第百十一話 月と太陽の揺れる朝
月の形を模した髪留めが一瞬だけ煌めく。
その光が消えるより早く――私は月華夢幻を抜く。
(右の森。三体)
(分かった!)
お姉ちゃんの返事と同時に、風が大きく揺れる。
空から降る陽光を受け止める木々の葉。
森に零れた微光の中で、魔物の爪が鈍く浮かび、私の目の前を掠めた。
身を翻し、魔鎌の刃を横薙ぎに振る。
月華夢幻の刀身が朝の光を裂き、そのまま魔物の身体を切り裂いた。
同時に、背後から迫る別の気配。
(ニア、左!)
(任せろ!)
ニアが地面を蹴った。
黒い影が一瞬で魔物との距離を詰め、闇狼弓を引き絞る。
木陰に忍ばせた黒い矢が魔力の軌跡を残しながら、魔物を影ごと縛り付け、動きを封じた。
その横を駆け抜けるお姉ちゃんの風。
三人の動きが、言葉を交わすより先に重なっていく。
迷いのない動き。
互いの力も、癖も、次に取る行動も――。
呼吸をするように自然なものになっていた。
私は月華夢幻を返し、迫る爪を受け流した。
その瞬間――髪に結ばれた羽が風に揺れる。
胸の奥で張り詰めていたものが、小さくほどけた。
セレスとティアから託されたもの。
あの日の約束は、形を変えて私たちと共にある。
「……まだ、終わってないよ」
お姉ちゃんが駆け出していた。
胸元で揺れたペンダントが、陽だまりのような光を零す。
その光を横目に、私はもう一度、月華夢幻を握り直した。
「ニア、お姉ちゃんの動きに合わせて」
「ニアちゃん、大丈夫?」
(言われなくても大丈夫だ! メルト、あとで覚えてろよ……)
いつものニアとお姉ちゃん。
息の合った掛け合いのなか、ニアの魔力に寄り添うように、浄化の魔石から淡い力が伝わってくる。
再び優しい風が舞い、森の影に咲く花が柔らかく揺れた。
森には色とりどりの光彩が漂い、戦いの終わりを告げる魔物の残痕が大気のなかに失われていった。
私はそこに、ごく小さな違和感を覚えた。
これまで感じたことのない引っ掛かり。
その答えを、今から見付けに行く。
だから、先に進むしかない。
戦いの熱は冷めて、森は静かな時間だけを湛えていた。
先ほどまで響いていた爪の音も、枝の折れる音もない。
残っているのは、木々の葉を撫でる風と、足元で小さく揺れる草の音だけだった。
私は、髪に触れる。
指先に触れた羽から、温もりが伝わってきた。
白く透き通った羽。
リエージュで、セレスから受け取ったもの。
あのとき聞いた言葉が、ふと蘇る。
――少しだけ心を落ち着かせる力があるの。
セレスの穏やかで優しい声が心を巡っていく。
……温かい。
リエージュを離れる前、私たちは天冥の証に使われていた技術を応用して、受け取った羽を魔力へ結び付けた。
魔力に溶かし込み、その形を疑似的に編み上げることで、羽はアクセサリーとして身に着けられるようになった。
それ以上に、古代の技術には驚かされることばかり。
魔力の中では、取り込んだものが守られる。
羽も傷付くことなく、元の姿のまま残っている。
形も大きさも自由に選べるし、こうして身につけていれば、失うこともない。
そしてなにより、綺麗なものを身に着けられるのも、女の子としては嬉しい。
セレスとティアから受け取った贈り物は、形と意味を持って、私たちの想いと共に世界を巡り始めた。
隣では、お姉ちゃんも胸元のペンダントを指先でそっと押さえていた。
「……これ、やっぱり便利だね」
「何が?」
「落とさないところ」
そう言って、お姉ちゃんが笑う。
ティアから受け取った羽。
陽光を受けたペンダントが、胸元で小さく煌めいた。
「うん。魔力に溶かしてしまっておけるところもね」
「だね! ブレスレットの魔導通話機も羽と一緒に加工してもらったし」
お姉ちゃんが、両手で胸にぶら下がったペンダントを抱いた。
