第八話 広がる景色(完)
飴乃国で過ごす時間は、穏やかに流れていた。
最初に訪れた時は、見るものすべてが新鮮で、ただ驚いてばかりだった。
けれど今は、道を歩けば顔を覚えてくれている人がいる。
店先で交わす短い挨拶。
工房の前で足を止めた時に向けられる笑顔。
以前なら通り過ぎていた小さな出来事が、少しずつ私の中に残るようになっていた。
「……随分、馴染んだな」
隣を歩くニアが、小さく呟く。
「そうかな?」
「以前のララなら、街並みの美しさや珍しい技術ばかりを見ていた」
ニアは周囲へ視線を向ける。
「今は違う」
「……」
「店の人間の表情。職人の手元。そこにある時間を見ている」
ニアらしい、淡々とした言葉。
けれど、その言葉は少しだけ優しかった。
それにしても、ここ最近のニアには驚かされる。
色々なものをよく観察していて、的外れなことをあまり言わない。
「ニアも?」
「何がだ」
「この街を見る目」
「……」
少しの間。
ニアは答えず、歩き続ける。
「悪くない場所だ」
以前と同じような短い答え。
でも、初めて飴乃国へ来た時とは違う。
その言葉の奥にあるものを、今の私は少しだけ分かる気がした。
「ラクラスちゃん、ちょうど良かった」
メルティの扉を開けると、安心する声が聞こえた。
「お父さん」
「今日も来てくれたんだね」
「うん。近くまで来たから」
そう答えると、お父さんは嬉しそうに笑った。
メルティは、メルトお姉ちゃんが育った場所。
そして、私にとっても大切な時間を過ごした場所。
お姉ちゃんが遠くにいても、ここには変わらない温かさがある。
「これ、少しだけお願いできる?」
「うん。わかった」
頼まれた食器を運ぶ。
以前は慣れないことばかりだった店内も、今では自然と身体が動いた。
厨房から聞こえる声。
お客さんの笑い声。
甘い香りが漂う空間。
ここで過ごした時間が、少しずつ日常になっていることが不思議だった。
「ラクラスちゃん、無理はしてない?」
お母さんが優しく声をかけてくれる。
「大丈夫」
「なら良かった。でも、いつでも帰ってきていいんだからね」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
帰る場所。
それは、以前の私が失ったもの……。
そして、再び手にしたもの。
店の手伝いを終えた後、私は職人街の一角へ向かった。
ニアも少し離れた場所からついてきている。
相変わらず、人の多い場所を好む様子はない。
けれど、以前のように周囲を拒むような気配は薄れていた。
「この街が気に入ったの?」
「別に」
即答。
でも、その視線は通りを歩く人達へ向いていた。
「ただ……」
珍しく、ニアが言葉を続ける。
「ここにいる奴らは、自分たちの時間を大切にしているように見える」
「……うん」
それは、以前のニアなら気付かなかったことかもしれない。
穢れに囚われていた頃のニアは、残っているものより、失われたものばかりを追い続けていた。
でも今は、残っているものにも目を向けている。
そこへ、聞き覚えのある声がした。
「あれ? ラクラスさん?」
振り返ると、そこにはアミサが立っていた。
「アミサ」
「やっぱり。久しぶりだね」
優しい笑顔。
短い時間しか一緒に過ごしていないのに。
それでも、再び会うと自然に言葉が出てきた。
「ニアちゃんも一緒なんだね」
「……悪いか」
「ふふ。そういう意味じゃないよ」
アミサは楽しそうに笑う。
ニアは少しだけ視線を逸らした。
以前なら、こういうやり取りそのものを避けていた気がする。
それどころか、アミサじゃなければ、『ちゃん』なんて言われたら絶対に怒るか拗ねるかしている。
「ミントのところに行くんでしょ?」
「どうしてわかっちゃうんですか?」
柔らかい風が吹いて、アミサの髪をふわっと揺らした。
「最近、よくアトリエに籠もっているから。たぶん新しい絵を描いているんじゃないかな」
アミサが少し考えるように空を見る。
「そうだ。ラクラスさん」
「なに?」
「今度、ミントさんが描く絵……」
一瞬だけ、言葉を選ぶように間を置く。
「この街も描いてくれたら嬉しいな」
アミサの表情がぱっと明るくなる。
