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静淵の竜は、世界を視る  作者: しぇくしーふっふー


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1/7

プロローグ 目覚め

 闇だった。


 底のない冷たい闇。


 石の匂いがした。長い年月をかけて積み重なった黴の香りが、空気そのものに染みついている。水の滴る音もない。虫の鳴く声もない。遠くで何かが軋む音すらない。あるのはただ、静寂だけだった。


 その中心に、光があった。


 淡く脈打つように明滅する白い光。繭のような形をしたそれは、朽ちかけた石造りの祭壇の上に鎮座していた。祭壇を縁取る彫刻はとうの昔に欠け落ち、表面を覆う苔が何百年分もの沈黙を物語っている。光だけが生きていた。ほかのすべてが死んでいる中で、その光だけがまるで心臓のように静かに拍動していた。


 やがて亀裂が走った。


 音もなく。ただ光が一瞬強くなったかと思うと、繭の表面に細い線が走り、枝分かれし、広がり、そして――砕けた。


 白い欠片が石畳に散る。光が溢れ、闇を塗り替え、それから静かに収まっていく。


 残ったのは一つの存在だった。



 最初に感じたのは、重さだった。


 自分の体の重さ。石の床の冷たさ。肌に触れる空気の湿度。それらがゆっくりと、順番に、意識の中へ流れ込んでくる。


 それは目を開いた。


 高い石の天井が見えた。松明一本灯っていないというのに、なぜか輪郭がぼんやりと浮かんで見える。目が闇に慣れているのか、別の何かがそうさせているのか。どちらでもよかった。


 体を起こす。四肢が言うことを聞く。それで十分だった。


 ここはどこだ。


 問いは浮かんだが、心は波立たなかった。知らない場所にいる。それがどうした、という気分だった。知る必要が出てくれば、その時に知ればいい。


 次にもっと大きな問いが来た。


 我は誰だ?


 その問いにはしばらく向き合った。


 過去へ手を伸ばす。霧のように、煙のように、触れようとすると形を失って消えていく。昨日のことも、去年のことも、もっと前のことも、何ひとつ手応えがない。


 ただ、一つだけ残っていた。


 ラミフィオーレ。


 それが己の名であることは、理由もなく確信できた。証明できるわけではない。骨の髄に、魂の底に、その音の連なりだけが刻みつけられるように残っていた。


 「ラミフィオーレ……か」


 声に出してみる。低く、落ち着いた自分の声が石の壁に反響して消えていった。


 名はある。それで足りる、とラミフィオーレは立ち上がった。



 祭壇から降りながら、自分の体を確かめた。


 まず手。指が五本。陶器のように滑らかな白い肌に、傷ひとつない。腕は細いが、動かすと内側に確かな力が宿っている。


 銀色の髪が一房、視界に垂れてきた。つまんで持ち上げると、絹のような感触が指を滑った。光の乏しいこの場所でも、わずかに輝きを帯びている。腰よりも下まで伸びるほど長い。


 視線を下げる。


 石畳を踏みしめているのは、二本の足ではなかった。腰から下を支えるのは、鱗に覆われた四肢。漆黒の鱗は金属のような光沢を放ち、獅子を思わせる筋肉質な胴が床に重く根を下ろしている。背から尾にかけて黒曜石の棘が並び、腹部では大きな口が今は閉じて眠っていた。腰のあたりで人間の肌が滑らかに鱗へと移ろっていく様は、見ようによっては芸術的でさえあった。


 ラミフィオーレはそれを一通り眺め、視線を戻した。


 胸は静かなままだった。これが我だ。それ以上でも以下でもない。驚く理由が、どこにも見当たらなかった。


 磨かれた祭壇の石面が、繭の名残の光を映している。そこに上半身が映り込んでいた。赤い瞳。整った顔立ち。人形めいた、それでいてどこか人の域を外れた美貌が、ひっそりとこちらを見返してくる。


 「ふむ」


 ラミフィオーレはそれだけ言った。感嘆でも自賛でもない、ただの確認だった。



 己に過去がない。その事実を改めて認識する。


 ここに来た経緯も、経った時間も、何者であるかも、空白だ。残っているのは名ひとつ。


 困ったことか、と問うてみる。


 しばらく考えて、そうでもないな、と結論した。


 失われたものは戻らない。嘆いて戻るなら嘆くが、戻りはしない。ならば嘆くだけ無駄だ。いずれ甦るならよし、甦らぬならそれもよし。どちらに転んでも、これから何をするかとは別の話だった。


 「まず外に出るか」


 誰にともなく、ラミフィオーレはそう決めた。


 ここに留まっても何も始まらない。外へ出れば、何かは始まる。理屈は単純だった。


 間を出る前に、もう一度だけ部屋を見渡す。


 祭壇の形、彫刻の欠片、天井まで届く石柱。何かを守るために誂えられた場所に見えた。だがその守られていたものは、もう目を覚まして立っている。であれば、この場所はとうに役目を終えていた。


