第七話 見つめる先
朝の光が、ゆっくりと部屋へ差し込んでいた。
薄く開いた窓から入り込む風が、カーテンを静かに揺らしている。
聞こえてくる街の音。
遠くで鳴る金槌の音。
誰かが店を開く気配。
飴乃国は、今日も変わらない一日の始まりを迎えていた。
けれど、私が見る景色はあの日とは違っていた。
私はベッドから起き上がり、窓の外へ目を向ける。
以前、この街を訪れた時も同じように、この景色を見ていた。
綺麗な街。
珍しい工房。
色鮮やかな装飾品。
あの時の私は、ただその美しさに驚いていた。
今は、その景色の中にいる誰かへ目が向いている。
通りを歩く職人。
店先へ商品を並べる人。
小さな工房の扉を開ける人。
その一つひとつに、その人が過ごしてきた時間があるように感じた。
数日前に、ミントの絵を見たからだろうか。
ただ綺麗だと思っていた景色の奥に、誰かが過ごした時間が静かに重なって見えた。
「……起きてたんだ」
後ろから声が聞こえる。
振り返ると、お姉ちゃんが眠そうに目を擦りながら立っていた。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよ~。朝から窓辺で物思いにふける妹……。これは絵になるね」
いつもの調子。
変わらない笑顔。
それだけで、少しだけ安心する。
「また変なこと考えてる?」
「失礼な。私はいつだって真面目に妹を観察……じゃなくて、愛でているのです」
「今、言い直したよね?」
「気のせいです」
お姉ちゃんは楽しそうに笑った。
このやり取りも。
きっといつか思い出になる。
そんなことを自然に考えてしまう。
前なら、そんな風には思わなかった。
時間は過ぎていくもの。
失われていくもの。
そう思っていた。
でも。
残るものもある。
誰かが覚えている限り。
誰かが大切に思う限り。
その時間は、消えてしまうわけではない。
「ララちゃん?」
「……ううん。何でもない」
お姉ちゃんが首を傾げる。
私は小さく笑った。
少しだけ。
世界の見え方が変わった気がした。
朝食を終えた頃。
玄関へ向かうと、そこにはニアが待っていた。
「遅い」
「ごめん……」
「別に待っていない」
そう言いながら、ニアは少しだけ視線を逸らす。
以前と変わらない。
でも、少しだけ違う。
この街へ来た時のニアは、周囲を珍しそうに見ていた。
飴色の装飾。
職人たちの技術。
街を彩る様々なもの。
初めて見るものばかりだったから。
けれど今のニアは、少し違う。
知っている場所へ戻ってきたように、静かに街を眺めている。
「ニア、この街どう?」
お姉ちゃんが尋ねる。
「……悪くない」
「それだけ?」
「それ以上、言葉にする必要があるのか?」
ニアらしい答え。
でも、その視線は柔らかかった。
「短い時間しかいなかったのに?」
私が呟くと、ニアはこちらを見る。
「時間の長さだけで決まるものではないだろう」
その言葉に、少し驚いた。
ミントの言葉が、ふと蘇った。
短い時間でも。
そこに残ったものは、消えないのかもしれない。
「……ニアも、そう思うんだね」
「何がだ?」
「ううん。何でもない」
ニアは不思議そうな顔をした。
でも、追及はしなかった。
それもいつものことだった。
街へ出る。
以前歩いた道。
以前見た店。
それなのに、目に映るものが少し違う。
小さな工房の前。
年老いた職人が、一つの飾りを丁寧に磨いている。
その手には、長い年月が刻まれていた。
完成した作品だけではない。
そこへ辿り着くまでの時間も、きっと、この人の中に残っている。
「ララちゃん、どうしたの?」
お姉ちゃんの声。
「……何でもないよ」
「最近、その答え多くない?」
「そうかな?」
笑いながら歩く。
以前と同じ街……のはず。
なのに、私の中で、何かが少し変わっていた。
綺麗だから見る。
珍しいから見る。
それだけじゃなくて、そこにいる誰かの時間まで想像するようになった。
ミントの絵が教えてくれたこと。
本が教えてくれたこと。
そして、この街で過ごしてきた時間。
全部が、今の私の中で繋がっている気がした。
その時。
「ラクラスさん?」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、そこには――。
「アミサ」
穏やかな笑顔を浮かべた少女が立っていた。
今、この時間をちゃんと覚えていたいと思った。
アミサは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「やっぱり、ラクラスさんでした」
「久しぶり」
「はい。お久しぶりです」
柔らかな色。
ふんわり優しい空気。
いつもと同じ温かさ。
けれど、どこか少しだけ嬉しそうに見えた。
「メルト……ニアちゃんも」
「久しぶり~!」
「……おぉ!」
お姉ちゃんは勢いよく手を振り、ニアはいつものように短く返す。
