第百八話 白い彩花の約束
長い年月が流れたはずなのに――。
二人の時間だけは、あの日のまま止まっているように見えた。
三人で過ごした愛おしい日々。
優しいひとときが、目の前に浮かんでくる。
だから私も、ルシアという名前を忘れたくないと思った。
沈黙だけが流れていた。
想いが巡る静けさを、誰も壊そうとはしなかった。
そんな静けさの中で、ティアがゆっくりと口を開く。
「ルシアは白いこの花が大好きでね……」
そこまで話して、ティアは言葉を胸に詰まらせた。
「大樹が生まれる前、この場所は花畑だったの」
セレスが宙に舞うひとひらの白い花弁を手のひらで受け止める。
「い……っつ……も。ル……シ」
感極まったティアの声は言葉になっていない。
「この白い花は、ルシアの大好きだった花。どんな色にも染まるのに、元に戻らない色。だから白が好きなんだって……。魔力が満ちた日の夜。色とりどりに染まる花を見るのをいつも楽しんでた」
どこにでもいる少女。
誰にでもある日常……。
そんな当たり前の時間が、この場所にはあった。
少しの間が空いて、セレスが続ける。
「三人が過ごした最後の時間――ルシアは……この場所で笑ってた。そして――ひとしずくの涙だけを零して、光になって空気の中へ溶け……て……」
セレスも言葉を詰まらせる。
「じゃあ……この白い花は?」
「不思議でしょ。ルシアはもういないのに――あの日から、ずっとこの場所だけ白い彩花が咲いているの」
「悲しい記憶なのに、不思議と優しい色になるの」
「きっと……ルシアが、笑っていてほしいって願ったから」
失うのは一瞬なのに。
それでも想いだけは、世界のどこかで生き続ける。
「寂しい……ううん」
私は静かに首を振った。
「『笑っていてほしい』っていうルシアの想いが、今も巡っているんだね」
ティアとセレスが静かに頷く。
今なら分かる。
想いは未来へ架かる橋。
失われたのは過去じゃない。
誰かと笑い合えた、かけがえのない日常だった。
きっと、その想いだけは、大樹になっても消えなかった。
長い沈黙のあと、ティアが穏やかな表情で言った。
「記憶も形もいつか変わってしまうかもしれない。でも――」
少しだけ笑い、胸を抱くように両手をあてる。
「想いだけはずっと……ここに残ってる」
セレスが続けた。
「私たちは、この場所を守ろうと決めた」
「そして、大樹が残した最後の記憶が、いつか誰かへ届く日まで、長い眠りについたの」
「世界が目覚める時を待っていたわけじゃない」
「私たちが残したかった想いを、受け取ってくれる誰かを待っていたの」
胸が熱くなる。
二人は、この瞬間をずっと待っていた。
ここに誰かが辿り着くと信じて……。
長い長い時のなかで――大切な人の想いを抱きながら。
「でも、ラクラスたちは違う」
「え……?」
「ニアを守ってあげて」
ティアが真っ直ぐニアを見る。
「あなたたちなら、きっと間違えない」
「どうして、それを……?」
ニアのことは話していない。
なのに。
ティアは優しく微笑んだ。
「私たちは、光の精霊」
「代々の樹天の巫女のそばで眠りながら、記録と魂の回廊を通して世界を見守ってきた」
「変わる景色は見えなくても、人の想いだけは伝わってたの」
フィリエルが静かに頷く。
「懐かしいって感じた理由……フィリエルも分かった」
「あたしたち……」
ニアが小さく呟いた。
セレスが続ける。
「ニアの中の精霊核。それは、私たちと同じ光を宿している」
「だから、初めて会ったはずなのにどこか懐かしいって感じたの」
ニアも静かに頷く。
「あたしも……何となく、そんな気がしてた」
「私たちは、陽も月も抱いてるんだ」
「そしてルナリアは――その光を人へ受け継いだ末裔なの」
息の合う二人の言葉に、ストロー博士の話が頭をよぎる。
夜に近い場所。
天空に住む月の一族。
精霊に近い存在。
全部、一本の線に繋がっていく。
「浄化の魔石」
ティアがニアを見る。
セレスが言葉を足す。
「それを精霊核に重ねてみて」
「世界の理から外れた流れが、もう一度循環するはずだよ」
「どうやったら?」
ティアは首を振る。
「私たちにはできない」
「魔力を導く回路を開く力は持っていないから」
私は小さく息を吸う。
「分かった」
お姉ちゃんが続ける。
「心当たりはあるよ」
記憶を扱う研究者。
魔力を増幅する理論。
ティラミス。
もう一度、ストロー博士を訪ねる理由ができた。
「えっと……ソラノア」
突然名前を呼ばれ、ソラノアが顔を上げる。
「僕?」
ティアは優しく笑う。
「ルシアのこと、忘れないで」
「…………」
ソラノアは静かに頷いた。
少しだけ間を置いて、私は口を開く。
「ねぇ」
「うん?」
「他の精霊やルナリアは……?」
ティアとセレスは顔を見合わせた。
「光精霊の一部は、ミストヘイズの奥へ移り住んだ」
「そして、ルナリアと光精霊はね――」
二人は同時に空を見上げる。
「「ここからさらに遥か先の空の上」」
「セレスティアルという街で、『空の監視者』として暮らしているんだよ」
「セレスティアル……?」
「ルナリアの始祖――ルーナとリナが名付けた街」
「この地へ残った娘たちと、種族を越えて、大切だった友を忘れないという想いが込められた街――」
なんだか切ない。
セレスとティア。
街の名前は、二人の名前で――。
大切な友を忘れないという『願い』でもあった。
「ここに残ると決めた私たちは……その場所へ続く道を、最初から知らないの」
長い時間。
残されたのは、その街の名に込められた願いだけだった。
ティアが羽を一枚抜く。
セレスも同じように羽を差し出した。
「これは?」
「私たちの羽」
「少しだけ心を落ち着かせる力があるの」
「お礼」
「それと――」
セレスが透き通る小さな結晶を私へ渡す。
「綺麗……」
「ルシアが最後に零したひとしずく――忘れ形見、『ルシアの涙』」
「そんな大切なもの……」
受け取れない。
そう言いかけた私に、ティアが微笑んだ。
「いいの」
「私たちに必要なのは、終わってしまった過去じゃない」
「これからも誰かが笑って暮らせる世界だから」
「私たちの想いも、一緒に連れて行って」
「ルシアにも、いつかセレスティアルを見せてあげて」
胸がいっぱいになる。
「うん。セレスとティアにもそのときの話を……いつか……また」
言葉を続けたら、感情があふれてしまう気がした。
だから、これ以上話せなかった。
「「約束だよ」」
二人の願いに、気持ちをすっと落ち着かせる。
それから、セレスとティア、遠くにいるルシアに聞こえるように、はっきりとした声で私の想いを伝える。
「ティアとセレスの想いも、ルシアの願いも――きっと、未来まで届ける」
滲んだ視界の向こう側で――。
まるで優しく笑いかけてくれているように、白い彩花が静かに色付いていた。