「飴乃国を?」
「はい」
アミサは街の方を見る。
「綺麗な景色だけじゃなくて、ここで暮らしている人たちの時間も含めて」
その言葉に、ミントが描いていたものを思い出した。
形に残るもの。
そこに込められた想い。
見えない時間まで残すこと。
「伝えてみる」
「ありがとうございます」
アミサは笑った。
「でも、急がなくていいからね。絵も旅も、その人の歩く速さがあると思うから」
その言葉に、ニアが小さく頷いた。
「分かっているじゃないか」
「ニアちゃんに褒められた?」
「違うからな!」
「ふふっ」
短いやり取り。
でも、以前より少しだけ自然だった。
その後、私はミントのアトリエへ向かった。
扉を開けると、色彩の並ぶ部屋の奥から声が返ってきた。
「ララさん?」
振り返ったのは、ミントだった。
「久しぶり」
「久しぶり……って言うほどでもない気もしますね」
ミントは少し笑う。
机の上には、まだ途中の作品が置かれていた。
「新しい絵、描いてるの?」
「はい。まだ完成してないんですけど」
ミントは筆を持ち上げる。
「前より少しだけ、描きたいものが増えた気がします」
「そうなんだ」
「見えるものだけじゃなくて、その先にあるものも描いてみたいと思うようになったんです」
その言葉に、以前見せてもらった絵を思い出した。
一枚の絵の中に残された時間。
誰かが過ごした想い。
形として残るものだけではなく、その奥にあるもの。
ミントが描こうとしているものは、きっとそういうものなのだと思う。
「また絵を見にきてくださいね」
「うん。楽しみ」
「ララさんのお話も、また聞かせてくださいね」
「うん」
短い会話だった。
でも、それで十分だった。
夕方。
メルティへ戻ると、店の片隅に置かれた魔導通信機が淡い光を灯していた。
そこに映るのは、遠く離れた場所にいるメルトお姉ちゃん。
相変わらず、元気いっぱいの笑顔だった。
「ララちゃん、聞いてほしいんだけどね」
「なに?」
「最近、新しい歌を作ってるんだ~」
「どんな歌なの?」
「んー……まだ秘密」
お姉ちゃんは少しだけ悪戯っぽく笑う。
「でもね。元になる詩は、もうできてるんだ」
「詩?」
「そう。言葉から始まった歌」
「……素敵な歌になりそう」
ふと、初めてこの街へ来た時のことを思い出した。
あの時に贈ってもらった素敵な詩。
それは、私のなかで今も――。
「何だか、初めて飴乃国に来た時のことを思い出すね」
「そう?」
「うん。あの時とは、同じ景色を見ているはずなのに、感じるものが違うから」
「えへへ。完成したら、いつか聞かせるね」
「それは楽しみすぎる」
通信が終わった後、私は外へ出た。
ニアも少し遅れて店から出てくる。
並んで歩きながら、私は飴乃国の空を見上げた。
「綺麗……」
「……何がだ?」
ニアが視線だけを向ける。
「空」
「前から同じだろう」
「うん」
私はもう一度、空を見る。
「でも、今は違って見える」
ニアは何も言わなかった。
ただ、同じように空を見上げていた。
以前も、同じ空を見ていた。
綺麗な街並みに驚いて。
知らない世界に胸を躍らせて。
ただ、その美しさを眺めていた。
今も、空は変わらない。
同じ色。
同じ広さ。
けれど――。
そこにあるものが、少しだけ違って見えた。
誰かが歩いてきた道。
誰かが込めた想い。
誰かと過ごした時間。
それらは、消えてしまうものではないのかもしれない。
私はもう一度、空を見る。
まだ見ぬ場所へ続く空。
その先に何が待っているのかは分からない。
でも――。
今の私なら、きっと歩いていける。
空は、どこまでも続いている。
その先にあるものを、今の私は知りたいと思った。
飴乃国で紡がれる、想いと時間の物語はいかがでしたでしょうか。
『繋がり』をテーマに、詩や絵、そして何気ない日々の中で残されていく温かな記憶。同じ景色でも、誰かと過ごした時間が重なることで、新たな意味を持って見えることがあります。
その優しい余韻を心に灯していただけたのであれば嬉しく思います。
「面白い」「続きを読みたい」「作者を応援したい」と思ってくださった方は、ブックマークと評価をいただけたら幸いです。