その様子を見て、アミサは小さく笑った。
「皆さん、また一緒なんですね」
「うん。今回は少し長く、この街にいる予定なんだ」
「そうだったんですね」
アミサの視線が、街並みへ向かう。
「それなら、また色々案内できますね」
その言葉に、お姉ちゃんが嬉しそうに頷いた。
「本当? アミサの案内なら安心だね」
「メルトも、この街のことは詳しいでしょ~」
「私は好きな場所しか詳しくないから」
「それは知っています」
「えぇ……」
即答されて、お姉ちゃんが肩を落とす。
そんなやり取りを見ていると、自然と笑みがこぼれた。
変わらない時間。
あの日ミントが話してくれたことを思い出す。
こういう何気ない瞬間も。
いつか誰かの大切な記憶になるのかもしれない。
「そういえば……、ミントとは、最近会ったの?」
私が尋ねたあと、アミサは少しだけ周囲を見渡してから答える。
「はい。お会いしました」
アミサの表情が柔らかくなる。
「ミントちゃん、元気だった?」
お姉ちゃんが尋ねる。
「はい。相変わらずです」
「やっぱり、絵を描いているの?」
「はい。朝からずっと描いていることもあります」
アミサは少しだけ笑う。
「でも、ミントさんらしいです」
その言葉に、私も頷いた。
あの人は、きっと今日もどこかの景色と向き合っている。
「昨日、少し話を聞いたんです」
「話?」
「どうして絵を描くのかって」
そう言うと、アミサは静かに目を細めた。
「それで?」
その表情には、驚きよりも納得があった。
「ミントさんのこと、少し分かった気がします」
「聞いてもいい?」
アミサは歩きながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「もちろんです。私が知る限り、ミントさんはずっとそうでした」
「ずっと?」
街を歩く人々へ視線が移る。
「誰かが大切にしていた時間を、いつも見つめていました」
「……」
「もちろん、今も綺麗な絵を描いています。でも、以前は……自分が納得できるものを追い求めていたように見えました」
あの時、ミント自身も話していた。
認めてもらいたかった頃。
上手く描きたかった頃。
「でも、ある時から変わったんです」
「何かきっかけがあったの?」
お姉ちゃんが尋ねる。
アミサは少し考えるように間を置いた。
「きっと……誰かの言葉だったんだと思います」
「誰かの?」
「はい」
それ以上は語らない。
でも、アミサの表情から伝わってきた。
ミントにとって、その出来事は今でも大切なものなのだろう。
「ミントさんは、出会った人や場所を大切にする人です」
「だから、旅をしているんだね」
私が言うと、アミサは頷いた。
「はい」
少しだけ空を見上げる。
「たぶん、ミントさんは忘れたくないんだと思います」
その言葉が、静かに胸へ届く。
「景色が変わってしまうことも、そこにいた人がいなくなってしまうことも……」
アミサの声は穏やかだった。
「それ、分かる気がするぞ。あたしも故郷に戻ったとき、同じような気持ちになったから」
ニアの気持ちが痛いほど伝わった。
私も、ニアの家族、居場所にふれたから。
「でも……忘れない方法があるって、ミントさんは知っているんだと思います」
風が街を通り抜ける。
工房の前に並べられた作品が、小さく揺れる。
「ミントちゃんの絵は温かいよね」
お姉ちゃんが呟く。
アミサは嬉しそうに微笑んだ。
「うんッ」
少し間を置いて。
「あたしも……、なんだその、嫌いじゃないぞ」
その言葉を聞いた瞬間。
アミサとミントの関係が、少しだけ分かった気がした。
きっと、アミサはミントの絵だけを好きなのではない。
その絵に込められた時間も。
その人が歩いてきた道も。
全部含めて、大切にしているのだと思う。
「そういえば」
アミサがこちらを見る。
「ラクラスさんは、今日はどちらへ?」
「まだ決めてないかな」
「それなら……」
アミサは少しだけ笑った。
「よかったら、久しぶりに一緒に歩きませんか?」
その言葉に、お姉ちゃんがすぐ反応する。
「賛成!」
「まだ何も聞いてないけど……」
「こういう時は勢いが大事なのです」
ニアが小さく息を吐いた。
「相変わらずだな」
「褒め言葉として受け取ります」
四人で歩き出す。
昨日までとは違う。
でも、どこかで繋がっている時間。
私はもう一度、街を見る。
以前なら気付かなかったものが、少しずつ見えてくる。
店先に置かれた小さな飾り。
誰かが磨いた硝子細工。
長い年月を重ねた建物。
その一つひとつに誰かの過ごした時間が残っている。
そんな気がした。
以前なら、通り過ぎていた景色。
でも今は、その奥にあるものを探したいと思う。
誰かが大切にしてきた時間を。
誰かが残した想いを。
その奥にあるものを、見つけられるようになったこと。
それが少しだけ嬉しかった。




