第七話 何もないのに
六月に入って、日が長くなった。
放課後の教室に西日が入るようになって、黒板の右端が白く光る時間が夕方まで続くようになった。五月のころより一時間分くらい、明るい時間が伸びた。
朝倉との距離も、少しだけ変わっていた。朝のおはようが自然になった。係の確認をするとき、一呼吸置かずに答えが来るようになった。昼休みに図書室の前を通ると、たまに朝倉が中にいることがあった。そのくらいの小さい一致が、前より増えていた。
字幕も、恒一と目が合っただけで崩れることは減っていた。『このくらいでいい』や『いても平気』が出るときは、朝倉の肩が少し下がっている。構えていないときの姿勢だ。
久我が「最近どうなの」と聞いてきたが、「どうもない」と答えた。字幕には『まあそうだろうな』と出ていたので、それ以上は来なかった。
その日の午後、三時間目の化学で実験があった。薬品のにおいが廊下まで出ていて、教室に戻っても少し残っていた。袖口に何かついた気がして確認したが、何もなかった。そういう日だった。
朝倉は理科の授業で別のグループだった。四人組で何か話しながら実験をしていたが、距離があって字幕は読めなかった。笑っていた。こちらは見ていなかった。
昼休みは久我と教室で食べた。久我がゲームの話をしていて、恒一は適当に相槌を打った。弁当の卵焼きが今日は甘くなかった。母親の気分で変わる。米が少し多かった。どうでもいいことだけが積み重なる日だった。
その日は係の日誌を職員室に持っていく番だった。
朝倉が一冊、恒一がもう一冊持って、二人で廊下を歩いた。放課後でまだ人が多く、部活に向かう生徒が横をすり抜けていった。
職員室に届けて、出てきた。用事はそれで終わりだった。
廊下の窓から、グラウンドが見えた。野球部が声を出しながら走っていて、ボールを投げる音が断続的に届いた。西日がグラウンドの土を橙色に染めていた。
「帰るか」と恒一が言った。
「うん」と朝倉が答えた。それから少し間があった。
「……ちょっとだけ、いい?」
恒一は朝倉を見た。廊下に立ったまま、朝倉は窓の外を向いていた。
「ここで?」
「教室、もう人いないから」
戻った。教室は朝倉の言う通り、ほとんど誰もいなかった。残っていた男子が一人、鞄を持って出ていくところだった。扉が閉まると、室内の音が変わった。外の声と、遠くから来るグラウンドの音だけになった。
朝倉は自分の席に鞄を置いたまま、立っていた。恒一は隣の列の椅子を引いて、座った。机と机のあいだは一メートルもなかった。西日が教室の端を照らしていて、朝倉の立っているあたりだけ影になっていた。
字幕。
『言いたくない』
すぐ次が出た。
『でも』
恒一は何も言わなかった。聞く姿勢を作ることもしなかった。ただ椅子に座って、窓の外を少し見た。野球部の声が遠く届いている。朝倉が話し始めるかどうかは、朝倉が決めることだ。
朝倉が口を開いた。
「中学のとき、ちょっと仲良く話してた男子がいて」
「うん」
「別に、なんもなかった。向こうがどう思ってたかは知らないけど、わたしはまだ何も、決まってなかった」
声は低くなかった。でも一語一語の間が、普段より少し空いていた。
「なのに、周りが先に決めた。なんか付き合いそう、とか。あの二人いつも一緒、とか」
「それで?」
「噂になった。廊下で名前呼ばれたり、メッセージが来たり。悪気ないんだろうけど、なんか全部が勝手に動いてた」
字幕が出た。
『勝手に決まる』
「で、そのうち女子グループの空気が変になって。その子のこと好きな子がいたらしくて、わたしが横取りしたみたいな感じになって」
「横取りしてないだろ」
「してない。でも空気はそうなってた」
恒一は特に返さなかった。
「それで友達と、ぎくしゃくして。その子とも普通に話せなくなって。最後はお互い関わらないようにして終わった」
「付き合ってもないし、何も決まってなかったのに」
朝倉は少し間を置いた。
「なんか、終わったみたいになってた」
「それは面倒だな」
短く返した。
朝倉がこちらを見た。何かを確認するような顔だった。恒一はそれ以上何も言わなかった。励ます言葉も、共感する言葉も、出さなかった。
「面倒、ね」と朝倉がつぶやいた。
「他の言い方がなかった」
「いや、なんか」
少し間があった。
「それが一番正しいかも」
字幕。
『変に決めない』
朝倉がもう一度口を開いた。
「だから、ああいう空気になると、もうその先が見える。みんながどう動くか分かって、どうなるか分かって、全部嫌になる」
「先が見えてる方がしんどいな」
「うん」
朝倉はそれだけ言った。
「だから最初に離した方が楽だった。名取くんのことも」
「そうだろうな」
「怒らないの」
「なんで」
「雑に扱ってたのに」
恒一は少し考えた。雑だったかどうかは、あまりそう感じていなかった。ただ、朝倉が警戒していたのはずっと分かっていた。怒るという選択肢が、最初からなかった。
「別に」と言った。
「事情があるなら仕方ない」
朝倉がまた黙った。長めの間だった。窓の外でグラウンドの声が上がって、また静かになった。
字幕。
『言いすぎた』
次が来た。
『まだ大丈夫』
朝倉が鞄を持った。帰るつもりらしかった。恒一も立ち上がった。
扉の前まで来て、朝倉が少し足を止めた。扉に手をかけたまま、廊下の方を見ている。
「名取くんって」
「何」
「勝手に決めないね」
「そうか」
「うん」
朝倉は扉を開けた。廊下の光と声が入ってきた。
「なんか、ずるい」
「どのへんが」
「踏み込まないくせに、話させる」
恒一は返す言葉がなかった。反論する気もなかった。踏み込まないのは事実で、それで話してもらえたのも事実だ。
廊下に出た。下校の生徒が行き来していた。朝倉が歩き始めて、恒一もその後ろに続いた。並んで歩くには廊下が少し狭かった。
階段を下りながら、恒一は朝倉の後頭部を少し見た。字幕は出ていなかった。この角度では出ない。
下駄箱で靴を替えながら、朝倉が言った。
「ありがとう」
「聞いただけだ」
「それがよかった」
外に出ると、西日がアスファルトを照らしていた。六月の夕方で、空の色がまだ白みがかっていた。ソメイヨシノはもう葉だけになっていて、入学のときとは別の木みたいに見えた。
朝倉が「じゃあ」と言って、北の方向に歩き出した。
恒一は少し遅れて歩き出した。




