第百九話 希望のかけら
――世界がほんの少しだけ変わった。
街の営み。
この地を包む白い霧。
これまでと変わらない人々の日常。
それでも――。
誰も気付きもしないほど小さな変化が、世界に起こっていた。
セレスとティア。
二人と別れて戻った街で目にした光景。
霧の一部は小さな白い粒子となって漂うようになった。
風に揺られ、空へ昇り、やがて淡く溶けていく。
魔力が満ちる夜になると、その白い粒子は仄かな色を帯びる。
赤や青。緑や金。
まるで夜空へ溶けていく小さな灯のように綺麗で――。
その輪郭は時折花弁にも似た形を描くことがある。
けれど、それもほんの一瞬。
次の瞬間には霧へ還り、静かに姿を消してしまう。
『綺麗……』って、街の人々が微笑む。
不思議に思う人はいても、深く気にする様子は見えない。
それぞれが感じたままに、その光景をいつまでも眺めていた。
――なんでだろう。
空の見える夜が以前より増えた……気がする。
ブッシュドノエルを包む夜には、心なしかどこか優しい色が浮かんでいた。
その理由を知っているのはきっと……私たちだけ――。
白い粒子の漂う夜を眺めながら、私たちはゆっくりと街を歩いた。
街の片隅からは人々の話し声が聞こえる。
帰り支度をする商人。
家路を急ぐ人々。
白い粒子を追いかけて笑う子供たち。
店先には温かな灯りが一つ、また一つと灯り始める。
窓辺には家族の姿。
何気ない日常が、この街には確かに息づいていた。
誰かが扉を閉める音。
遠くで笑い合う声。
穏やかな夜は、いつもと何ひとつ変わらないまま静かに流れていく。
誰も、この変化の理由なんて知らない。
それでも――。
『綺麗だね』って、優しく笑っていた。
子供の小さな手が白い粒子へ伸びる。
指先にふれたと思った瞬間、指先をすり抜けるように離れ、風に乗って夜空へ舞い上がる。
「逃げちゃった」
そう笑う子供を見て、大人たちも穏やかに笑みを浮かべる。
その光景を見ていると、不思議と心の奥が温かくなる。
頬を撫でる風は、どこか懐かしい。
私はそっと目を閉じ、優しく巡るその風を全身で受け止めた。
ゆっくりと目を開けると、白い粒子を風がそっと揺らす姿が映り込む。
白い粒子が街の灯りを宿しながら、夜を優しく彩っていた。
しばらく、その景色から目を離せなかった。
「また来るからな!」
ニアが元気よく手を振る。
フィリエルは柔らかく微笑み、アルマも穏やかに見守っていた。
ソラノアとクラウディアも静かに頷いている。
その隣で、リシアが小さく目を瞬く。
「……また」
「ん?」
「また……ほんとに来るの?」
「当たり前だろ」
ニアは笑う。
「友達なんだから」
リシアは言葉を探すように俯く。
不器用で拙い言葉を紡ぐまでの間。
リシアの素の姿が見えたような気がした。
「……ともだち」
「なんだ? 違うのか? あたしが友達になってやるよ。長い付き合いになるけどな」
その呟きにアルマとフィリエルが顔を見合わせた。
けれどリシアは気付かない。
「……悪くない」
小さな声だった。
でも……きっと。
ニアの言葉に、リシアの表情がほんのわずかに和らいだ。
その温かな空気が、私の心にもほのかに伝わった。
セレスとティアは、表舞台へ戻る道を選ばなかった。
誰にも知られない世界の裏側――約束の大樹でこの地を見守っていく。
そのことを知っているのも、私たちと巫女たちだけ。
知っていても、決して語られることのない約束。
この街で笑う人々の姿。
続いていた優しい世界。
この穏やかな時間も、きっと二人が願い続けた未来。
セレスとティアなら、同じ景色を今も見つめている。
二人は変わらぬ願いを胸に、その行く末を静かに見守り続ける。
「そろそろ戻ろうか」
お姉ちゃんが言った。
私も頷く。
ティラミス。
ストロー博士。
精霊核。
まだ終わっていない。
私たちには、進む理由がある。
「うん」
足を止める理由はなかった。
手のひらに乗せた一粒の雫。
月明かりを受けて静かに輝くルシアの涙がほんのりと温かい。
あの日、託された想いは今もそこにあった。
『いつか――』
あの約束を思い出す。
セレスティアルのまだ見ぬ空。
まだ辿り着いていない景色。
「約束だから……。きっと、いつか――」
私は小さく呟いた。
失われたものは戻らない。
それでも――。
想いは残る。
誰かから誰かへ。
時を越えて未来へ。
白い粒子が静かに夜へ溶けていく。
世界もまた、少しずつ前に進む。
あの日と同じ風は、きっとこれからもこの空を巡っていく。
だから――。
私も一歩、前へ踏み出した。
今回で、第三部『リエージュ編』の本編は完結です。
物語は、第四部『セレスティアル編』へと続いていきます。
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