「これで、通話しててもぱっと見で気付かれなくなったね」
「そうだね」
「ねぇ……、ララちゃん?」
「どうしたの?」
珍しく感傷に浸っているようにも見えたお姉ちゃん。
その声色は、いつもより遠くに感じた。
お姉ちゃんは、ティアの羽をぎゅっと抱いたまま。
静かな眼差しを私に向けていた。
「ティアも喜んでくれるかな」
「きっと」
あの場所で交わした約束は、もう過去の出来事ではない。
こうして、私たちと一緒に歩いている。
だから、私は短い言葉で答えた。
「ところでさ」
私とお姉ちゃんの会話を黙って聞いていたニアがこちらを見る。
「腹減った」
「「…………」」
話の腰を折るニア。
私もお姉ちゃんも慣れっこだけれど――。
ニアのその合図にどこかほっとしていた。
「……なんだよ、その顔」
「戦いが終わって最初にそれ?」
「仕方ねぇだろ。朝から歩いてんだから」
お姉ちゃんが小さく笑う。
「お腹が空いてたなら、さっきの魔物の魔力を取り込んだら良かったんじゃないの?」
「メルトは分かってねぇな。あたしらにも人と同じような味覚があるし、調理した食材から色んな魔力を吸収した方が体にもいいしな」
「ただの食いしん坊なだけだね!」
「そうだよ、わりぃかよ」
私たち三人からは、笑みが零れていた。
戦いの後の空気が、いつもの三人のものへ戻っていく。
「じゃあ、次の休憩で何か食べようか」
「やった!」
『次の休憩』という私の罠に気付きもしない無邪気なニア。
その声を聞きながら、私はもう一度だけニアを見る。
いつものニア。
何も変わった様子はない。
さっき感じた小さな引っ掛かり。
私はまだ、その正体を知らない。
浄化の魔石は今、ニアの魔力のなかにしまってある。
そして、ジュエルソウルを介した穢れもまた、未だにニアのなかに眠っている。
私たちにはまだ扱いきれないその痛み。
セレスとティアが示した道。
だからこそ、私たちはティラミスへともう一度向かう。
記憶を扱い、魔力を研究している人。
私たちが、訪ねるべき場所――ストロー博士のところへ。
もうすぐ森を抜ける。
木々の隙間から差し込む朝の光が、少しずつ高くなっていた。
遠くから聞こえてくる鳥たちの囀り。
湿った土の匂いに混じる朝露の冷たさ。
私は歩きながら、これまでの旅を思い返していた。
大樹の都を離れてまず向かったのは、シフォン。
そこで最初に訪れた飴乃国。
お姉ちゃんの実家。
見慣れた街並み。
いつもの喫茶店。
そこで、旅の間に起きたことを整理した。
天冥の樹で見たもの。
フィリエルたちから受け取ったもの。
そして、ニアの精霊核に残された穢れ。
リエージュで出会ったものを、そこで一つずつ言葉にしていった。
それからシャルロットへ向かい、コルベットにも報告を済ませ、懐かしい親友たちとも再開を果たした。
会えなかった時間が育てた想い。
そこにしかない空気。
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまった。
本当に短い滞在だったけれど、私たちにとってかけがえのない時間だった。
セレスとティア、フィリエルたちから受け取ったものを形にする旅は終わっていない。
リエージュで触れた世界の理。
それが、どこへ繋がっているのかを確かめるための道はまだ遠い。
街道の先に、見慣れた景色が少しずつ見えてきた。
私は足を止めずに歩いている。
私の髪元で揺れる、三日月を模した形の羽。
お姉ちゃんの胸元で淡く光を宿す、太陽を湛えたペンダント。
そのすぐ近くを歩くニアの傍らには、浄化の魔石。
まだ形にならないものを抱えたまま。
巡る想いを未来へ繋ぐため。
朝の光のなか、私たち三人は街道の先へ歩いていった。




