第百二十一話 木漏れ日の彩
丘を登ったそのさらに奥にそびえる大樹。
その巨大な古木は、純粋で清らかな魔力を湛えていた。
凛と張り詰めた空気に呑み込まれてしまうかのようだった。
ここでは時間の流れさえ、違って感じられた。
いつの間にか、周囲に感じる気配が少なくなっていた。
さっきまで聞こえていた音も、今は遠くに感じる。
風が木々を揺らす音。
遠くで水が流れる音。
それ以外には、ほとんど何も聞こえない。
丘を登り切ったところで見た高層の建物も、開けて解放感のある景色も、すれ違う人影も――みんなどこかに消えてしまった。
木々の間から差し込む光だけが、静かに足元を照らしていた。
「綺麗……だな」
ニアが静寂に、低い音を零した。
「魔力が……満ちている」
私は、ニアの声にそっと言葉を添えた。
壮大な大樹の木陰にときおり浮かぶ色とりどりの光彩。
美しい幻想の光が一面に優しく咲いては散っていく。
――懐かしい感覚。
ここは、まるで故郷のすぐ近くの『星砂糖の森』みたい……。
「ユノア、この先には何があるの?」
「えっと……。なんて言ったらいいのかな? 神殿というか儀式の祭壇というか」
「そっか。そこは、里の人なら、誰でも訪れていい場所なの?」
普通に考えたら、一番奥にある場所は、いかにも重要そうだし……と、思っていたら、ユノアは間を置くこともなく答えた。
「うん。問題ないよ。ただね……、あそこは、少し静かで、魔物にはちょっと刺激が強い場所なの。イリスと森で別れたのも、そのためなんだ」
心なしか、ユノアの口調が少しだけ砕けている気がした。
多分、これが素のユノアなのかもしれない。
「ユノちゃん、雰囲気が変わった? 初めて会ったときは、冷たい感じがしたのに、今はふわっとしてて、なんだか天使みたいっ!」
お姉ちゃんも、ユノアの小さな変化に気付いたのかもしれない。
確かにユノアは天使みたいに可愛い子。
そして、言うまでもなく、お姉ちゃんも可愛い。
なんだろう? この幸せな光景は……。
でも……。
「そう……かな? 天使??」
やっぱり――。
ユノアは少しだけ驚いたような表情をした。
ニアが急にユノアの手を取ったときと同じような顔。
なのに、もう元通り。いつもの静かで落ち着いた感じだ。
ユノアは、今、何を思っているんだろう?
その心を覗けたらいいのにと、そっと思った。
「ところで、古木、祭壇? に名前がないものなの? この里の名前も知らないけど」
「まだ話してなかったね。まず、目の前の大きな樹。『空月の樹』っていうの。今、向かっているのが、『瞑空の境域』。それと……、ここは『ミストヘイズ』っていうの――」
「「「……!?」」」
私たちは驚きを隠せなかった。
ユノアが最後に口にした里の名前。
ここがミストヘイズなら、私たちが魔人と戦ったあの場所は一体……。
「私たちがユノアに初めて出会う直前に通ってきた瓦礫の集落。あの場所もミストヘイズだったの?」
ユノアが歩みを止めた。
そして、こちらに振り返りながら答える。
「えっとね……。あの集落は、ここに迷い込んできた人たちが暮らしていた場所。でもね……」
「でも、どうかしたのか?」
一番後ろを黙って歩いていたニアが尋ねた。
「ちょっと前に事件が起こったんだ。そのときに、犠牲者が出てしまって……。最初は、不慮の事故で一人だけ。それは前兆にすぎなくて――最後には、集落そのものが壊滅したんだ」
事件については、心当たりがある。
博士から聞いたレイ・スロストの奥さんについての話。
その語りの中でも、確かに『不慮の事故』と言っていた。
「この里に、迷い人がいなかったのは――」
「そう……なるね。外の世界には、中央の目があるから……」
冷たい風が頬をそっと掠めた。
「どうして、そんなに悲しい顔をしているの?」
言葉を探すようにしては零すユノア。
その様子が気になって、思わず聞いてしまった。
目の前の少女が見せた表情を、私はよく知っている。
大切な何かを理不尽に失ったときに見せる後悔と絶望が混じった顔。
「迷い人を私が導かなければって後悔がずっと消えないから。失った痛みは残るんだね……」
そう言って、抱くようにして、自分の胸に両手を押し当てるユノア。
ユノアのその姿を見た瞬間、私は咄嗟にユノアをそっと抱きしめた。
「あったかいね……。ちゃんと、温もりを感じる」
ユノアが言葉を零すと同時に、木漏れ日に反射する一滴が煌めくのが見えた。
頬を伝う涙は、静けさの中に溶けて消えていく。
腕に触れる華奢で小さな体から、わずかな震えが伝わってくる。
