プロローグ 目覚め
闇だった。
底のない冷たい闇。
石の匂いがした。長い年月をかけて積み重なった黴の香りが、空気そのものに染みついている。水の滴る音もない。虫の鳴く声もない。遠くで何かが軋む音すらない。あるのはただ、静寂だけだった。
その中心に、光があった。
淡く脈打つように明滅する白い光。繭のような形をしたそれは、朽ちかけた石造りの祭壇の上に鎮座していた。祭壇を縁取る彫刻はとうの昔に欠け落ち、表面を覆う苔が何百年分もの沈黙を物語っている。光だけが生きていた。ほかのすべてが死んでいる中で、その光だけがまるで心臓のように静かに拍動していた。
やがて亀裂が走った。
音もなく。ただ光が一瞬強くなったかと思うと、繭の表面に細い線が走り、枝分かれし、広がり、そして――砕けた。
白い欠片が石畳に散る。光が溢れ、闇を塗り替え、それから静かに収まっていく。
残ったのは一つの存在だった。
最初に感じたのは、重さだった。
自分の体の重さ。石の床の冷たさ。肌に触れる空気の湿度。それらがゆっくりと、順番に、意識の中へ流れ込んでくる。
それは目を開いた。
高い石の天井が見えた。松明一本灯っていないというのに、なぜか輪郭がぼんやりと浮かんで見える。目が闇に慣れているのか、別の何かがそうさせているのか。どちらでもよかった。
体を起こす。四肢が言うことを聞く。それで十分だった。
ここはどこだ。
問いは浮かんだが、心は波立たなかった。知らない場所にいる。それがどうした、という気分だった。知る必要が出てくれば、その時に知ればいい。
次にもっと大きな問いが来た。
我は誰だ?
その問いにはしばらく向き合った。
過去へ手を伸ばす。霧のように、煙のように、触れようとすると形を失って消えていく。昨日のことも、去年のことも、もっと前のことも、何ひとつ手応えがない。
ただ、一つだけ残っていた。
ラミフィオーレ。
それが己の名であることは、理由もなく確信できた。証明できるわけではない。骨の髄に、魂の底に、その音の連なりだけが刻みつけられるように残っていた。
「ラミフィオーレ……か」
声に出してみる。低く、落ち着いた自分の声が石の壁に反響して消えていった。
名はある。それで足りる、とラミフィオーレは立ち上がった。
祭壇から降りながら、自分の体を確かめた。
まず手。指が五本。陶器のように滑らかな白い肌に、傷ひとつない。腕は細いが、動かすと内側に確かな力が宿っている。
銀色の髪が一房、視界に垂れてきた。つまんで持ち上げると、絹のような感触が指を滑った。光の乏しいこの場所でも、わずかに輝きを帯びている。腰よりも下まで伸びるほど長い。
視線を下げる。
石畳を踏みしめているのは、二本の足ではなかった。腰から下を支えるのは、鱗に覆われた四肢。漆黒の鱗は金属のような光沢を放ち、獅子を思わせる筋肉質な胴が床に重く根を下ろしている。背から尾にかけて黒曜石の棘が並び、腹部では大きな口が今は閉じて眠っていた。腰のあたりで人間の肌が滑らかに鱗へと移ろっていく様は、見ようによっては芸術的でさえあった。
ラミフィオーレはそれを一通り眺め、視線を戻した。
胸は静かなままだった。これが我だ。それ以上でも以下でもない。驚く理由が、どこにも見当たらなかった。
磨かれた祭壇の石面が、繭の名残の光を映している。そこに上半身が映り込んでいた。赤い瞳。整った顔立ち。人形めいた、それでいてどこか人の域を外れた美貌が、ひっそりとこちらを見返してくる。
「ふむ」
ラミフィオーレはそれだけ言った。感嘆でも自賛でもない、ただの確認だった。
己に過去がない。その事実を改めて認識する。
ここに来た経緯も、経った時間も、何者であるかも、空白だ。残っているのは名ひとつ。
困ったことか、と問うてみる。
しばらく考えて、そうでもないな、と結論した。
失われたものは戻らない。嘆いて戻るなら嘆くが、戻りはしない。ならば嘆くだけ無駄だ。いずれ甦るならよし、甦らぬならそれもよし。どちらに転んでも、これから何をするかとは別の話だった。
「まず外に出るか」
誰にともなく、ラミフィオーレはそう決めた。
ここに留まっても何も始まらない。外へ出れば、何かは始まる。理屈は単純だった。
間を出る前に、もう一度だけ部屋を見渡す。
祭壇の形、彫刻の欠片、天井まで届く石柱。何かを守るために誂えられた場所に見えた。だがその守られていたものは、もう目を覚まして立っている。であれば、この場所はとうに役目を終えていた。
ラミフィオーレは出口へ向かった。
間を抜けると通路が続いていた。
