と折れた柄を見つめた、その上から、爪が振り下ろされた。
少女は、地に座り込んだまま、それを見ていた。
力の桁が、違った。
自分が死力を尽くして抗い、それでも届かなかった山賊たちが、まるで路傍の石ころのように消されていく。藻掻くことも、命乞いをすることも許されない。指一本で人を灰に変え、逃げる背を一息で両断する。あれはもう、戦いという言葉の通じる相手ではなかった。
外道には慈悲がなかった。彼女は淡々と、しかし容赦なく、村を襲った者たちを残らず屠っていく。
その姿に、酷たらしさを誇る色はなかった。怒りに我を忘れた風もない。ただ、片付けるべきものを片付ける。それだけの、静かな苛烈さだった。
最後の一人が地に伏したとき、あたりは静まり返っていた。
風が血の匂いを運んでいく。
異形は、ゆっくりと少女のほうへ向き直った。赤い瞳がまっすぐにこちらを見ている。少女の心臓が、跳ねた。
助けてくれた。それは分かる。だが、この存在が次に自分をどうするのかは、まるで読めなかった。
やがて、隠れていた村人たちが、一人、また一人と姿を現し始めた。焼けた家の陰から、伏せていた地面から。そして、目の前の光景を理解するにつれ、誰もが言葉を失っていった。
山賊を皆殺しにした異形の化け物。
村人たちは、引き寄せられるように、しかし怯えながら、ラミフィオーレの前へ集まってきた。逃げることもできず、ただその圧倒的な気配に、膝を屈していく。やがて誰からともなく、地に額をつけて平伏した。
村の長らしき老人が、震える声を絞り出した。
「お、お救い、いただき……まことに……」
その先は、言葉にならなかった。
◇
ラミフィオーレは平伏する人間たちを見下ろした。
助けてやった。ならば、礼をもらう番だ。
「面を上げよ」
低く、よく通る声だった。村人たちが、おずおずと顔を上げる。その顔には、感謝よりも恐怖のほうが色濃く張りついていた。
それでよい、とラミフィオーレは思った。畏れられるのは悪くない。話が早い。
「我はお前たちを助けてやった。当然、その恩には報いてもらわねばな」
村人たちが息を呑む。
「とりあえず、食い物だ」
一拍おいて、ラミフィオーレは続けた。
「この貧相な集落で、贅を凝らした料理は期待しておらぬ。お主らが用意できる中で、最高の食事を持ってこい」
言いながら、焼け落ちた家々を見やる。畑は踏み荒らされ、蓄えも大半が奪われたか焼かれたかしたのだろう。今すぐ最上のものを、というのは酷というものだ。
「――集落はこの有様だ。明日まで待ってやる」
それだけ告げると、ラミフィオーレは身を翻した。
漆黒の巨躯が、ゆっくりと集落を離れていく。村のはずれの大樹の下まで来ると、その根方に悠然と身を横たえた。腹は減ったままだが、明日には満たされる。それまで、ひと眠りでもしていよう。
恐ろしい異形が要求したのが「うまい飯」だとは、平伏した村人たちは思いもしないだろう。だが、ラミフィオーレにとっては至極当然の話だった。腹が減った。だから飯を食う。それ以上でも以下でもない。
赤い瞳がゆっくりと閉じられた。
◇
異形が去ったあと、集落には重い沈黙が残された。
生き残った村人たちが、長の家に集まっていた。誰の顔も青ざめている。山賊から救われたという安堵は、どこにもなかった。代わりに、もっと得体の知れない恐怖が、その場を覆っていた。
「最高の食事を持ってこい、と……あの化け物は、そう言った」
長が、掠れた声で呟いた。
「最高のもてなし、だ。あの姿を見たか。あんなものが、芋や麦で満足するものか」
誰かが、震える声で言った。その言葉が、皆の胸に最も恐ろしい想像を呼び起こした。
人を喰らう化け物。
あの異形が求める「最高のごちそう」とは――生贄ではないのか。
一度そう思い至ると、もう誰もその考えを振り払えなかった。あの恐ろしい姿。山賊を虫けらのように屠った力。そして、明日までに最高のものを差し出せという要求。すべてが、その解釈へと雪崩れていった。
「だ、誰を……差し出すというのだ」
重い問いが、場に落ちた。
誰も答えられなかった。
差し出せる者がいないわけではなかった。年頃の娘も、村には残っている。だが、誰がその名を口にできるだろう。我が娘を、隣家の娘を、化け物の餌に差し出せと――そんな言葉を、誰一人として持ち合わせていなかった。
かといって、まだ年端もいかぬ子供を差し出すなど、できようはずもない。
重い沈黙が、その場を押し潰していた。村人たちは互いに目を逸らし合い、誰も先を口にできなかった。誰かが名乗り出ることを心のどこかで待ちながら、その誰かに自分がなる勇気だけは、誰も持てずにいた。助かった命の数だけ、新たな苦悩がそこにあった。
その時だった。
「――あたしが、行きます」
戸口に、あの冒険者の少女が立っていた。
手当てを受けた頬に布を当て、それでも、その黒い瞳はまっすぐだった。村人たちが一斉に振り返る。
「お前、何を……」
「あたしが、生贄になります」
もう一度、はっきりと、少女は言った。
言葉にしなかったが、胸の中には三つの想いがあった。
一つは、恩。あの異形は、間違いなく自分の命を救った。組み伏せられ、もう終わりだと目を閉じた、あの瞬間に。その恩を返さずに、子供を身代わりにすることなど、できはしない。
一つは、矜持。誰も名乗り出られずにいるのなら、剣を取った自分が行く。誰かが身代わりに怯える姿を、黙って見ていることなどできない。弱い者を守れずに、何のための剣か。父なら、きっとそうした。
そしてもう一つ――自分でも、うまく言葉にできない想い。
あの異形の姿が、瞼の裏に焼きついて離れなかった。恐ろしいはずなのに、目を離せなかった、あの美しさ。畏れと、戦慄と、その奥にある、説明のつかない引力。あれに引き寄せられている自分が確かにいた。
「……あたしには、もう守るべき家族もいません。剣を取ったときから、覚悟はできています」
少女は、静かに言った。
長は、何度も口を開きかけ、そのたびに言葉を失った。最後には、ただ深く頭を垂れることしかできなかった。許しを請うように。詫びるように。
◇
翌朝。
空は残酷なほどに晴れていた。
少女は村のはずれに一人で立っていた。父の形見の剣は、村に残してきた。供物に武器はいらない。手入れだけは済ませ、いつか誰かが使えるように、と。
別れは昨夜のうちに済ませていた。世話になった人々に頭を下げ、子供たちの頭を撫で、もう振り返らないと決めた。
大樹の下にあの異形が眠っているのが遠くに見える。
あれに自分は喰われるのだろう。どんなふうに喰われるのかは、考えないようにした。考えたところで、変わることは何もない。
恐ろしくないと言えば、嘘になる。膝は、さっきから小さく震えていた。
それでも、少女は一歩を踏み出した。
助けられた命だ。ならば、誰かのために使いたい。それに――心の片隅で、あの美しい異形に、もう一度近づけることを、わずかに望んでいる自分がいた。その想いの正体は、まだ分からなかった。
朝の光の中を、少女は大樹へ向かって歩いていく。
喰われる覚悟を決めた供物として、ただ一人、その時を待つために。




