第百話 消えたはずの光
私は、ゆっくりと目を伏せた。
消えたはずのその光は、確かに “ そこに在った ” と――覚えている。
色も、景色も、匂いも、味も、音も――五感に触れていない。
それでも、ほんの一瞬だけ何かが満ちたはずなのに、その光はどこにも残らない。
重なっていた手の中心。
さっきまで光があった場所には、もう何もない。
刻印はそろっている。流れも繋がっている。
それでも、やっぱり何かが足りない。
違和感とは違う、もっとはっきりした “ 欠落 ”。
還る場所も、残る意味もある。
すべては巡り、繋がっている。
なのに――その先が、どこにもない。
巡るだけの世界。
ここには、『進む』という感覚そのものが存在していない。
「……ララ?」
ニアの声が、遠くに聞こえる。
私は顔を上げないまま、小さく息を吐いた。
「ねえ、ニア。ここってさ……」
私は、静かに呟いた。
言葉を探す。
けれど、うまく見つからない。
だから、そのまま口にした。
「戻ることは、できるのに……先に、進めない」
気付いたら、指先に力が入っていた。
その瞬間。
心の一番奥底、深い闇が満ちた場所が強く軋んだ。
――ああ。そうだ。これは……。
違う。これは、世界の仕組みじゃない。
もっと、単純なこと。
私は――。
――その先を、持っていない……。
手を伸ばせば届きそうで――届かない距離。
あの向こう側に先があることは分かっているのに、私はそれを知らない。
思い出せないんじゃない。
最初から、そこにない。
胸の奥には――何もない。
夢を見ない夜。
何も映らない、静かな暗闇。
それと同じ空白が、ずっと底にある。
月は、満ちているのに――。
空に光が欠けている。
ただ、暗闇の中に白い色が見えるだけ。
だから、ニアの言葉がすっと胸に落ちた。
でも、それと同時に、『先に、進む』という言葉が心のどこかに引っかかっていた。
――さっきの光は、形にならなかった。
満ちたはずのものが、留まれなかった。
――私の中に、それがなかった。
「…………」
息だけが零れる。
風が、丘を撫でる。
花が揺れ、月の光が静かに流れていく。
すべては、正しく巡っている。
それでも、私の中だけが、どこにも繋がっていない。
重ねていた手を、そっとほどくと……。
指先に残るわずかな温もり。
それすらも、すぐに夜に溶けてしまう。
私はもう一度、空を見上げた。
大きな月。
その向こう側にある、“ まだ見えない何か ”。
心の奥が、小さく震えた。
――欲しい。
――ふれたい。
――諦めたくない。
その想いは、消えていない。
消えたはずの光――。
私の中に、灯ったままの空白の輝き……。
ただひとつだけ、確かなこと。
それは、『ここにはない』ということ。
――その事実だけが、私の心に残り続けていた。
風が再び丘を撫でていく。
揺れていた花々も、次第に落ち着きを取り戻していた。
手をほどいたあとも、皆その場に留まったまま。
月の光だけが、変わらずそこにあった。
「……なぁ」
「ニア、どうかした?」
「ちょっと変な話、していいか?」
「変な話って?」
「いや……さっきのさ」
石碑の方を顎で示しながら、ニアが続ける。
「全部、繋がってたよな」
「うん……」
「還るとか、残るとか……正直、難しいことはよく分からない。けどさ――」
そこで一度、言葉が切れる。
「でも――あたしは、先に進みたいって思うけどな」
その言葉がすっと胸に落ちた。
でも、『先に進む』という言葉は、やっぱりどこかに引っかかる。
「ニア……」
「戻るのも、悪くないと思うんだよ。残るのも、たぶん意味があるんだろうし」
空を見上げたまま、ニアが続ける。
「でも、それだけじゃ足りない気がするんだよな。だからさ、その先に行きたいって思う」
その言葉に、私は小さく息を止めた。
私の足りなさと――同じだ。
理由なんていらない。ただそう思える迷いのない声だった。
ニアが、ゆっくりと視線を戻す。
「……そっか」
「ニアらしいな」
「なんだよ、そのいやらしいみたいな反応は?」
「いい意味で言ったのに、残念すぎるところがニアさんだね……」
「メルト、てめぇ!」
少しだけ笑い合う二人。
その空気は、どこかあたたかくて――自然だった。
「ララちゃんは、どうしたいの?」
不意に、真剣なまなざしをこちらに向けるお姉ちゃん。
逃げ場のない、優しい問いが私に投げかけられる。
「……え」
言葉が出ない。
『どうしたい?』
その意味は、分かる。
行きたい場所も。
なりたいものも。
進みたい先も。
……あるはずなのに、何も浮かばない。
「……私は」
口を開いたものの、その先が見えない。
たったひとつの言葉さえも、見付からない。
「…………」
ニアも、お姉ちゃんも、何も言わずに――待っている。
その優しさが、少しだけ苦しかった。
長い沈黙だけが、続いた。
それから、ゆっくりと視線を伏せて声を落とした。
「……分からない」
……やっと出てきた答えだった。
風が、また流れた。
すべては、変わらず巡っている。
それでも、欠けている。
しばらく、誰も言葉を口にしなかった。
「……でもさ、別に、すげぇことじゃなくていいと思うんだよな」
ニアが、軽く地面を蹴った。
「なんていうか……ああいうの、もう見たくねぇし」
……ああいうの――クロノハデスで見た光景……。
崩れた街。倒れた人。助けを求める声。
「そう……だね」
ニアが、ふっと顔を上げる。
「もうちょっとマシな方向に進めたら、それで十分じゃねぇか?」
少しだけ照れたように笑う。
「ニアにしては、まともなことをいうね」
ニアの言葉は、軽いのに不思議と重かった。
お姉ちゃんの言葉も、ちゃんと届いていた。
それはきっと――。
自分で選んでいる言葉だから。
「『しては』ってなんだよ」
ニアが食い下がる。
でも、お姉ちゃんは気にした様子もなく、私に向き直った。
「私はね……ララちゃんが、ちゃんと心から笑えるようになって欲しいなって、いつも思ってるよ」
「え……」
不意を突く言葉に、思わず私は顔を上げた。
そんな私の様子に、お姉ちゃんは、少しだけ困ったように笑った。
「ほら、ララちゃんって、頑張りすぎるから」
「そんなこと……」
「あるよ」
「あるだろ」
「だからね」
少しだけ間を置いて、お姉ちゃんが続ける。
「ララちゃんが、ちゃんと “ 自分で選んで進める ” ようになるなら――私は、それを支えたい」
ニアとは違う。
……でも、同じだった。
どちらも――止まっていない。
私は、ふたりを見た。
お姉ちゃん。ニア。
それぞれが、違うものを見ている。
でも、ちゃんと、“ 先 ” を見ている。
そのときにも、気付いてしまう。
私は、何も見ていない。
夜空を満たす月の光。
その奥――まだ触れられない “ 先 ”。
でも、私はそれを知らない。
知らないまま――ここにいる。
「……欠けているから、届くものもある」
フィリエルが、静かに言った。
その一言は、さっきのやりとりだけじゃない。
もっと前から、ずっと手の届かなかったものに、どこか重なっている気がした。
それなら私はまだ――進める。
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