光源は見当たらないのに、ここにも薄明かりがある。石壁に何かが燐光を帯びて埋まっているのか、それとも――考えかけて、足を進めた。
歩きながら、ひとつのことに気づく。
ここがダンジョンだと、己は知っている。
その言葉がどこから来たのかは見当もつかない。だが疑いようがなかった。人の手で掘られた地下迷宮。幾層も重なって地の底へ潜っていく構造。そして自分が立っているのは、その最も深い場所だ。構造も、空気の流れも、触れる前から手の内にあるように分かる。
知るはずのないことを、知っている。
「……腑に落ちぬな」
呟きはしたが、足は止めなかった。答えの出ぬ問いは後回しでいい。今は進むときだ。
通路を曲がったところで、ラミフィオーレは足を止めた。
いた。
闇の中に、いくつもの目が光っている。一対、二対、数えるそばから増えていく。通路の両壁に沿って、影のような巨躯が立ち並んでいた。どれも人間を一回り超える大きさだ。
魔物――その名もまた、考える前に内に浮かんでいた。
しかし影たちは、牙を剥かなかった。
むしろ逆だった。両側の影が静かに、確実に退いていく。ずらりと並んだ列が左右へ割れ、中央に一本の道が通った。そして影たちは揃って頭を垂れた。
ラミフィオーレはしばらくそれを眺めた。
なぜ魔物が道を譲り、頭を下げるのか。問いは浮かんだ。
だが答えよりも先に、言葉のほうが滑り出ていた。記憶からではなく、もっと深いところから滲むように。
「ご苦労だった」
己の口から出た声に、ラミフィオーレ自身が小さく目を見張った。頭を垂れた影たちへ、ねぎらうように告げていた。理由は手元にない。こいつらの名も、共に過ごした時も、何も思い当たらない。それでも、そう言いたかった。言わねばならぬ気がした。
影たちは、いっそう深く頭を垂れた。
その姿に、胸の奥で何かがほのかに灯る。温かいとまでは言えない。だが冷たくもない。名づけようとして、ふさわしい言葉が見つからなかった。
ラミフィオーレは小さく首を振り、影たちの間を歩き出した。
通路を抜け、また曲がり、また進む。行く先々で、同じことが繰り返された。魔物が現れ、道を開け、頭を垂れる。大きいものも小さいものも、人に近いものも獣めいたものも、変わらない。そのたびに胸の奥のあの感触がよみがえった。長く、律儀に、何かを守り続けてきた者たちへ向けたい――ねぎらいに似た、何か。
よみがえるのに、出どころだけがどうしても掴めない。
腑に落ちぬことばかりだ、とラミフィオーレは口の端をわずかに緩めた。
上へ向かっている、という確信があった。
分かれ道に出るたび、足がひとりでに登りのほうを選ぶ。地図があるわけでも、誰かに教わったわけでもない。体が、向かうべき方角をすでに知っていた。
外へ出たいのか、と己に問えば、答えはあやふやだった。
ここに留まるのも厭わない。さりとて、焦がれるような渇望があるわけでもない。ただ、惹かれる。上へ、外へ。何かがそちらにある。何があるのかは見えないまま、糸を引かれるように惹かれていく。
それだけだった。
通路がゆるやかな登りに変わってきた。空気が動いている。底の乾いた冷たさとは違う、湿り気を帯びた匂い。石ではない。土の匂いだった。
ずいぶん長く眠っていたのだろう、という気がした。証はないが、そんな気がする。長く、深く眠り、そして今、覚めた。
過去は霧のままでいい。失われたものは仕方あるまい。甦るなら甦るし、甦らぬならそれまでだ。今その手にあるのは、この体と、この名と、腑に落ちぬまま備わった知識と、外へと向かう足――それで足りた。
光が見えた。
通路の先、曲がり角の向こうから、淡い光が差し込んでいる。魔物の目の光とも、石の燐光とも違う。もっと温かく、もっと広い。
ラミフィオーレは歩を速めた。
匂いが移ろう。土。草。生きているものの息吹。湿った葉の香りが鼻先をくすぐった。風だ。外から吹き込む風が、通路の奥まで届いている。
出口が近い。今度はその感覚を、咎めずに受け入れた。
曲がり角を抜けると、通路が一気に開けた。天井が高く退き、両脇に大きな石柱が立つ。その先に闇はなく、ただ外の光が満ちていた。
ラミフィオーレは立ち止まり、それを眺めた。
何が待つのかは見えない。どんな世界なのかも、自分が何者なのかも、まだ霧の向こうだ。
しかし、それでいい。知らぬなら、これから知ればいいだけのこと。
「外に出てみるか」
呟いて、一歩を踏み出す。
光の中へ。外の空気の中へ。
土と緑の匂いが、胸いっぱいに流れ込んだ。




