第百一話 光の道
フィリエルの言葉の意味は分からなかった。
言葉だけが、耳の奥に残っている。
風が、強く吹いた。
花が激しく揺れ、月の光も乱れたかのようにちらついている。
そろっているはずの刻印。
繋がっているはずの流れ。
それでも何かが欠けたまま――。
風が収まった瞬間。
石碑の文字が、突然ふっと再び淡く光を帯び始めた。
「な……んだ?」
小さく声を漏らすニア。
さっきと同じ……光?
ーー違う。
今度は、勝手に揺らいでいる。
「おい……勝手に……」
ニアの声は、わずかに強張っている。
止まらない。
収まるどころか、意思を持つみたいに動き出す光。
交わらず、離れず。
一定の距離を保ったままで、ゆっくりと巡っている。
そして――。
三つの光が、ひとつの方向を向いた。
丘の奥。
いや――その先。
何もなかったはずの空間に、細い光の筋が走った。
「道みたい……」
そう感じた瞬間に、声が自然と零れていた。
闇の中に浮かび上がる淡い光の線。
地面をなぞるように続くその光景は、どこか現実からずれているように見える。
光は、揺らぎながら静かに伸びていた。
「……なんだよ、これ」
ニアが低く呟く。
誰も答えなかった。
答えられるはずがない。
ソラノアも、普段なら何か言うはずなのに、今は黙ったまま光を見つめている。
お姉ちゃんもわずかに眉を寄せ、警戒するように辺りへ視線を巡らせていた。
その光は、私たちの意思とは関係なく、ただそこに現れていた。
導いているようで――違う。
示しているようで――どこにも辿り着かない。
ただ、そこに『伸びている』だけ。
フィリエルが、一歩だけ静かに前に出た。
「……導かれている」
小さな声――。
なのに、不思議なくらいはっきりと耳に残る。
私は、その光を見つめる。
どこまでも先へ続く終わりの見えない未知。
本当に――進んでいいのかな。
あの先に、何かがある。
そう感じるのに、確かな理由はどこにもない。
足も、動かなかった。
身体はここにあるのに、その先へ踏み出す勇気だけがどこにもない。
空白のまま、心が取り残されているみたいだった。
「……ララ?」
すぐ近くで、ニアの声が響く。
私は、答えない。
視線が、どうしても光から離れなかった。
まだ見えない何かへ、意識だけが静かに引き寄せられていく。
光は、変わらずそこに続いていた。
――まるで、誰を待つこともなく。
「……なぁ」
低く抑えたままのニアの声が、隣りで落ちた。
「これ……おかしい」
短い言葉。
でも、その違和感だけははっきり伝わった。
「…………」
綺麗だと、思ってしまうから。
怖いとは、どうしても思えないから。
ただ。
進んでいいのかだけが、分からなかった。
「……普通じゃないな」
ニアが続ける。
言葉にならない違和感を無理に押し込めているみたいな声音だった。
その横で、ソラノアが小さく息を呑む。
「……どこか、空気が変だな」
彼にしては珍しく、不安の滲む声。
「なんか……音が遠いね」
ソラノアの違和感に頷きながら、お姉ちゃんも言葉を重ねた。
言われて気付く。
風の音も。
花の揺れる音も。
ーーどこか、薄い。
この場所だけ、世界から少し切り離されてしまったみたい……。
「ララ」
ニアに少しだけ強く呼ばれて、意識が引き戻される。
振り向くと、彼女が真っ直ぐこちらを見ていた。
「……行くなよ」
理由も説明もない、ただの制止。
短い言葉だったのに、ニアの言葉は妙に重く残った。
「……どうして?」
気付けば、問いが零れていた。
ニアは一瞬だけ言葉を詰まらせ、それでも視線を逸らさずに答えた。
「……分かんねぇ」
短く、正直な返答。
「けど、ダメだ。それに……近付くな」
それ以上は、言わない。
言えないのかもしれない。
もう一度、光に視線を戻した。
何も変わっていない。
光はただーー静かにそこに在り続けているだけ。
なのに、どうしてこんなにも引き寄せられるんだろう。
足が、わずかに前へ出かける。
「……っ」
その時だった。
後ろから服の裾を軽く引かれた。
振り返らなくても分かる。
ニアの手だった。
「だから、行くなよって……」
さっきよりも、少し強い声。
無理に引き戻すほど強くはない。
それでも、離さない感触だけが、やけに残った。
私は、動きを止める。
止められたというより――踏み出せなかった。
視線だけが、先へと引き寄せられていく。
光の道。
どこまでも続く、終わりの見えない先。
何かがある気がする。
でも、その “ 何か ” が分からない。
「……おかしいだろ」
低く噛み締めるように、ニアがもう一度呟く。
「おかしい?」
「道ってのはさ……どこかに繋がっているもんだろ」
「そう……だね?」
「これ、違う。……どこにも、繋がってねぇ」
ニアが断言した瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。
繋がりがなく、終わりもないまま伸び続けている。
――それって、本当に『道』……なのかな。
答えは、出ない。
それでも、目を逸らせなかった。
風が、もう一度だけ吹いた。
さっきよりも弱い風に花が揺れ、月の光がわずかに滲んだ。
その中で――。
光の線が、ほんのわずかに脈打つ。
呼吸をするみたいに、一度だけ揺れて、また静かに戻った。
「……見たか?」
ニアの声。
「……うん」
小さく答える。
見間違いじゃない。
確かに今、動いた。
けれど、それ以上は何も起きない。
変わらずただそこに在るだけ。
静寂が落ちる。
誰も動かなかった。
フィリエルは祈るみたいに静かに目を伏せ、お姉ちゃんは周囲への警戒を解かないまま、ソラノアは不安そうに私たちを見比べている。
時間だけがゆっくりと流れていく。
――そのはずだった。
ふと胸の奥に、微かな違和感が触れた。
さっきまでのざわつきとは違う。
もっと淡くて、言葉にならない感覚。
気のせいかもしれない。
そう思って、意識を向けかけて――やめた。
まだ、形にならないただの揺らぎ。
けれど、ほんの一瞬だけ。
その瞬間、光の先がわずかに近付いたような気がした。
錯覚かもしれない。
それなのに、目を離せなかった。
足は動かないまま、視線だけが引き寄せられていく。
進めば、何かがある。そう思ってしまうのに、進む理由はどこにもない。
ただ、そこに在るだけの道。
ただ、伸び続けるだけの光。
私は、その先を見つめ続けていた。
何もできないまま。
何も選べないまま。
ただ――。
気付けば、視線だけがあの光の先を追っていた。
まだ、何も見えていないはずのその先を。