私は、少しだけ力を強め、ユノアを受け止めた。
ユノアは自分の胸に当てた手を解くと、今度は私の背中に腕を回し、私にぎゅっと抱き付いた。
「ユノアにとって、大切な人たちだったんだね」
私は、ユノアに優しくひと言、そう伝える。
するとユノアは、胸に顔を埋めたまま、私の胸元を両手で掴んだ。
それからほどなくして、シトシトと降る雨のように、ユノアの涙が零れ続けた――。
私たちは、止みそうにないその雫が途切れるのを静かに見守った。
しばらく休憩を取ることにした私たち。
空月の樹の木陰で、微かな音しか聞こえない時間を過ごしていた。
お姉ちゃんは、綺麗な花が風に揺れる緑の絨毯の上で本を読み、ニアは近くの木の幹に寄りかかって瞳を閉じて風の音を聞いている。
ユノアは、あれからもずっと私の傍を離れようとはしなかった。
私の膝にちょこんと頭を乗せたユノアは、大樹を見上げるようにして寝転んで目を瞑っている。
私は、膝の上の温もりを感じながら、肩まで伸びた絹のようにサラサラなユノアの白い髪をただ優しく撫でていた。
そして、移ろう色とりどりの光彩を、ただ静かに眺めていた。
リラックスして気が抜けたからか、頭が冴えているような不思議な感覚を覚える。
だからかもしれない。
ふと、気付いたことがあった。
瓦礫の集落にいた人たち。
きっと彼らは、光精霊の記憶を持ったままなんだ。
出会ってからずっとユノアが大切に想い続けた人たち。
積み重ねてきた時間が、今も心に残っているんだ。
闇精霊の里に迷い込んだ人たちとはまた、違う。
レイ・スロストの奥さんもきっとそう。
だったら、レイ・スロストは、闇精霊だけではなく、光精霊の存在も知っていた?
彼の子供たちの名前も、光と宝物を意味するものだった。
そして、レイ・スロストは、あの戦いの中で確かに言っていた。
『しかし、闇精霊め。今もそこでこちらを見ていただろうに。なぜ、見て見ぬふりをする。どうして俺を見捨てやがった』と。
なのに、ニアと出会ったときの闇精霊たちの行動。
彼らは、その存在や気配を消すことをしなかった。
出来たのにしなかったのか、何らかの理由で出来ないのか。
気配が掴めなかったのは、ミストヘイズで起こった出来事全般。
もし、本当にあの戦いを傍観していたのなら……。
そして、ユノアの口から出た『中央』という言葉。
ガレッドロアという大陸にある首都エリーゼの声が、こんなにも深い森の奥にまで届いているなんて思ってもみなかった。
悠久の時を越えてきた種族にさえ影響を及ぼしているように感じたことが、不気味で、とても怖かった。
「ラクラス……ごめんね。ありがとう」
ふと、ユノアの声が聞こえた。
視線を膝元に移すと、私を覗く綺麗な瞳の輝きが目に入って、我に返った。
あれ? また私考え事。
少し前に言われたばかりなのに――。
ユノアは、いつから私の顔を覗き込んでいたんだろう?
「落ち着いた?」
「うん……。メルトもニアもごめんなさい。突然こんなことになって……」
「お、おぉ」
どう答えたものかと困った顔のニア。
これはきっと……。
「やっぱりニアが悪い。少し前にもユノちゃんを驚かせるし、肝心なときに素っ気ないし。これだから黒いのは」
……お姉ちゃんの思うがままの展開。
「このぉ……。でも、正論すぎて返す言葉がねぇな。うぅ……」
ニアにしては、珍しい反応だった。
でも、もっと珍しい反応をしたのはユノア。
「ふふっ。何だか面白いね」
ユノアは、優しく笑っていた。
その姿に、私たちもいつの間にか微笑んでいた。
「心には、温かな想いがきっと残っているはず。ユノアにこんなに思ってもらえて、亡くなった人たちも幸せだったと思う」
「だといいな。みんな、わたしの友達だったんだ」
「そっか。なら、余計に抱え込んだら駄目。ユノアだって大切な人には笑っていて欲しいでしょ?」
「うん。笑顔でいて欲しい」
「木は想いを宿す神秘の植物だと思う。だから、空月の樹にも、『誰かに笑っていて欲しい』って想いがきっと息づいている」
日々の幸せへの願いと、人々が描く理想に捧げられた祈り。
その願いと祈りが編まれた想い。
それはきっと、ここにもあって。
きっと今も――この世界を巡っている。
私の言葉に、ユノアはただ静かに頷くだけだった。
「瞑空の境域まで、もう少しだよ。ラクラスたちなら、きっと……。なんでもない。きっと……わたしが伝えたいことなんてすぐに理解しちゃうから」
雨上がりの陽だまりには、温かな煌めきが揺れていた。




