第百二十二話 白い羽に宿る星
巨大な樹の麓は薄暗かった。
光が陰に呑まれても、風の運ぶ陽の匂いと、澄んだ空気は残っている。
遠くでは木々が揺れ、葉擦れの音も聞こえる。
森の気配を感じるには、ほかに何もいらなかった。
最奥へ進むにつれ、足元に広がっていた緑がだんだん途切れていった。
ところどころが剥きだしになった地面と、欠けた石畳。
進む先に積もる落ち葉。
古い舗装の跡に、境域の影が見え隠れしている。
人の手が遠ざかってから、どれほどの月日が流れたのか想像もつかなかった。
一面に広がる光苔。
視線の届かない薄暗がりの奥まで、夜空の星が落ちたかのような小さな光が満ちていた。
一つ。
また一つ。
石の隙間に、静かな寝息のような淡い光が浮かんでは消えていく。
消えた光の代わりに、別の隙間にそっと光が灯る。
木漏れ日の中にあった幻想とは違う景色。
ここにあるのは、静かに眠る古いもの。
ほどなくして、風化した構造物が姿を現した。
欠けた石の柱。
蔦が這い、あちこちが崩れた石造りの階段――。
上り切った先には、一体何があるんだろう……。
まだ、分からない。
でも、分かったこともある。
神殿のような、祭壇のような……。
少し前にユノアが言っていた、その言葉の意味。
目の前の古びた景色が、私の想像を掻き立てた。
だから、今ならそれが理解できそうな気がした。
「ここが……」
――瞑空の境域。
地面に足が着くたび、ふわりと浮いたような感覚があった。
肺に届く空気まで、薄くなったように感じた。
音も、意識も、匂いも。
その全てが遠のいていくような――。
「『原初の理がそっと眠る場所』とも言われてるんだ」
そう告げたユノアの声も、響かなかった。
ふれてはいけない秘密を隠すかのように、すぐにかき消された。
残ったのは静寂だけ。
足取りも自然と慎重になっていった。
それでも私たちは、歩みを止めない。
ここで止まってしまったら、前に進む勇気まで失ってしまいそうだった。
未知への期待と緊張を抱え、ユノアの背を追う。
石造りの階段は、緩やかな傾斜を描きながら、木々の奥へと続いている。
踏み込むたび、乾いた靴音が小さく返ってくる。
頭上の枝葉は重なっている。
その隙間から覗く空が、少しずつ広がっていく。
階段を上るにつれ、私たちは大樹の陰から離れていった。
薄暗かった石畳には、細い陽の光が届き始めている。
淡い光が、葉の形を映すように足元で揺れる。
私はその模様を眺めながら、さらに上っていった。
階段の脇に、欠けた石柱が立っていた。
崩れた縁には、細い蔦が絡みついている。
何気なく目を留めたあと、私は前を行くユノアの背を追った。
しばらく進むと、また同じ石柱が現れた。
欠けた箇所も、蔦の絡み方も変わらない。
「……あれ?」
思わず足が緩む。
「どうしたの?」
お姉ちゃんが振り返る。
「今の柱……」
見覚えがある。
さっき、階段の脇で見たものと同じ……だ。
でも、位置が違うような……。
振り返ってみても、私たちが上ってきた階段が続いている。
先ほどの石柱は、なぜか見当たらなかった。
目の前の柱は、最初からそこにあったように静かに立っている。
「気のせい……?」
私は視線を戻し、ユノアの背を追った。
また一段。
もう一段。
木々の間を抜ける風が、頬を撫でていく。
聞こえていた葉擦れの音が、少しだけ遠くなる。
いつの間にか、足元の石畳が変わっていた。
淡い色の石が、緩やかな弧を描くように並んでいる。
前を行くユノアは、気にも留めることなく、変わらぬ歩調で進んでいく。
ほんの一瞬、周囲を見渡しただけで、ユノアの背は遠ざかっていった。
その迷いのない姿に導かれるように、私たちも歩みを進めた。
何かが起きた感覚はなかった。
でも、なぜだろう。
顔を上げたとき、空が近かった。
枝葉の向こうにあったはずの青が、大きく広がっている。
やがて、階段の先に明るさが滲んだ。
「……着いた?」
お姉ちゃんが、小さく声を漏らした。
最後の段を踏み越えた瞬間、強い風が吹き抜けた。
草花が一斉に揺れ、古木の枝葉がざわめく。
その勢いに目を細め、思わず顔を伏せた。
「…………」
風が通り過ぎ、再び顔を上げた。
私は、目の前の景色に言葉を失った。
そこには、整った緑の大地が広がっていた。
「「えっ……!?」」
私とお姉ちゃんの声が重なる。
「な、なんだ……これ?」
少し遅れて、ニアの言葉が漏れる。
頭上にはどこまでも続く青空があり、柔らかな陽光が降り注いでいた。
奥には、その空に向かって枝葉を広げる大きな古木が立っている。
その枝ぶりは、先ほどまで一帯を覆っていた大樹を思わせた。
枝葉の間をすり抜ける木漏れ日と、空を走る雲の影が地面の上で揺れていた。
草地には色とりどりの花々が点在し、その傍らには水溜まりほどの小さな泉。
泉には清らかな水が湧き、その水面を静かに揺らしていた。
目を凝らすと、青空の高みに、見落としてしまいそうなほど淡い月が浮かんでいた。
「な、なぁ……。後ろ……」
ニアは、階段があったはずの場所を指差したまま、言葉を詰まらせた。
私はニアの指先を追った。
「階段が……ない?」
「驚いた? 見えているものだけが正しいとは限らないんだよ」
「う……ん?」
