第三話 小さな芽吹き
「わぁ……」
焼き菓子の匂い。
紅茶の香り。
木の温もりを残した小さな空間。
窓辺には小さな鉢植えが並び、壁には色とりどりのイラストやデザイン画が飾られている。
机の上には、使い込まれた筆や色鉛筆。
紙の端には、途中まで描かれた小さな模様が残っていた。
どれも綺麗に整えられている。
でも、飾るためだけに置かれているようには見えない。
今も誰かの手によって、少しずつ時間を重ねている。
そんな場所だった。
「おぉー! 増えてる増えてる!」
お姉ちゃんが目を輝かせた。
「また描いたんだね!」
「うんッ。少しずつだけど」
アミサが少し照れたように笑う。
窓辺の鉢植えには、小さな札が添えられていた。
『暖かくなったら、また花を咲かせますように』
少しだけ癖のある文字。
「これもアミサが書いたの?」
お姉ちゃんが尋ねる。
「そうだよ。って、メルトは私の字の癖知ってるでしょ? もう~!」
少しだけ怒ったような仕草を見せたアミサ。
怖いというよりも、頬を少し膨らませた姿が微笑ましく見えた。
「ごめんごめん。アミサの可愛い反応がみたくって」
そう言ってアミサに抱き着くお姉ちゃん。
相変わらずだなって思うけど……。
でも、ちょっとだけ姉を取られてしまった気分。
だけど、アミサになら許せてしまう。
どちらかというと、私も、混ぜてもらいたい。
……考えるのは止めておこう。
考え始めたら、きっと際限なくなってしまう。
「もう仕方ないなぁ」
そう言って、いつものお姉ちゃんをすぐに受け入れるアミサ。
彼女は、何事も無かったかのように振舞っている。
私たちの周りには、そよ風のように優しい空気が揺れていた。
アミサは鉢植えへ視線を向けた。
「植物って、不思議なんです」
「どんなとこが?」
ニアが食い付く。
「毎日見ていると変化が小さくて気付かないのに、振り返るとちゃんと成長していて」
そう言って、アミサは優しく笑う。
「ふ~ん。あたしはそういうのに疎いけど、何かに気付けるっていいよな!」
「はい! 気付けることって素敵なことだと思うんです。だから、そういうところが好きなんです」
その言葉を聞いて、少しだけ分かった気がした。
アミサは、目立つものを見る人ではない。
誰も気付かないような小さな変化を、大切に拾い上げる人なのだ。
机の上には見覚えのある衣装のラフ画。
見覚えのある髪型。
見覚えのある笑顔。
「これって……」
「ふふっ。メルトのです」
「私!?」
「アイドル活動の時のジャケットイラストとか、小物のデザインとか。気付いたら色々お手伝いするようになっていました」
「いつも助かってます!」
お姉ちゃんが勢いよく頭を下げる。
むしろ、下げた頭を上げられない?
「そんなことないよ~。好きでやっているんだから。誘ってくれてありがとね」
「私のアイドル活動はアミサ抜きにしては語れないのだよ!」
「本当に? わぁ! 嬉しいな」
感謝しているのに、なんだかちょっとだけ偉そうなお姉ちゃん。
そんなお姉ちゃんを自然と温かく受け止めてしまうアミサ。
この慣れたやり取りは、長い時間を一緒に過ごしてきた人たちだけが持つ距離感。
その空気が少し羨ましくて、少しだけ心地いい。
「ラクラスさんは本がお好きなんですよね?」
「うん。よく分かったね」
「メルトから聞いています。大きな書庫を見ると目の色が変わる子だって」
「お姉ちゃん……?」
「え~っと……ね。変なことは何も話してないよ? 可愛いものを見ると人が変わると……か」
ああ良かった。
どんな風に私とニアのことが伝わっているかちょっとだけどきどきした。
「本は大好き」
自然と言葉が零れる。
「理由を聞いてもいいですか?」
「人の手で描かれた『想い』の温度が伝わるから」
知らない誰かの考え。
遠い昔の誰かが見た景色。
本を開けば、そこに残された時間へ触れることができる。
「ララは本のことになると目の色変わるしな」
ニアさん、余計なことは言わないでね。
「私を知らない世界へ連れていってくれるのも好きな理由」
アミサは静かに頷いていた。
「……なんだか、分かる気がします」
その言葉に、私は顔を上げる。
「絵も、少し似ているのかもしれません」
「絵も?」
アミサは壁へ視線を向けた。
「描いた人が見たものや、感じたことが、形になって残るから」
その言葉は、大樹の都で触れた記憶の欠片のように、胸の奥へ沈んでいった。
本が記憶を残すように、絵もまた、誰かの時間を残していくのかもしれない。
その時だった。
壁の一角に視線が止まる。
柔らかな光。
静かな街並み。
淡い色彩。
「……あ」
どこか懐かしい空気を感じる一枚の絵から目が離せない。
「その絵……」
思わず足を止める。
「どこかで見たことがあるような……」
「え?」
アミサが振り返る。
「え~っと……。もしかして、メルトのお家に飾ってある絵ですか?」
「あっ!」
お姉ちゃんが声を上げる。
「確かに似てる!」
思い出した。
お姉ちゃんの家で見た風景画。
名前は覚えていない。
だけど、見た瞬間に胸の奥が温かくなったことだけは覚えている。
色の置き方。
光の描き方。
静かなのに、どこか優しい空気。
まるで同じ人が描いたみたいな絵。
「実はわたしも最初に見た時、同じことを思ったんです」
アミサが絵を見上げる。
「街を歩いていた時に偶然見付けて……」
「街で?」
「はい。展示されていた絵を見て、メルトのお家の絵を思い出して……。それで、どうしても気になって探してしまいました」
優しく笑う。
「探したんだ」
「気になると放っておけない性格なんです」
少しだけ困ったような。
でも、ふんわりとした優しい笑顔。
「実はですね……」
アミサが続ける。
「その絵を描いた方が、今はこの街に滞在しています」
「旅の途中なんだって!」
お姉ちゃんが補足する。
「世界中を旅して絵を描いてるすごい人なんだよー!」
「旅をしながら……」
「街の空気とか、人の想いとか。そういうものを描いているみたいです」
街の空気。
人の想い。
本を開いた時と、少し似ている気がした。
「今は近くのアトリエを借りているんです」
アミサが私たちを見る。
「もしよかったら、会ってみませんか?」
お姉ちゃんの目が輝く。
「行く! 絶対行く!!」
「即答だね」
「だって気になるもん!」
私も頷く。
「私も会ってみたい」
「そうか」
隣でニアが肩を竦める。
「なら、あたしも付き合うさ」
窓の外では午後の光が少しずつ傾き始めていた。
旅を終えたはずなのに。
また新しい物語の扉が開こうとしている。
祈りを描いた国を後にして。
今度は――。
願いを描き続けた人に会いに行く。