 ラミフィオーレは出口へ向かった。



 間を抜けると通路が続いていた。


 光源は見当たらないのに、ここにも薄明かりがある。石壁に何かが燐光を帯びて埋まっているのか、それとも――考えかけて、足を進めた。


 歩きながら、ひとつのことに気づく。


 ここがダンジョンだと、己は知っている。


 その言葉がどこから来たのかは見当もつかない。だが疑いようがなかった。人の手で掘られた地下迷宮。幾層も重なって地の底へ潜っていく構造。そして自分が立っているのは、その最も深い場所だ。構造も、空気の流れも、触れる前から手の内にあるように分かる。


 知るはずのないことを、知っている。


 「……腑に落ちぬな」


 呟きはしたが、足は止めなかった。答えの出ぬ問いは後回しでいい。今は進むときだ。


 通路を曲がったところで、ラミフィオーレは足を止めた。


 いた。


 闇の中に、いくつもの目が光っている。一対、二対、数えるそばから増えていく。通路の両壁に沿って、影のような巨躯が立ち並んでいた。どれも人間を一回り超える大きさだ。


 魔物――その名もまた、考える前に内に浮かんでいた。


 しかし影たちは、牙を剥かなかった。


 むしろ逆だった。両側の影が静かに、確実に退いていく。ずらりと並んだ列が左右へ割れ、中央に一本の道が通った。そして影たちは揃って頭を垂れた。


 ラミフィオーレはしばらくそれを眺めた。


 なぜ魔物が道を譲り、頭を下げるのか。問いは浮かんだ。


 だが答えよりも先に、言葉のほうが滑り出ていた。記憶からではなく、もっと深いところから滲むように。


 「ご苦労だった」


 己の口から出た声に、ラミフィオーレ自身が小さく目を見張った。頭を垂れた影たちへ、ねぎらうように告げていた。理由は手元にない。こいつらの名も、共に過ごした時も、何も思い当たらない。それでも、そう言いたかった。言わねばならぬ気がした。


 影たちは、いっそう深く頭を垂れた。


 その姿に、胸の奥で何かがほのかに灯る。温かいとまでは言えない。だが冷たくもない。名づけようとして、ふさわしい言葉が見つからなかった。


 ラミフィオーレは小さく首を振り、影たちの間を歩き出した。


 通路を抜け、また曲がり、また進む。行く先々で、同じことが繰り返された。魔物が現れ、道を開け、頭を垂れる。大きいものも小さいものも、人に近いものも獣めいたものも、変わらない。そのたびに胸の奥のあの感触がよみがえった。長く、律儀に、何かを守り続けてきた者たちへ向けたい――ねぎらいに似た、何か。


 よみがえるのに、出どころだけがどうしても掴めない。


 腑に落ちぬことばかりだ、とラミフィオーレは口の端をわずかに緩めた。



 上へ向かっている、という確信があった。


 分かれ道に出るたび、足がひとりでに登りのほうを選ぶ。地図があるわけでも、誰かに教わったわけでもない。体が、向かうべき方角をすでに知っていた。


 外へ出たいのか、と己に問えば、答えはあやふやだった。


 ここに留まるのも厭わない。さりとて、焦がれるような渇望があるわけでもない。ただ、惹かれる。上へ、外へ。何かがそちらにある。何があるのかは見えないまま、糸を引かれるように惹かれていく。


 それだけだった。


 通路がゆるやかな登りに変わってきた。空気が動いている。底の乾いた冷たさとは違う、湿り気を帯びた匂い。石ではない。土の匂いだった。


 ずいぶん長く眠っていたのだろう、という気がした。証はないが、そんな気がする。長く、深く眠り、そして今、覚めた。


 過去は霧のままでいい。失われたものは仕方あるまい。甦るなら甦るし、甦らぬならそれまでだ。今その手にあるのは、この体と、この名と、腑に落ちぬまま備わった知識と、外へと向かう足――それで足りた。



 光が見えた。


 通路の先、曲がり角の向こうから、淡い光が差し込んでいる。魔物の目の光とも、石の燐光とも違う。もっと温かく、もっと広い。


 ラミフィオーレは歩を速めた。


 匂いが移ろう。土。草。生きているものの息吹。湿った葉の香りが鼻先をくすぐった。風だ。外から吹き込む風が、通路の奥まで届いている。


 出口が近い。今度はその感覚を、咎めずに受け入れた。


 曲がり角を抜けると、通路が一気に開けた。天井が高く退き、両脇に大きな石柱が立つ。その先に闇はなく、ただ外の光が満ちていた。


 ラミフィオーレは立ち止まり、それを眺めた。


 何が待つのかは見えない。どんな世界なのかも、自分が何者なのかも、まだ霧の向こうだ。


 しかし、それでいい。知らぬなら、これから知ればいいだけのこと。


 「外に出てみるか」


 呟いて、一歩を踏み出す。


 光の中へ。外の空気の中へ。


 土と緑の匂いが、胸いっぱいに流れ込んだ。


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