第百二話 未知の先
風が止んでいた。
さっきまで揺れていた花々も、今は静かに月明かりの下で揺らぎを失っている。
それなのに――。
光だけは、まだそこに在った。
細くて淡いのに……丘の先へ向かって確かに伸び続けている。
終わりの見えない光の道。
その異質さに、誰一人として、進もうとも、離れようともできないまま、その光景だけを見つめている。
静かすぎる。
それに……音も遠い。
世界そのものが薄く引き延ばされてしまったみたいに現実感だけが曖昧になってしまう。
「…………」
息を吸うときに冷たい空気が肺に入る感覚。
それだけが、かろうじて自分を繋ぎ止めていた。
「ララ」
低い声ーー。
すぐ隣で、ニアがこちらを見ていた。
警戒を解いていない目。
それでもーー。
さっきまでとは違う迷いみたいなものを感じる。
「……まだ、見えてんのか?」
「え……?」
一瞬、意味が分からなかった。
見えている?
何を?
そう思ってから、もう一度光へ視線を向けてみる。
月明かりの中を淡く伸びるあの光の線は、変わらず、静かにそこにある。
「見えている……けれど」
答えた瞬間。
ニアの表情がわずかに強張った。
「……やっぱりか」
小さく漏らされた声。
その意味を問い返すより先に、後ろからソラノアの戸惑った声が重なる。
「ん……待ってくれ。まだ何か……あるのか?」
「……ソラノア?」
「いや、僕にはもう……見えていない」
空気が、静かに止まった気がした。
私は反射みたいにもう一度前を見る。
そこには、やっぱり光がある。
道みたいに、どこまでも先へ続いている。
なのに――。
「……私には、まだ見えている……?」
――そう、呟いた瞬間。
胸の奥で、微かな違和感が静かに脈打った。
――光が、揺れた。
今度は、風のせいじゃない。
ただそこにあるはずの線が、わずかにずれた。
「……っ」
息が詰まった。
見間違いじゃない。
光の位置が、ほんの一瞬だけ入れ替わっていた。
三つの光のうち、ひとつが――違う場所にある。
「今の……」
ニアの声が途中で途切れる。
言葉が続かないまま、眉だけがわずかに動いた。
「……おかしいな」
その直後。
もう一つの光が、ふっと視界から落ちた。
消失ではない。視界の中から滑り落ちたような感覚。
「え……?」
誰かの声が漏れる。
でも、それが誰のものか判然としない。
「いや」
ニアが低く否定する。
「消えてないね」
彼女の言葉を継ぐお姉ちゃん。
「どういう――」
「見え方が、ずれてるだけだ」
私がお姉ちゃんに続こうとしたとき、ニアが割って入った。
意味が追い付かない。
そう思っていたのに――。
次の瞬間、その言葉の意味を理解させられる。
光の数が――そろわない。
ニアの視界では二つ。
ソラノアは、沈黙のまま首を振る。
「……僕は、最初から『形』として見えていない」
その言葉で、空気が一度止まった。
そして、私の視界にだけ、もう一つの変化が起きる。
光が増えたんじゃない。
数え方そのものが変わった。
同じ場所にあるはずのものが、別の位置として認識される。
視線の角度でもなく、距離でもない。
――同じものを見ているはずなのに、重なっていない。
「ララ」
ニアの声が、わずかに低くなる。
「見るな」
「え?」
「それ、見るほど変わる」
その瞬間、光が応答し、こちらを向いた。
線でも面でもない。
ただ、観測に対して反射する。
――そして、世界が一度、静かに裏返った。
音が消えるのではなく、意味が剥がれる。
風はあるのに、風だと認識できない。
距離はあるのに、遠近が成立しない。
なのに、その中で光だけが確かに存在していた。
その光の奥で――地形が変わっていく。
丘の延長線だったはずの場所が、沈み込むように『内側』へ折れ始める。
空間が裂けるのではない。
構造そのものが、反転していく――。
「……っ」
異質な空気。
肌に感じる圧迫感。
外へ伸びる道ではない。
最初から内へと向かう入口。
光の線が、一本の道として成立していた理由。
それは『どこかへ向かっていたから』じゃない。
世界の外縁をなぞることで、内側へ戻るための道標だった。
先に見える巨大な影。
大樹……ただの樹ではない。
地面に根を張っているのではなく――世界の “ 裏側 ” に逆さに立っている構造。
表と裏の境界に刺さるように存在し、外側の世界から見ると丘の先に見える。
でも、本質は、その逆――内側へ潜るための、裂け目の柱。
「……あれが」
ニアの声がかすれる。
「大樹……?」
その言葉に、誰も肯定できない。
なぜなら、それは “ 樹 ” として認識してはいけないものだから……。
枝ではなく、層。
幹ではなく、境界。
そして――その裏側に広がっているもの。
空間が、静かに沈む。
――沈んでいるのは……空間じゃない。
『意識の方向』そのもの。
上を見ているつもりなのに、内側へ落ちていく。
その感覚の中で、光の道はまだ続いていた。
でも……それはもう、道とは呼べない。
――世界の内側へ折れ込むための “ 導線 ” 。
そして私は、気付く。
この光は導いていない。
見える者だけを静かに選り分けている……と。
見ることができる者だけを、内側へ落としている――。
今回で、第六章は終了です。
次回より、第七章「白の彩架」が開始となります。
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