ユノアの言葉に、私は視線を戻した。
さっきまで私たちは、石造りの階段を上っていた。
それなのに、気付いたときには、もう緑の大地に立っていた。
初めてミストヘイズを訪れたときも、景色が一変した。
いつの間にか建物は消え、最初に見た廃墟が現れていた。
何が起きたのか、あのときも分からなかった。
今、目の前で起きたことも、まだ理解できずにいる。
でも、ユノアだけは違った。
私たちが戸惑うなか、ユノアはこの変化を当然のように受け止めていた。
「ねぇララちゃん。古木の麓……ユノちゃんが言ってたやつかな? 行ってみようよ」
お姉ちゃんの言葉にユノアも頷いた。
「うん。行こう」
古木の麓は、周囲より少し小高くなっていた。
その先で地面が一段低くなり、森の樹冠が地平線まで続いている。
近くの梢は陽を透かし、葉の一枚一枚が鮮やかな緑を浮かべていた。
遠くへ目を向けるほど、その色は淡く青みを帯び、広がる空へと溶け込んでいく。
幾重にも重なる緑の向こうに、何があるのかまでは分からなかった。
私は改めて、古木の根元を見た。
太い幹のそばに、低い石段が続いていた。
枝葉の影に半ば包まれたその先には、何本もの石柱に囲まれた場所がある。
草花は瑞々しく、足元の石畳にも乱れはない。
木漏れ日が敷石の上に落ち、風が通るたびに淡い光が揺れていた。
そんななか、石段を上った先だけは様子が違う。
柱の角は欠け、表面には細かな亀裂が走っている。
平らな床を形作る石も、長い年月を経て擦り減ったのか、縁が丸みを帯びていた。
中央には一段高くなった石の台が据えられている。
祭壇のようにも、何かの儀式を行うための場所のようにも見えた。
周囲の景色が整然としているぶん、そこに残る傷みが際立っていた。
大樹の都で見た石畳を思い出す。
穢れを帯びた足跡が残っても、天冥の理の働きによって、石畳はいつの間にか清らかな姿を取り戻していた。
けれど、汚れが消えることと、石そのものが元に戻ることは違う。
目の前の石に残る亀裂や欠けは、表面を清めるだけでは消えない。
長い時間を経て、少しずつ変わってきたものなのだろう。
周囲を満たす美しさのなかで、ここだけが、積み重ねられた年月を隠さずに残していた。
「……何かあるぞ」
ニアの声に、私は石の台へ目を向けた。
上面には、円を描くように細い溝が刻まれていた。
そこから枝分かれする線が幾重にも重なり、石の縁にまで続いている。
その間を埋めるように並ぶものを見て、私は息を呑んだ。
「お姉ちゃん、これって……」
私と目を合わせて頷いたあと、お姉ちゃんも石の台に視線を移した。
見慣れない文字だった。
ひとつひとつの文字は、装飾にしては規則的。
線の向きも、刻まれた位置も、何らかの決まりに従っているように見える。
溝の交わる場所には、小さな石がいくつもはめ込まれている。
そのうちのいくつかは、見覚えのある魔石に似ていた。
ほかの石は違った。
光を含んでいるようにも、内側に何かを閉じ込めているようにも見える。
けれど、私の知る魔石とは色も質感も異なっていた。
それが何という石なのか、私には分からない。
ただ、石の配置にも、文字の並びにも、偶然とは思えないものがあった。
私は石の台へ近づき、刻まれた線を目で追っていく。
博士の本に記されていた図式が、ふと脳裏をよぎる。
まったく同じものではない。
それなのに、線の組み方や石の配列には、どこか通じるものがあった。
「ユノア、これ……もしかして」
問いかけようとして、言葉を止めた。
隣にいたユノアも、石の台に目を向けていた。
「転送陣……。やっぱりラクラスには分かっちゃうんだね」
私は改めて、石の台を見つめた。
古びた石の表面が欠けていても、文字の並びは途切れずに続いている。
「うん……。でも、分かってても触れられないものがある。文字置換の魔法だけでは届かない」
形は見えている。線の流れも、配置も分かる。
それなのに、意味だけが立ち上がってこない。
大書庫アーカ・ルミナで、文字を前にしたときもそうだった。
目の前にあるのに、その先へ進めない。
「だから、それに触れるために、ラクラスたちはここに来たんだよね?」
「そうだね……」
「――もう答えはすぐそこまで……。ううん。なんでもない。古いものだけど、わたしたちは今もここを使っているんだよ」
ユノアが石の台の縁に手を添えた。
しばらくは、何も起こらなかった。
やがて、溝の交わる場所にはめ込まれた石のひとつが、淡い光を帯びた。
光は刻まれた線に沿って伸び、別の石へと渡っていく。
ひとつ、またひとつ。
細い光が文字のあいだを巡り、石の台に描かれた模様を浮かび上がらせた。
その光は、ほどなくして静かに消え、石の台には、再び静けさが戻っていった。
欠けた石も、読み取れない文字も、見慣れない石も、何ひとつ変わってはいない。
それなのに、先ほどまでと同じには見えなかった。
文字と、石と、幾重にも重なる線。
私はそれらを見つめたまま、しばらく動けずにいた。
意味も、正体も、まだ分からない。
でも、ここにあるものが過去に残された、ただの遺物ではないことが分かった。
届きそうで届かない空。
太陽と月がこんなにも近いのに。
その意味を知るには、手掛かりがまだ……足りない。




